4ー3 生きているという絶望
夢を見ていた。たぶん、子供の頃の夢だ。
——トワ、起きて。
身体を優しく揺すられた。母親と思しき人物の顔には紗が掛かっている。
肩を抱えられて上体を起こされ、頭を持たせかけられる。
柔らかな感触。とくんとくんと、心臓の鼓動が伝わってくる。
——さぁ、これ飲んで。
唇の間に硬いものが挿し込まれ、とろりと甘い液体が舌に絡む。俺は喉を鳴らしてそれを飲み下す。
少しずつ、一口ずつ。腹の内側から身体の隅々へと、徐々に温かいものが拡がっていく。
最後の一滴まで飲み終わると、口に入れられたものが引き抜かれる。布で唇を拭われた後、緩い熱を持った何かを頬に軽く押し当てられた気がした。
——ゆっくり休んで。
俺は再び横たえられ、微睡みの中へと沈んでいった。
■
瞼を開けて真っ先に目に入ったのは、見覚えのある天井だった。
首を横に動かせば、枕元に手拭いの掛かった洗面器や吸い飲みが置かれているのが見える。苦労して頭を持ち上げると、腹の辺りにミカが突っ伏していた。
今はいったい何時なのか。窓から射し込む外の光が、ミカのうなじを照らしている。
「ん……」
もぞりと身じろぎしたミカは、次の瞬間、弾かれたように跳ね起きた。
驚いて見開かれた瞳と視線がかち合う。
「あっ……」
ミカが柔らかく微笑んだ。その途端、胸の奥で何かが騒ぎ始める。
「おはよ、トワ」
「……おはよう」
「喉渇いてるでしょ。とりあえず水飲んで」
ミカに助け起こされ、手渡されたコップの水を一気に飲み干す。
「あんた、丸一日寝てたよ。何回か起こしてハチミツ溶かした水とか飲ませてたんだけど、たぶん覚えてないよね。気分はどう?」
頭は未だにぼんやりしていたが、身体におかしいところはなさそうだ。
「あぁ……大丈夫だ」
「それなら良かった。身体じゅう塵だらけだったから、ある程度は拭いて着替えさせたけど、後でちゃんと自分で洗い流してよね」
確かに、俺は清潔な服を着せられていた。しかし——
「お腹空いてるんじゃない? ちょっと待ってて」
ミカが寝室を出ていった。
俺はしばらく呆然としていたが、やがてじわじわと正気が戻ってくる。
拭いた、とは。いったい、何をどこまで。
改めて自分の身体を検分する。首や胸元、腋の下や背中の辺りも、ずいぶんさっぱりしている。
続いて下半身を確認しようと下着に手を掛けたところで、扉がノックされた。俺は慌ててシーツを引き上げる。
スープ皿の乗った盆を手にしたミカが部屋に入ってきて、ベッド横の椅子に腰を下ろした。
「雑穀のお粥だよ。食べられる?」
正体不明のざわめきが強さを増していた。
押し黙っていると、呆れたような溜め息が耳に入る。
「ほら、ちょっとでも食べなきゃ」
ふぅ、ふぅ、と息を吹きかける音の後、粥の乗ったスプーンが目の前に差し出される。
「はい、あーん」
まるで小さな子供を相手にするような口調だ。俺は視線を落としたまま、軽く眉根を寄せた。
「いらないの? ……まぁ、無理にとは言わないけどさ」
かたん、と枕元の小机に盆が置かれた音がした。
いくらかの間の後、ミカが軽い調子で尋ねてくる。
「それで結局、ジンさんには会えたの?」
その質問は、驚くほどの鋭さで俺の心臓に突き刺さった。
無言のまま、小さく首を横に振る。
「そっか……」
しばしの沈黙。
「……でも、トワが無事で良かったよ。あれからどうしてるのかって、ずっと気になってたんだ」
意図せず、ぴくりと頬が動いた。
良かった?
はたして、本当にそうだろうか。俺にはもう、生きるための目標がただの一つもなくなってしまったというのに。
なぜだか無性に腹が立った。何に対して苛立っているのか、自分でもよく分からなかった。
「お粥、ここに置いとくね。何かあったら呼んで」
そう言って、ミカは寝室を後にした。
俺は粥に手を付けず、身を横たえて目を瞑った。兎にも角にも、気怠くて仕方がなかった。
そうこうするうち、俺は再び闇のような意識の底へと堕ちていった。
それから数日の間、俺はずっとベッドの上にいた。
一向に食事を摂ろうとしない俺に、ミカは辛抱強く匙を差し出してきた。
それを拒否することも諦めた俺は、口から流し込まれるどろりとした粥を等閑に飲み下した。
「赤ちゃんみたい」
揶揄うように笑ったミカに、もやもやとした気持ちが募った。
日に三度の食事以外は、ひたすらに寝て過ごした。
ミカはルリヨモギギクやその他の薬草の育成状況などについてあれこれ報告してきたが、俺はろくな返事をしなかった。
何も考えたくない。何もしたくない。
体力はずいぶん回復していたが、気力は枯渇したままだった。
夜、ミカは俺の隣のベッドで眠った。手を伸ばせば届く距離で、あまりにも無防備に。
俺が少しでもうなされると、すぐに飛び起きて様子を見にきた。
俺にはそれが気に入らなかった。
何かが腹の底で渦を巻いていた。
これまでのことを思い出すと、じくじくと胸が痛んだ。
俺を導く希望の光は潰えてしまった。その光で焼き付いた影だけが、決して消えない烙印のように残っている。
このまま生き続ける意味はあるのだろうか。
ただ生きるためだけに生きている身体。そんなものに、はたして意味など。
失意と、無気力と。
そこから生まれたやりきれなさを、隠すことなくミカに向けていた。
自失状態の中、その理不尽を自らに許容することだけが、確かに自分の意思だと言えるものだった。
旅から戻って五日目の昼。
いつものように粥を与えられる間、俺はミカとは視線も合わせず、ずっと黙りを決め込んでいた。この状況には、どうしようもない苛立ちが積もっていくばかりだった。
食事が終わると、ミカが言った。
「ねぇ、あたし今からちょっと出掛けてくるね」
ほとんど麻痺した思考回路にひやりとしたものが過ぎり、俺は思わず顔を上げた。
「……どこに?」
「カグさまの家」
「……なぜ」
「なぜって……今日行く約束なの。これまでもそうだったでしょ?」
ミカとカグさんにまつわる噂が、頭を掠めていく。
途端、胸に巣食ったざわめきが大きく膨れ上がった。
ミカの大人びた笑み。それが、よく思い出せない誰かと重なる。
——トワ、良い子にしてるのよ。
立ち去ろうとするミカの手首を、気付けば掴んでいた。
「……トワ?」
「行くなよ」
「どっか具合でも悪いの?」
「……違う」
ざわめきは今や、まるで砂嵐のように思考を侵食していた。
心が千々に掻き乱される。理由も分からぬままに。
感情が混濁していた。
遥か昔に封印したはずの、遠い日の——親に捨てられたあの時の——記憶と。
心臓が、軋みながら激しい鼓動を打ち鳴らす。
ここに戻ってきてもいいと言ったくせに。
無事で良かったと言ったくせに。
それなのに、俺を置いていくのか。
君も、俺を置いていくのか。
「な、何? どうしたの?」
ミカが怪訝な表情をしている。
それに構わず、握った手に力を込める。
「やっ、痛いってば……分かったから、ねぇ、とりあえず離してよ」
離したら、君は行ってしまうのだろう。
——独りにしないで。
「トワ、何か変だよ……」
怯えたような顔で後退っていく君。
どうしてそんな目で俺を見る?
——見捨てないで。
「あ、あたし、そろそろ……」
なぁ、ミカ、教えてくれ。
——俺は『要らない子』なの?
離れようとするミカの腕を手繰り寄せ、ベッドの中へと引きずり込む。両手首を押さえ付け、身動きが取れないように組み敷いた。
「ちょっ……何す——」
抗議の言葉を、唇で塞いで遮る。
「んっ……」
しっとりと柔らかく、温かい唇だった。その甘やかな感触に、脳髄の芯まで痺れた。
ミカはほとんど抵抗しなかった。だが俺は拘束を解くことなく、唇だけを離す。
黒目がちの大きな瞳が、揺らぎながらもまっすぐ俺を見つめていた。
それが次の瞬間、はっと見開かれる。
やや紅潮した肌理の細かな頬に、ぽたりと水滴が落ちた。
それは俺の目から零れ出た、一粒の涙だった。
なぜ、俺は泣いているのだろう。
なぜ、泣きながらミカを押さえ付けているのだろう。
なぜ——
俺を見上げる瞳が、慈しみの色に染まる。拘束をすり抜けた小さな右手が、俺の頬に伸ばされる。
だが俺はそれを跳ね退けると、再びミカの手首を掴み、これ以上の勝手を許さぬよう強引に捩じ伏せた。
今だけは、何も受け取りたくなかった。何も持たないままでいたかった。
身の内から湧き上がる衝動に抗うことすら放棄して、全てを忘れ去ってしまいたかった。
白い首筋に深い口付けを落とす。細い肩がびくりと跳ね、吐息が漏れた。
滑らかな肌と、かすかな汗の匂い。
「やっ……トワっ……やめて、ねぇっ……お願……っ」
ミカの華奢な身体が、俺の下でじたばたと踠いている。
どんどん自分を制御できなくなっていくのが分かった。分かっていながら、どうしようもなかった。
しかし、頭を浮かせた次の瞬間。
突然、目の前に星が散った。
鼻っ柱に響く激痛。俺は思わず呻き、両手で顔を押さえた。
どうやら頭突きされたらしい。ミカが俺の下から這い出ていった。
顔面を覆う痛みが脈打っている。うまく身動きの取れないまま、俺はしばらく蹲っていた。
「トワ……顔上げなよ」
静かな声に導かれるように、視線を上げる。
涙の滲んだ目に飛び込んできたのは、強い光を瞳に宿して俺を睨み据えるミカの姿だった。
その右手が、高く掲げられる。
「歯ぁ食い縛んな」
「え——」
身構える隙もないうちに、左耳付近で凄まじい破裂音が鳴った。直接的に脳を揺さぶる衝撃で視界が暗転し、俺はベッドから転げ落ちた。
一瞬遅れて、燃えるような痛みが左頬全体に迸る。口の中が切れ、血の味がした。
頬を押さえながら半身を起こすと、ミカが俺を見下ろしていた。
「冗談じゃない……見くびんないでよ」
紅い唇が戦慄いている。
「あたし、自分はどんな目に遭ってもいいって思ってたんだよ。でもね——」
朱に染まった頬を、大粒の涙が次々に滑り落ちていく。
「あんたには……あんたにだけは、こういうことされたくなかった」
俺は一言も発することができずに、ただ呆然とミカを見上げていた。
ミカは自分の右の手のひらにちらりと視線を落としてから、乱れた襟元を搔き合せた。
「……ちょっと、頭冷やしてくる」
そして、足早に寝室を出ていった。程なくして、玄関のドアが開閉する音も耳に届く。
残された俺は、しばらくその場にへたり込んでいた。
つんとする鼻をすする。頬が痺れたように痛む。少し視線をずらすと、空になった粥の器が目に入った。
今さらになって、凄まじい罪悪感に襲われる。
ミカは付きっきりで俺の面倒を見てくれていたのに。頭を冷やすべきは、俺の方だった。
ミカの泣き顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
——あんたにだけは、こういうことされたくなかった。
その言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。




