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尊いとエモいの恐怖

 私は百合作品が大好きである。商業作品として出版されているものも読むが、Twitter上に趣味で百合マンガを掲載してくださる方達もいる。それをありがたく拝見していると、ふと下にぶら下がるリプライが目に入る。どんな作品でも、結構な数のリプライが「尊い…」と一言呟いているものか、様々なキャラクターが同様に「尊い…」と言っていたり、作品の素晴らしさに対して様々なリアクション(しかもかなりオーバーである)をしているものである。「尊い」を文字通り受け取るならば、その作品はある種の畏怖を抱いてしまうほど崇高で特別なモノである、ということで、最上級の褒め言葉だろう。しかし一人や二人ならまだしも、全員が全員同じようなリアクションを、しかも単一の作品ではなく様々なマンガでしているのは気味が悪く感じてしまうのだ。

 「尊い」以外にも、サブカルチャー界隈で感想によく使われる言葉がある。「エモい」だ。英語のemotionalの最初の三文字をとって作られたこの造語は、「感動した」と同じような意味合いで使われる。私の観測範囲内ではあるが、主に作品の内容などを個人的に分析、考察して、その最後に「エモい」を付けるのが主流なようである。例を挙げるならば、「魔人探偵脳噛ネウロで、怪盗サイの最後の姿が『最後の自分像』と同じなの、最高にエモい ※1」といった感じである。尊いもエモいも何故これほど多くの人々に使われるのだろうか? 私は、恐怖が深く関わっているのではないか、と推測する。

 少し話が横道に逸れてしまうが、古くからインターネット上では「長文」は避けられてきたように思える。某匿名掲示板では、「今北産業」というスラングが存在する。「今このスレッドに来たけど、どういうことになってるか分からないから3行以内で教えて」というものである。それ以外にも長文を書き込むと、「長いから3行でまとめろ」辛辣なレスが飛んでくる。このように文章をできるだけ短くしようとする傾向には、「頭が悪い奴は話を要約できないから文章が長くなるが、頭が良い奴は短い言葉で言いたいことをズバリと言える」という考えがインターネットの住人全体に流れているからではないだろうか、と推測する。確かに、仕事の報告文書や論文、レポートなどは余計な話を入れて文章を長くすることより、簡潔に要点をまとめることが求められるだろう。しかし、この法則は必ずどこでも通用するわけではない。

 今から二つの文章を提示する。どちらも同じ架空の映画についての感想である。

A.「〇〇を見ました。映像に迫力があってストーリーも面白かったです。」

B.「〇〇を見ました。映像はまるで現地にいるかのような臨場感があり、非常に興奮しました。緻密に構成された無駄のないストーリーには、最初から最後まで驚かされっぱなしでした。」

上記の法則に従えば、長ったらしいBの文章よりも短くまとめたAの文章の方が高評価だろう。しかし何故かAの文章は幼稚な印象を受ける。なぜか?報告書など結果を端的に伝えるのが目的の文章と違って、感想文は「その作品の魅力を伝える」ということが目的である。つまり文を短くまとめることよりも、文を読んで作品に興味を惹かせることの方が重要なのだ。感想文では、作品がより魅力的に見えるように文章にデコレーションを施していく。このデコレーションには、語彙力や表現力など、伝える力がより重要になってくる。この部分だけ見れば、上記の短く纏める作業とは反対のことをしているのだ。※2

 「短い文章を書く人間の方が頭が良い」という考えは、内容を要約したり本筋を的確に見いだす力を支援するかもしれない。しかし、カラスが空を飛べる代わりに人のように素早く走れないのと同様、進化にはトレードオフが存在する。この場合は、上記の能力と引き替えに語彙と表現力を失った。短い文章に語彙力や物事を上手く形容する力は不要、むしろ邪魔になる恐れがあるからである。そしてこの語彙力の喪失は、後々大きな問題をを引き起こす。

 サブカルチャーのコミュニティの中心が匿名掲示板からTwitterなどのSNSに移行し、ある変化が起こった。一人につき一人のアカウントを保有することで、ネットの住人は「一つの細胞」から「個体」になった。アイコンという顔とアカウント名という名前を得たことで、ある種の自我が生まれたのだ。自我が生まれれば自尊心がより強くなる。つまりはかっこつけたくなる。そして、1個人としてコンテンツの魅力を発信したり感想を述べたりする際に、上記の語彙力の喪失が問題となってくる。上手に感想や魅力を伝えられず、どうしても「良かった」や「面白かった」といった平凡な感想しか絞り出せなくなるのだ。芽生えた自尊心は、自分がそのような感想しか伝えられない薄っぺらい人間であることを許さない。よりオーバーに表現するならば、未知に対する恐怖と言ったところだろうか。今までの手段(短く端的に伝えること)では解決できない敵(感想を述べること)に対して恐れを抱くのだ。この恐怖を克服するために尊いとエモいは生まれたのではないだろうか?

 表現できない、ということは今までの考えが通じないということに加え、「正体が分からない」という恐ろしさも加わる。それに取りあえず尊いやエモいといった名前をつけて正体不明の恐怖だけは逃れようとしているのだ。「良かった、面白かった」よりも「尊い、エモい」の方が専門的で何かかっこいい感じもするから、自身のメンツもある程度は守れる。尊い、エモいの繁栄にはこのような背景があると、私は推測する。

 聡い方ならもう既にお気づきだろうが、このことはなんの解決にもなっていない。語彙力や表現力の不足は解決していないままだし、良かったや面白かったが尊いやエモいになっただけである。分からないものをわからないまま一つのゴミ箱に入れてフタをし、見ないフリをしているだけなのだ。そしてゴミ箱の容量がオーバーする、つまり尊いやエモいが良かったや面白かったと同じくらい普及してしまったときに、再度ふりだしに戻るのだ。

 事実、尊いやエモいを嫌悪する勢力がネット上で現れ始めている。次に犠牲となる言葉はどれだろうか。そして、理性を失った怪物がごとく、行く手にある言葉を消費し続けるこの大きなうねりの末路は、果たしてどのような結末を迎えるのか。

※1 この考察はネットで適当に拾ったものなので、真偽は不明である。だが、松井先生ならばそこまで考えていそうな信頼感がある。

※2 逆と書いたが、両者は絶対的に対立しているわけではない。感想文でも不必要に長くなりすぎてはいけないため、短く要点をまとめることが必要となる局面も出てくるだろうし、短くまとめるために語彙や表現力が必要な場合もあるだろう。

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