ボリビアの汚ねぇ川
キーワード「ボリビアの汚ねぇ川」
観光で俺は南米に来ている。暖かい気候にウキウキした気分になっていた頃の自分を殴りたい。
財布はスられるし、荷物は取られそうになるし、良い事が無い。日本人の一人旅などこの国では良いカモでしかない。
「はぁ……」
目の前を流れるベニ川を、趣のある建物から眺める。
お世辞にも綺麗とは言えない茶色の川を眺め、俺は何度も溜め息を繰り返す。
コツン
軽く足に何かが触れる。
「あ、すみません」
日本語だ。珍しいな、こんな所で。
「あ、いえ大丈夫です――」
振り返ってみると、白い杖をついた女性が一人と、その傍らにもう一人の女性の姿が。
「え、あ。日本の方ですか?」
杖をついた女性はセミロングの黒髪を風に靡かせ、驚いた表情をする。
まるでアニメのヒロインのような通る声が凄く印象的だ。
「そうみたいよ夏央莉。すみませんねぇ、この子、目が見えないものですから」
傍らの女性は済まなさそうに言う。杖の子の母親かな?そう思って違和感の無い年齢差を感じる。
「いえ、ボーっと突っ立っていた僕が悪いんですよ」
そう言って立ち去ろうとする。
「ちょっと図々しい事お願いしたいんですけど……」
母親らしき人物が俺に向かって拝むように言った。
「え、何でしょう?」
反射的にそう言ってしまう。出会ったばかりの人達の頼み等、聞いてやる義理などまるで無いのだが、こういう風に反応してしまう辺り俺も大概お人好しなのだろう。
正直を言えば少し面倒だし、目の見えない人に接する機会は無かったから、少なからず身構えてしまう。
「ちょっと私、お手洗いに行きたいので、この子の事を見ててもらえませんか?」
「え? お母さん、そんな、私は一人で大丈夫だよ――」
「外国で同じ国の人に会えたんだもの、少しだけ甘えさせて頂けないかしら?」
「はぁ。まぁ、それくらいなら」
まぁ、短時間なら別に良いか。手を引いて歩く訳でもないし。
困る当人そっちのけで話が進む。
「ごめんなさいねぇ。すぐ戻るから。夏央莉、良い子で待ってなさいね」
「もう、私ももう二十歳よ? 子どもじゃ無いんだから」
そういう夏央莉さんを尻目に、母親はトイレへと向かって行く。
「……えと、すみません。本当、一人で大丈夫ですから……」
夏央莉さんが俺の方を向いて話すが、微妙にズレている。本当に目が見えないのだろうな。
「いや、良いですよ。俺も久しぶりに日本語を聞いて嬉しくなりましたから」
「長旅、なんですか? あ、こちらに住んでいるとか? すみません、どういう恰好をしているのか分からないもので……」
困ったように笑う彼女を見て、少しだけドキッとした。
大学の卒業旅行という名目で来たこの旅は、実のところは失恋旅行だ。
そんな傷付いた俺の心に、この娘の声は心地良い。
「長旅ではないですね。まだ来て3日目ですし。えと、夏央莉さん達は長いんですか?」
いきなり名前呼びは失礼かと思ったが、まぁ、もう会う事も無いだろうし……
「いえ、私達も同じ3日目です。だとすると、久しぶりっていうのも少し変じゃないですか?」
「ははっ。そうですね。いやぁ、でも俺、この国に来てからロクな事が無くて――」
俺は何を思ったのか、財布をスられたりした事を全て夏央莉さんに話していた。
「――大変だったんですね。可哀そう……」
普段の俺なら、「同情なんて」と思うのだろうが、不思議と今はこの娘の言葉が嬉しかった。
「熱帯の気候のように、陽気で明るい人達ばかりだと思っていた俺が馬鹿でした。日本人なんてただのカモでしかなかったんですよ」
川を見つめると、茶色の水が止めどなく流れ、その淀んだ水質に自身の心内を見た思いになる。
「はぁ。今の俺はまるでこの川のようですよ。茶色く濁って全然面白く無い」
溜め息混じりにそう言うと、夏央莉さんが少し間を置いて笑う。
「ふふ。詩的な事を言うんですね。ロマンチストですよ、えぇっと……」
そこで俺達は、特に自己紹介もしていない事に気付いた。
「あ、これはすみません。俺は佐藤光輝って言います。今年の4月から社会人になる22歳です」
「佐藤さん、ですね。こちらこそすみません。私は大谷夏央莉と申します。大学二年生、二十歳です」
夏央莉さんは俺の方へ向かった頭を下げる。やはり若干ズレがあるが、別に気にはならなかった。
「意外と歳近かったですね。声の感じから、もう少し年上の方かと思っていました」
そう言った後、夏央莉さんは少し慌てた様子で口に手を当てる。
「あ、すみません! 悪い意味では無いんですよ? 渋くて素敵な声だと思いますし……」
「ははっ。ありがとうございます」
少しの沈黙の後、夏央莉さんが口を開く。
「――先ほどの、佐藤さんが言った事ですけど」
「え?」
「佐藤さん、濁ってなんていませんよ?」
「――あぁ。その話ですか」
ちょっと恥ずかしい。普段の俺なら絶対に言わないであろう言葉だからだ。
「少なくとも私にとっては輝いて見えますよ――あ、私目は見えませんので、感覚です、感覚」
「はははっ。ありがとうございます。ぞんな風に言ってもらえると、少し救われますよ」
「――本当ですからね? 目が見えない私にとって、見知らぬ地は怖いんです。同じ国出身の方が居てくれるというのは、思った以上に心強いです」
そんな風に言われると、この濁った川も見方によっては味わい深いモノに思えてくる。
「あれ? さっき大丈夫って言ってませんでした?」
少しだけからかうように言ってみる。
「あれは強がりですよ。もう、からかわないでください」
ワザとらしく頬を膨らませる夏央莉さんに、俺は癒されているんだと自覚する。
「お待たせっ。すみませんねぇ、トイレ込んでて」
夏央莉さんの母親が戻って来る。
少しだけ残念な気持ちになったが、そんな事を表に出してもしょうがない。俺は努めて平静に言った。
「あぁ。大丈夫ですよ。楽しくお話させて頂いておりましたので」
「あらぁ。楽しかっただなんて、邪魔しちゃったかしら?」
「お母さん、変な事言わないでよ。でも、私も楽しかったです。ありがとうございます、佐藤さん」
頭を下げる親子に、照れる俺。そんなに凄い事をした訳じゃないのに、気分が良い。
「気にしないでください。では、俺はそろそろ行きますね」
「本当にありがとうございました」
俺はその場から立ち去り、空港を目指した。旅の終わりにと立ち寄った大きな川だったが、この濁りとは反対に、綺麗な物を見た気持ちになる。
この旅行に来て良かった。散々な良好だったけど、最後の最後に救われた気がする。
帰国後、8月の暑い日。俺は営業の為、街中を歩いていた。
「……こんなに暑いのに歩いて営業とか、ナメてんのかウチの会社」
そう文句を垂れながら信号を待っていると、俺の足にコツンと何かが当たる。
「あ、すみません」
「あ、いえ、大丈夫――」
振り返ると、異国の地で見たセミロングの女性が立っている。
「夏央莉さん?」
「え、あ――佐藤さん?」
「はい。ははっ。偶然ですね」
「そうですね。ふふっ。私はまるで虫ですね」
「え?」
「佐藤さんの輝きに吸い寄せられるように杖が当たっちゃうんです」
「……はははっ。夏央莉さんもロマンチストですね」
そう言って二人は笑い、周囲からは変な目線を向けられた。
しかしそんな事は気にしない。ボリビアの濁った川のように、自身の汚れなど気にせずに雄大に流れてみるのも良いと思ったからだ。
「夏央莉さん。よろしければ、連絡先の交換してくれませんか?」
「はい。もちろんです」
俺はきっとこの娘を好きになる。そんな予感がする。
あの川もそうだったように、全ての事は見方によってどうとでも感じ方は変わっていくのだから。
全く予想の出来なかったキーワードに、展開も自分で分からなくなりました。力不足を痛感し、同時に新しい扉を発見出来た気持ちになりました。
キーワードをくれた方の発想力には毎回脱帽しており、手本にさせて頂きたいと思います。