4ー8 例えこの命に代えても
何度行き来したかも分からない、通い慣れた道。
疲労など感じる余裕もなかった。俺はただ必死に、愛する妻と娘の姿を探していた。
「ミカ! サク!」
腹の底から二人の名を呼んだ。乱立する木々の間を縫って、一瞬たりとも足を止めることなく丘の斜面を駆け上がる。
「ミカぁっ!」
返事をしてくれ。祈るような気持ちで叫ぶ。
「ミカぁぁぁぁ!」
喉が張り裂けそうだった。それでも構わなかった。
ようやく頂上に到着する。飛んできた火の粉が、俺の頬を掠めていく。
目の前に広がっていたのは、俄かには受け入れ難い光景だった。
ルリヨモギギクが、燃えている。
俺から見て花畑の奥から手前へと炎が拡がってきており、既に四分の三ほどが消失しているようだ。
大量の煙が電波塔に纏わり付きながら空へと昇り、焦げ臭さとあの特徴的な花の匂いとが入り混じって辺り一帯に立ち込めている。
そして、熱風に揺れ惑うルリヨモギギクの波間に、俺はようやく見つけ出した。
程なく火が燃え移ってこようかという位置にしゃがみ込む、サクを背負ったミカの姿を。
俺は花畑に分け入り、ミカの腕を掴んで立ち上がらせた。そしてまだ火の手の回っていない林まで急いで引っ張っていく。
「ミカ! こんなところで何してるんだ!」
「トワ! 良かった、無事だったんだね」
「それは俺の台詞だ! すぐそこまで火が来てるだろ! 死にたいのか!」
口を突いて出た怒声に、ミカがびくりとする。
「……お、丘の上から、焦げ臭い匂いがしたから、もしかしたらと思って。でも、もう帰るつもりだったんだよ」
「サクまで連れて何やってるんだよ! こんな時なんだから家でじっとしてろ! 何考えてるんだ!」
「だって……これ……」
ミカは根ごと取ったルリヨモギギクを手にしていた。
一瞬で頭に血が上った。
「そんなもの、今どうだっていいだろ!」
「良くない!」
大きな瞳が俺を睨み付ける。
「良くないよ……そんなもの、なんかじゃないよ」
口元を引き結んだミカの目に、じわりと涙が滲んでいく。
その真剣な眼差しが胸を衝く。
そうだ。
ルリヨモギギクは俺が開発して月から持ち込んだ貴重なものだ。もうこの丘の上にしか咲いていない、奇跡の、希望の青い花。
いつかこの花を持ってジンさんの子供たちを訪ねようと、ミカと約束した——
急速に、頭が冷える。
ミカはきっと、俺のためにここへ来たに違いなかった。
どうにもきまりが悪くなり、俺は顔を背けた。
「……とにかく、無事で良かった。ここは危険だ。家も、いつ延焼するか分からない。早く離れよう」
「うん……ごめん」
ミカの手を引き、丘を下っていく。
俺は振り返らずに、ぽつりと言った。
「ミカ、ありがとう」
——ルリヨモギギクを守ってくれて。
強く握り返された手が、返事の代わりとなった。
急いで家に戻り、必要最低限のものを持って、再び家を出た。ミカが取ってくれたルリヨモギギクの株も、しっかりと荷物に入れた。
サクはミカに背負われたままだ。顔を覗き込んだら、とろんとした目の愛らしい表情で微睡んでいた。肝の座った子だ。
空は既に大半が噴煙に覆われている。昼間だというのが信じられないほど、辺りは薄暗い。大気中に混じった灰は、早くも地面に降り積もり始めていた。
森を出て、ミカと共に川沿いを駆けていく。これで火事に巻き込まれる心配はなくなったが、ここは視界が開けすぎている。火山礫から身を守るものが何もない。
黒煙を吐き出し続ける山の姿がよく見えた。一刻も早く建物の中に入るべきだろう。
まだ村までは距離があった。ちょうど半分まで来たことを示す、大きな岩が見えてくる。
地鳴りと地震はまだ続いているのか、もう感覚が麻痺していた。
ぽつり、と水滴が頬を濡らした。あぁ雨だと思った、次の瞬間。
「トワ!」
ミカに名前を呼ばれた直後、大地を震わす爆発音が、三たび辺りに轟き渡った。
足元が、ぐらりと揺れる。
山の頂上付近から、マグマが勢いよく噴出する。黒煙に鎖された世界で、ただそれだけが煌々と赫い光を放っている。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
その光景は背筋が凍るほど恐ろしく、そして同時に、凄絶なまでに美しかった。
まるで世界の終末を見ているかのようだった。この大いなる自然を前に、人間はあまりにも無力だ。
背後から小さく悲鳴が聞こえた気がした。振り返ると、五メートルほど後ろでミカが転倒している。
しまった。噴火に気を取られていた。ミカを助け起こすべく、踵を返す。
その時、視界の端で何かが動くのに気付いた。
握り拳ほどの火山礫が、こちらに向かって飛んでくる。
その先にいるのは、地面に倒れたミカだった。
「ミカ!」
身体が、勝手に動く。
目に映る全てのものがスローモーションになる。
一歩、二歩。身を立て直そうとするミカに駆け寄っていく。
三歩、四歩。細い腕を掴む。
一緒に立ち上がろうとした。
でも、もう、間に合わない。
俺は覆い被さるように二人を抱き締めた。
その刹那。
身体に激しい衝撃が走り、息が詰まった。
ぐるりと世界が反転する。背中から地面に倒れたらしい。その機みで脳が揺れる。
痛みが脈打つのに合わせて、視界に掛かったノイズが点滅した。
「トワ! トワってば!」
必死に俺の名を呼ぶ声。ミカが俺を見下ろしている。
「しっかりして! 早く起きて、立ち上がって、ここから逃げるの!」
頬に、雫の落ちる感触。黒目がちの瞳が濡れている。
涙を拭ってやろうとした。だが、腕が持ち上がらない。
こんな時にどうしてまた、俺の手は役に立たないのか。
「トワ! ねぇ、お願いだから!」
ぐしゃぐしゃになったミカの顔が霞んで見える。小さく聞こえるのはサクの泣き声か。
降り始めた雨が、全身を濡らしていく。
胸が苦しい。呼吸の仕方も分からない。
何か言葉を掛けたかったが、喉からはわずかの空気すらも出てこなかった。
「嫌だ……嫌だよ、ねぇ」
ミカ。君は俺を泣き虫だと言ったが、君だって大概のものだ。頼むから、そんな顔をしないでくれ。
サク。可哀想に、怪我はしていないか? 怖い思いをさせてごめん。俺は駄目な父親だ。
「こんなとこで死んだら、絶対許さないから!」
二人とも、早く。
俺に構わなくていい。
どうか、早く、安全なところへ——
「トワ! トワ——……」
ミカの声が、徐々に遠のいていく。
視界に幕が下ろされ、何も見えなくなる。
その時、鼻先を掠めていったのは——あの花の匂いだった。
一瞬、群れなすように咲き乱れる深い青色が、鮮やかに脳裏に浮かび上がる。
そよ風に揺れるルリヨモギギク。
美しい花々に囲まれて立つ、二つの人影。
小柄で華奢な女性と、幼い子供のシルエット。こちらに背を向けているので顔は見えないが、俺は二人をよく知っていた。
世界で一番愛おしい、自分の命よりも大切な、俺の——
それは恐らく、少し先の未来の姿だ。
こんな幻が現れるなんて、俺はここで終わるのだろうか。
——今死んだら、きっと未練しか残らない。
柔らかなアルトの声が蘇る。
その通りだ、と思った。
死にたくない。
俺にはまだ、この目で見たいものがたくさんあるんだ。
生きたい。
生きたいんだ。
もう一度、あの温もりに触れたかった。抱き締めたかった。
二人がこちらを振り返る。木漏れ日のような微笑みを見た気がした。
だが、伸ばした手の先で、そのヴィジョンは消え失せてしまう。
そうして、俺の意識は完全に途切れた。




