ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
イギリスで6月の話題と言えば、第三週に行われるロイヤル・ミーティングである。
ロイヤル・アスコットとも呼ばれるこの途方もなく金をかけた上品な賭け事は、英国王室が主催することもあって貴族の間では名誉と威信を高める夏の大イベントとされている。
貴族籍を持たない者や庶民にとって観覧席は垂涎の的。天井知らずの希少価値と合わさり、遊び半分に噂する、ネッシー級の幻の逸品とされていた。
この四日間に動く金は、軽く某国の国家予算を越え、悲喜こもごもな王室のドラマを間近で見たいという無粋な輩も少なくない。
とは言え、中にはまったく興味の無い貴族もいる。
「ねむい……」
茶髪の青年は眼鏡をかけたまま、小さな事務所の片隅で、うつらうつらと舟をこぐ。
六月はポカポカ陽気。
風は涼しく、流れる雲は美味しそうだ。
そう考えると、リチャードは少しばかり西へ行きたくなった。
例えばウィンザーの城を越えてオックスフォードまで赴けば、田園の青々とした牧草や柳の茂った川辺で素敵な昼寝が出来るに違いない。
綺麗な馬は見たいが、伯爵籍を持つライン家の席はロイヤル・エンクロージャーか、クイーン・アン・エンクロージャーに用意される。
堅苦しいマナーとお洒落をしてまで、ロイヤル・アスコットは行きたい場所ではない。
「それにレディース・デイだしねぇ」
リチャードが気軽に誘え、なおかつエスコートができる家柄の女性といえば数人しかいない。
「馬と観客を怪我させるわけにはいかないもの」
そして、その数人全員が思考回路がぶっとんだ危険なお嬢さんであるのはいかなる理由か。此処に彼の兄がいれば類は友を呼ぶ、とでも言ったのかもしれないが、残念な事に誰もいなかった。
「見ている内に、出走したいとか言い出しかねないし」
いや、絶対に言う。間違いなく言う。ついでに事件を起こす。リチャードには確信があった。
リチャードは貴族である。
貴族なのに、どうしてこんなロンドンの外れにいて、しかも一般民家を改装した探偵事務所でのんべんだらりと秘書まがいの仕事をしているかと問われると長い話になる。
とにかく、殺人犯に成り損ねた元伯爵様は兄に爵位を返還して、ロンドンの片隅で探偵秘書をしている。
彼は元殺人犯ではあるが、可能な限り英国と知人を危険にさらす真似はしたくないという穏健派である。
むしろ怒らせない限りは最も穏やかな紳士であるだろう。
彼が怒るのは食べ物が粗末にされた時と動物が虐待された時ぐらいだ。
「あ、そうだ。市場に苺を買いに行かないと。旬の果物は見逃せないよね」
そんなリチャードには弱点はある。
ひとつは誤解されやすいこと。
そしてもうひとつは、誤解を加速する行動や言動をしがちだということだ。
「そこのひとー。大丈夫ですかー? 大丈夫じゃないですねー。……死んでますねー?」
「キャーッ!!」
と言う訳で、自称穏健派なリチャードは紙袋を片手に遠くをみやった。
こんな事なら素直に競馬に行けばよかった。
そうしたら死体に出くわす事もなかったのに。
記憶は連続しているし、意識はしっかりしている。
だから自分は殺していないと胸を張って言えるのだが、残念ながら目の前の男性はしっかりばっちり死んでいる。
仰向けだった身体をひっくり返した拍子に青紫色の顔とご対面だ。
チアノーゼ。しかも筋肉が固い。パリパリと乾いた血がついた己の手を見てリチャードは驚いた。
「血が出ていたんだ。気づかなかったな……」
量が少ないせいと、近くに精肉屋があるせいだろう。
血の匂いに気づかなかったと悔いるように頭を振る。
のんびりとした言動と冷静さは、死体を前にした反応としてはあまりにも不気味で、それがナチュラルボーン・サイコパスと呼ばれる要因だとリチャードは知らない。
「人殺しー!!」
再度の悲鳴にリチャードは自分の迂闊さを反省した。
(逃げれば良かったなぁ。いや、疑われるから現場から逃げてはダメなんだっけ? うん、確かそうだった)
「何だ、誰の悲鳴だ!?」
「あいつよ!」
「あの、僕はですね」
「来ないで!!」
「えっと」
「怪しい奴はどこだ!!」
「あの」
「あいつが刺したのよ、この人殺し!」
「えぇー?」
――人殺し。
そう言われると、リチャードは反射的に「はい、そうです!」と答えてしまいそうになる。しかも、元気よく。しかしそう言ってはダメなのだと何度も言い聞かせられていた。
「あれぇ?」
やってもいない殺人の自白衝動をこらえるのに精いっぱいで、気がつけばリチャードは地下牢の住民になっていた。
頑丈な、地下の石牢に入るのは久しぶりである。
「いつもは外の留置場なのに、中かぁ」
留置場の違いによって刑量を推し量れる程度には、収監の常連さんである。殺人犯扱いされているのは疑いようもない。
「誤解なのになぁ」
誤解だが、必死に否定しなかった自分にも非があるとリチャードは考えた。
一応は貴族なのだ。そうだとバレてしまえば、捕まえた巡査が絞首刑になってしまう。
それはいけない。
自分のミスで他人に迷惑をかけてはいけない。
幸い地下牢からの脱獄には慣れている。
しかし絶対にやるなよ絶対だぞ誤解が加速するからと厳命を受けていた、ような気もする。
「うんうん」
となると、こっそり疑いをはらすのが自然で良いのだろう。それに買った苺を新鮮な内に食べなければ。生クリームと砂糖を塗したそれを見るまでは死ねないのだと意気込む。
「しかし、どうやって疑いを晴らそうか」
そう考えこんでいた所に声がかかった。
「兄ちゃん、一体何をやったんだい」
看守代わりの牢番だ。椅子に座り、見せつける様にジャラジャラと鍵の束で遊んでいる。
「あ」
彼の事を何度か絞首刑台で見たことがあるリチャードは軽く頭を下げた。
「こんにちは。今日は良い絞首刑日和ですね」
「お、おう?」
相手のギョッとした様子に、また話題の選択を間違えたのだろうかとリチャードは首を傾げた。
とにかく、話を聞いてもらえそうな人で良かったと鉄格子に近づく。
「それが誤解なんです。苺を買いに来たら人が倒れてて。起こしてみたらもう死んでいたんです」
「おうおう、人殺しはみんなそう言うんだ」
まったく信じていない様子の牢番に、珍しくリチャードは声を荒げた。荒げたと言っても、蚊のような声のボリュームがコマドリの囀り程度になっただけなのだが。
「それでですね! 犯人だと思う女性が悲鳴をあげたせいで僕は捕まっちゃったんです」
「おうおう、人殺しは大体そう言う……何だって?」
ようやく興味を引けたようだとリチャードは胸をなでおろした。
「ですから。犯人だと思う女性が」
「そこはもういい。お前は、どうしてそう思ったんだ?」
「僕が起こした男性、顔が腫れていて青紫色だったんですよ。普通、青紫色の死体を見たら溺死か絞殺か、喉に何か詰まらせたか。とにかく、窒息して死んじゃったんだって思いますよね?」
「普通は死体を見てそこまで思いやしないが、まあ続けろ」
「それなのに、あの女性は『あいつが刺した』って言ったんです。僕ですら、最初は出血していた事に気づかなかったのに。そもそも、彼が死んだ要因は他殺じゃなくて酔っ払いの突然死かもしれないし、病死だったのかもしれない。道でうつぶせだったあの状態では、死んでいるのか倒れているだけなのか。その判別すらつきませんでした。僕ですら」
「お前さんがどうして自信をもって『僕ですら』と言うのかさっぱり謎なんだが、まあ続けろ」
「なのに彼女は他殺だと断言し、僕を犯人と呼びました。僕はやっていないし、僕が警察に捕まって得する人なんて本当の犯人以外いないでしょう? そう思ったので、捕まる前に、死んでいた男性の服を調べてみたんです。そうしたら胸元に小さな穴が開いていました。キリで開けたみたいな穴です。恐らく、凶器の傷でしょう。切っ先が肺に傷をつけたせいか、とにかく彼は呼吸ができずに死んでしまった。でも彼女は咄嗟に、分かりづらい方の……正確な死因を言い当ててしまったんです。自分がやったから」
「しかし、それじゃあ犯人の女は現場からもう立ち去ってしまったんじゃあないか?」
「そうかもしれません。でも、僕なら近くの仕立屋さんに聞いてみます。期間限定で出稼ぎに来ている若い娘さんで、今すぐ帰ろうとしている子がいないかって」
「それは何故だ?」
「死体の刺し傷、裁縫に使う目打ちにそっくりでした。ロイヤル・アスコットが近いから、ロンドンの服飾店は今、ドレスや紳士服を仕立てるのに大忙しです。下町にはお金が欲しい出稼ぎのお嬢さんが、たくさん集まっています。田舎から来た純朴な彼女たちは厄介事に巻き込まれやすいし、騙されやすい。何か事件を起こしたなら、ロンドンを離れてしまうのが安全です。足取りを追う事は難しいですからね。それにロイヤル・アスコットのチケット争奪戦に一度も参加せず、さっさと帰ってしまう人なんて、僕は知りません」
自らのことはさておいて、リチャードはそう言った。
牢番らしき男はたっぷりと沈黙した後、ぽつりと言った。
「そう言えばお前、どこかで見た顔だな?」
「実は僕、ロンドンで探偵助手をしていまして」
「思い出したぞ! お前、レイヴンの所の、ぼんやり秘書だな。こんなところで何やってんだ? まぁ、いい。さっさと出ろ」
「えぇぇぇぇぇ?」
こうして。
どこか釈然としない想いと苺の入った買い物鞄を抱えながら、リチャードは釈放されたのであった。
「という訳で、苺です。ちょっと潰れてますが」
「お使いに行くだけで、どうしてそんな大冒険になるんですか?」
ソファに寄りかかったまま呆れた視線を向けるのは雇用主。時には、リチャードの実の兄だったりする男である。
「いえ、今回は……素直に戻ってきたことを喜びましょう」
「ありがとうございます」
全体的に薄汚れ、よれっとした恰好の秘書を見て、さっさと着替えろと手で追い払う。
リチャードが部屋から出ていくと、探偵は、レイヴンは、どっと鳴る心臓とキリキリする胃を押さえつけた。
「今回は脱走しなかった……! 本当に良かった……っ!!」
リチャードは成長している。日々、一応、人間として。
一般常識としては凄く低いレベルの話ではあるが、脱獄する/しないでは、その後の始末の仕方がまったく異なるのだ。
「まだ、話せば分かる……、ということですか」
探偵もまた、変わりゆく一人であった。
この偏屈で傲岸不遜な皮肉屋が、他人を案じるようになっただけでも、大きな進歩といえる。
「いや、しかし。最近、外出やイベントごとに人が死んでいる気がするのですが……気のせいでしょうか」
レイヴンは気づかない。
それは自分にも言える事であるし、大抵、殺人事件を捜査する探偵とはそういうものである。
今日も世界のどこかで、トリックの一つとしてパカッと人が死んでいるのだ。