5ー8 十四年越しの約束
脱出ポッドで地球に落とされるというのは、二回目だからと言って決して慣れるようなものではなかった。
それどころか、前回より十七歳も年を食ったせいで、三半規管の回復にかなりの時間を要した。まともに動ける状態になるまでに三時間ほどロスしてしまったのは痛いところだ。
加えて着水地点が山側、つまり自宅や村のある方とは反対側の岸に近い位置だったため、上陸してから目的の方向へ迂回するのにさらに数時間掛かってしまった。
その間に噴火が起こらなかったのは幸運としか言いようがない。
何もかもが懐かしかった。くすんだ空の色も、鼻先を掠める草の匂いも、靴底で踏み締める土の感触も。
ゴーグルとマスク越しですら、地球の空気を肌で感じる。期待と不安で心臓が騒ぎ続けていた。
夜間の暗闇や降雨で何度か足止めを喰らい、やきもきしながら進んでいく。
見覚えのある景色。大切な人と過ごした日々。それをまるで昨日のことのように感じる。
家へと近づくたびに、緊張感が高まってくる。
ミカはまだ俺を待ってくれているだろうか。
俺のことなど忘れて、別の男と暮らしていたりしたらどうしようか。
そもそも、今も息災でいるのだろうか。
あの頃と違ってすっかり立ち枯れてしまった森の木々を目にして、嫌な予感が胸を覆っていく。
自分で荷造りしたリュックサックの肩ベルトとルリから受け取ったアタッシュケースの持ち手を、固く握り締める。
やがて、家が見えてくる。それが相変わらずそこに建っていたことに、ひとまずほっとした。
庭先のプランターには、よく手入れされたハーブが植えられている。ここには今も薬草師が住んでいるのだ。
玄関先に立ち、静かに深呼吸をしてから、扉をゆっくり叩いた。数秒待ったが、返事はない。
もう一度ノックしてみる。やはり返事はない。
ノブに手を掛けると、鍵は開いていた。
「……ただいま」
控えめに発した言葉に、応える声はない。
表の部屋には誰もいなかった。窓際に吊るされた植物はまだ新しい。
恋い焦がれたかつての日常風景が、目の前にある。俺は戻ってきたのだ。胸が苦しい。
そのまま奥へと進む。半開きになっていた寝室のドアを押し開け、中を覗いた。
二つ並んだベッド。奥の一つに横たわる人影。
シーツに広がる長い髪。腹の上に重ねられた棒切れのような両腕。
「……ミカ?」
見間違えるはずもない。それは紛れもなく、俺の最愛の妻だった。
荷物を降ろしてゴーグルとマスクを取り去り、ベッド脇へと駆け寄る。
「ミカ!」
ずいぶん痩せた。顔色も悪い。死んでいるようにも見えたが、そっと撫でた頬は緩い熱を宿していた。
「ミカ……」
ゆっくりと、ほつれた髪を梳く。か細い腕に浮かぶ青い血管をなぞり、骨ばった小さな手を撫でる。指と指を絡め、そこへ唇を寄せた。
閉ざされた瞼が、音もなく開かれていく。
ミカはぼんやりしたまま、大きな瞳を二度三度と瞬いた。
「ミカ、ただいま」
目の焦点が俺の顔に結ばれたのが分かった。形の良い眉が訝しげにひそめられる。
「……え?」
「俺だ。トワだよ」
「……トワ?」
記憶にあるよりも嗄れた声。
「あぁ、そうだ。遅くなってごめん」
「……夢?」
「夢じゃないよ。帰ってきたんだ」
「うそ……」
「本当だよ。触れるだろ」
ミカの手を自分の頬に当てる。
「あ……」
あれから十四年の年を重ねたミカ。驚いたような表情が愛おしい。
小さく見開かれた目の縁に、涙が溜まっていく。
「おか……り……」
「あぁ、ただいま」
ミカの呼気にぜいぜいと痰の絡んだ音が混じっている。胸を病んでいるのだろうか。
それでもミカは起き上がろうと背を浮かせる。
「いや、そのままでいい。横になってろ」
もう一度きちんと横たわらせて、改めて手を握った。
「もう……会えない、と……った」
「約束しただろ、絶対帰ってくるって」
肉の落ちた頬を、大粒の雫が滑っていく。それを指先で拭ってやる。
会いたかった。ずっと、会いたかった。
視界が揺れる。身体が熱い。俺は洟をすすった。
「ところで、サクは? 出掛けてるのか?」
「うん……すごい、ことが……起こったの」
「すごいこと?」
「あのね……『砂漠の国』の、ジンさんの——」
切れ切れに紡がれていく言葉から事の顛末を知り、俺はまた涙ぐんだ。
「そうか、それでサクがルリヨモギギクを……」
大きくなったのだ。早く会いたい。
だが、まず伝えなければならないことがある。そもそも、そのために急いで帰ってきたのだ。
「ミカ、もうすぐあの山が噴火する」
「……うん」
「気付いてたか」
「最近……地震、多いから」
十五年前にも噴火を予測した特異体質は今も健在らしい。
「俺も月からここの地震の観測データを見てた。もういつ噴火してもおかしくない。間に合って良かった」
「それ、知らせるのに……戻ってきたの……?」
そう問われて、改めて思い出す。ずっと前に、心に誓ったことを。
「いや、違う。守るためだ、ミカとサクを」
俺はもう二度と大切なものを失うわけにはいかないのだ、と。
俺をじっと見つめていたミカの瞳から、再び涙が溢れてくる。
「……泣き虫だな」
「ばか……誰の、せいで……っ」
ちょっとした意趣返しのつもりだったが、完全に失言だったようだ。
この十四年の歳月を、ミカはどのように過ごしてきたのだろうか。それを思ったら、胸が詰まった。
「……ごめん、辛い思いをさせた。俺はもうどこにも行かない。これからはずっと一緒だ」
「ほんと……?」
「あぁ、本当だ。泣き虫だなんて言って悪かったよ。愛してる。許してくれ」
「……嫌だよ、許さない」
「厳しいな……」
許さないと、これまで何度ミカに言われたことだろう。俺はどれだけ経っても懲りない男だった。
「でも、この先、ずっと側にいるなら……」
いいよ、と。ミカのその言葉尻はしかし、声にならずに空気を震わせただけだった。
ミカはほんの小さく笑みを作り、そのまま表情を歪ませて嗚咽を漏らし始めた。
俺はミカに覆い被さるようにして、その華奢な身体を掻き抱いた。細い腕が、俺の背中にしがみ付く。
「ミカ……ミカ……」
何度も何度も、その名を呼んだ。
強がっていてもどこか儚く、だが靭い芯を持ったこの美しい女は、しばらく子供のように泣き続けた。
夕方の陽光が緩く射し込む部屋で、すっかり痩せた腕や髪を撫でていた。そのうちにまた微睡み始めたミカだったが、ある時はっと目を見開いた。
「ミカ?」
半身を起こそうとするのを助け、俺の胸に肩をもたせかけてやった。
ミカは顔を強張らせ、俺の手を強く握り、必死に何かを訴えかけてくる。
それを察して身構える。大地の唸りが、ようやく俺にも聞こえた。その直後、家が丸ごと震え出す。下から突き上げるような衝撃に思わず蹌踉めいた。
サクは無事だろうか。村へ呼び戻しに行くべきだった。そんなことを考えた時。
ミカが突然、激しく咳き込み始めた。
「ミカ、大丈夫か?」
表の部屋で、棚から何かが落下した物音が耳に届く。
何もかもを揺るがす振動に耐えながら、止まらない咳に喘ぐミカを抱き締める。
そして、轟き渡る爆発音が、全ての音を掻き消した。
俺の胸元に、小さな手が縋る。
苦悶に歪む表情。
不意に、ミカの全身から力が抜けた。
「ミカ? ……ミカ!」
そう叫んだ自分の声すらもよく聞こえない。
閉ざされた瞳。長い睫毛が、青白い頬に濃い陰影を作っている。
誰より大切な最愛の人は、俺の腕の中で意識を失った。




