1話
安心して生きる。安全な生活。そういったものがどれほど貴重で、どれほど尊いものなのかを考えた事はあるだろうか。よしんば考えたとして、それを実感するような事は人生の内にどれほどあるだろうか。
僕がこれまでのそれなりに短い生涯を送ってきた世界。科学が発達し、奇跡も魔法も摩訶不思議な事はそう起こりえない世界であっても、僕のような臆病な人間は常に怯えて過ごして居た。
明日隕石が降ってきて、突然世界が滅びるかもしれない。宝くじの当選確率よりも交通事故に遭う確率の方が高くて、もしかしたら押し込み強盗に刺されて死ぬかもしれない。
恐怖から逃れるために打てる手の少なさこそがそれに拍車をかけていた訳だけれども、どれだけ気を付けたところでどうしようもない事は多い。むしろ逃避のために意識を向けないのが悪いともいう。
だからむしろ、転落していくホームで僕が感じたのはついに来たかというような納得と、これ以上もう怖がらなくても良いという安堵だった。視界がスローになるだとかそんな事も一切なく、アップになった車両の先頭を見た瞬間にはs
……つまり、そんな僕が異世界なんていう場所に産まれて最初に感じた感情は、喜びでも悲しみでも無く、ただ単に恐怖であった。
赤ん坊に意識が、なんて言うと誰か別の人間を乗っ取っただとかいう葛藤が生まれる人間もいるかもしれないが、僕からしてみればそれはとても贅沢な話だ。悩んでいる間は恐怖と向き合わずに済んでしまう。
例えばの話をしよう。有名な漫画の話だ。その世界はそれなりに現代みたいな文明の発達した場所があって、そこで普通に生活している人達がいる。けれどもその世界には実は危険が異常なまでに存在していて、人類が存続しているのは偶然らしい。
暗殺者だとかが普通に居るのは良いとして、能力次第では無差別に人が死んでいくようなモノが存在し、しかも実は人間の生息地は湖に浮かぶ島のようなもので、その外にはいつ人類が滅んでもおかしくない存在が犇めいている。
もしそんな世界に産まれてしまったとして、何も知らなければどうという事は無いかもしれない。むしろ前世だってブラックホールだのといった危険は知らなければ存在しないのと一緒だ。
でも、僕はそんなものが存在するかもしれないし、次の瞬間にはまた死ぬかもしれないという事を知ってしまっている。
蒼く輝く月が特異な物ではなく、むしろ恒常的な物であると知った時の絶望はどれ程だっただろうか。泣く僕をあやす女性は月が怖いのかと勘違いしていたが、恐怖の対象は世界そのものだ。
既存の知識が役に立たないかもしれない。未知は危険であり恐怖だ。まして世界そのものが異なるとなれば、物理法則だって当てにはできない。次の瞬間に世界中から酸素が無くなるとか、そんな突拍子も無い事だって起こってもおかしくないのだから。
でも、生まれ変わったのなら安心するんじゃないか? そんなフザケタ事をいう奴も居るかもしれない。死んだって次があるんだから怖くないとか、そんなお花畑みたいな連中。
で、次があるという保証は? そもそも次とやらがあれば人は平気で自分の命を捨てられる生き物なのか? 少なくとも僕には無理だ。絶対に。
不老不死になりたいだとか、そんな大層な願いではない。ただ、平穏無事に、安心して毎日を過ごしたい。ただそれだけが、たったそれだけが、何処までも遠い。