唾を吐く燕雀
ツイッターを見ていると色々な漫画が流れてくる。公式がPRのために商業作品を掲載したもの、デビューを目指す若手作家が作ったオリジナル、人気作品の二次創作など多彩である。その中でも異彩を放っていて、今でも鮮明に思い出せる漫画がある。同人作品の値段が商業作品と同じなのはおかしい、というクレームに対して描かれた漫画だ。(リンク→https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1902/19/news115.html)何故記憶に残ったのかといえば、その漫画が大分同人作家びいきの内容だったからだ。例えば商業側では編集者が楽しそうに会議で企画を出し、「これで給料もらい~」と懐に入る額を想像して胸を躍らせている様子が描かれている。一方同人側では、見返りがないにも関わらず必死でアイデアを出し、売れたとしても赤字に苦しむ同人作家の姿が描かれている。さらにリンクは探しても見つからなかったが、フリー素材のイラストを使って同人作家の偉大さを解説、というよりプロパガンダ的に宣伝しているものもあった。曰く、「同人作家さん達は商業作品で担当、作家、印刷業、販売と何人も関わっている過程を一人で全てやっているからスゴい」というものだ。両者ともにツイッターでは賛同する意見が圧倒的に多かったが、私は強い嫌悪感を憶えずにはいられなかった。主に2つの理由がある。
一つは商業作家への蔑視だ。上の例は2つとも、「商業は会社がバックにいるからラク」「商業は色んな人間が分担しているからラク」といった先入観にとらわれているように思われる。しかし、当たり前のことだが、商業作家や編集者がラクなはずはない。商業というのはお客様との信頼関係で成り立つ。お金を受け取る以上、面白いものを提供する義務が商業側にはあるのだ。提供する義務を怠る、すなわちつまらない作品を提供してしまった場合、作家は打ちきり、編集者は責任を取らされて減俸や降格、左遷などの罰を受ける。そうならないために、漫画家や小説家はレッドブルを飲んで締め切りギリギリまで原稿と格闘し、編集者はそれに合わせて昼夜逆転生活を送るようになる。故手塚治虫先生も、徹夜を繰り返したがために若くして亡くなられた。文字通り命を削って作品を作っていたのだ。同人作家はそこまで命を削って描いている人はいるのだろうか?仕事の片手間に趣味で描いている人間が、商業作家を「ラクだ」と評価できる権利がどこにあるのだろうか?
もう一つは同人作家、つまり描いている自分自身の美化が激しすぎるところだ。同人活動というのは、基本的に趣味で行っているはずである。にもかかわらず、なぜか苦しさやつらさ、自分のやっていることの偉大さを前面に押し出している。話は変わるが、私の父は山が趣味で暇さえあれば山に登っている。登った後に話を聞かせてくれる。その際、足が痛いとか登るのが辛かったという苦労話より、景色が美しかったとかこんな動物がいたなどの楽しい話を沢山聞かせてくれる。趣味活動への感想は基本的に楽しいものになるはずなのに、何故同人作家たちは苦労話や自分の偉大さを押し出そうとするのだろうか? 個人的な見解だが、創作活動という趣味の特異性にあると思う。創作活動を行い、偉大なクリエイター(恐らく漫画家が多いだろう)に自分を重ね合わせることで、彼らの苦労を自己投影して悦に浸っているのではないだろうか。その際の(非常に汚い言い方をするならば)オカズは、漫画家などが巻末で語っている苦労話だろう。上記のように商業作家を蔑視したような振る舞いをしたにも関わらず、安っぽいプライドを保つために商業作家の苦労を盗んでいるのだ。このダブルスタンダードっぷりこそ、私が彼らに憤る理由である。
上記2つの主張は1次創作、すなわちオリジナルの同人誌ならばまだかろうじて成立するレベルのものだと思う。最悪なケースとしては、この主張を2次創作の同人誌に当てはめている人間が居た場合だ。商業作品からキャラクターと世界観を拝借しながら、それらを貶め、下に見るような件の漫画に賛同するような恥知らずな2次創作家及びそのファンはいるのだろうか?私は居ないと信じたい。信じたいが、事実は小説よりも奇なのだ。