終幕
私は最低なの。最低なのよ――。
街灯も、家屋の明かりも無い街路を、愛理子はひたすらに走った。
てっぺんに黒みを帯びてきた群青の空が狭い道を覆い尽し、もう引き返せない闇の中へと入り込ませていく。
懸命に息を上げる彼女の頭の中をしめていたのは、激しい後悔と、自己嫌悪だった。
何で、彼を見捨ててしまったの? 追いかけてきたから? でも、怪我していたかもしれないのよ? あんな、鞄で殴っておいて逃げるなんて、私……、
……たしか、人に怪我をさせたら傷害罪にならなかっただろうか?
ふとそんな考えが浮かんだ瞬間、愛理子の足は止まっていた。
私が、傷害事件を起こした……?
ううん、そんなことない。固く目を閉じ、即座に首を振る。
だって、彼が私に近づこうとするから――怖くなって、鞄を振り回して――怪我をさせようなんて思わなかったわ。当てるつもりもなかった。わざとやったわけじゃ――。
耳を塞ぐように髪を握りしめ、弁解に弁解を繰り返す。
でも……、見捨ててきた。
だらりと、髪を掴んでいた手が垂れた。
ああ、駄目だ。弁解の余地はない。
ほぼ放心状態となった彼女は、ポケットの中に手を入れて、スマートフォンを取り出した。
警察を呼ばなくちゃ。でも、ここはどこなの? ぐるりと見渡しても、わからない。全く知らない場所だ。目印になりそうなものもない。
地図を出さないと――のろのろと画面をスライドさせていると、背後から足音が聞こえてきた。
ま、さか。
血の気が引いた。
地図を開いたままスマートフォンをポケットに突っ込み、ほぼ反射的に前へ駆け出す。
「――!」
背中に叩きつけられるのは、やっぱりわけのわからない言葉。彼だ、彼の声だ。
愛理子の意識はすっかり覚醒し、追われる恐怖で鳥肌が立ってきた。
何で。何でまだ、追いかけてくるの?
足がもつれそうになるのを必死でこらえる。
どうして? 私は知り合いじゃないのよ。いい加減気づくべきよ。
仮にそうだとしても、こんな悪い子は、見捨てるべきでしょ……っ。
目の端に追跡者を捉えておきながら、妙に冷静に様子をうかがえたのは、彼の走るペースが明らかに落ちていたからだった。限界がきたのだろうか。
一方の愛理子は、息は乱れているものの、まだまだ走ることが出来る。去年の校内マラソンでは、前回優勝者を破って、歴代最高タイムを叩き出した。
先の角に、工事中を告げる看板が見えてきた。ちらりと後ろに目をやると、彼をかなり引き離していた。今なら、逃げ切れる――。
迷うことなく、立ち入りを禁じるしましまのコーンバーを飛び越え、中へと入っていく。
空き地のように開けたそこは、まさに工事現場だった。安全第一と書かれた黄色のバリケードやコーンが立ち並んでおり、鉄骨やドラム缶、土の盛られた手押し車などの工事器具が散らばっている。奥には、造りかけの鉄の枠組みがグレーのシートで覆われていた。
愛理子はすぐに、高さのあるドラム缶の裏に身を潜めた。どっと疲労が込み上げ、地面に崩れ落ちる。口呼吸さえままならず、ほぼ肩で息をしていた。
まさか、ここまでは来ないわよね……。
伸びた暗い影の中で、耳をすませる。聞こえるのは、自分の呼吸だけ。助かった……。
胸に手を当てたまさにその時。
バタンッッ! と何かが倒れる音がした。
「ッ……!」
愛理子の全身に震えが走った。心臓が胸を突き破る。自分の出す鼓動がうるさい。声が漏れてしまわないように、両手で強く口を押さえつける。
嘘でしょう? 信じたくなかったが、背後から罵声が放たれる。
「――!」
ああ、やっぱりあの子だ――。
聞きたくない声が間近に迫った事実に、胸が苦しくなった。
どうして。執念深い少年に恐怖した。
どうしてここがわかったの? ううん、それより、どうしてここまでっ……。
押さえた手の指の隙間から、こらえきれない息が漏れる。がくがくと震えた振動で、背中をくっつけたドラム缶が音を立ててしまう。
しまった……!
ぞっと青ざめたが、遅かった。足音がこちらへ向かってきている。ドラム缶からそろそろと、顔を出す。
すっかり乱れた白髪。服もズボンも着崩れ、よれてしまっている、ウサギの――
「だから、人違いなのよ!」
耐えきれなくなって、愛理子は叫んだ。
立ち上がって彼を睨みつけながらも、間を塞いでくれているドラム缶から離れる勇気は持てないまま。
でも、枯れそうになるくらいに声を張り上げた。
「事情はわからないけれど、私は貴方の知り合いじゃないの! 貴方が探している誰かじゃないのよ!」
けれども彼は、そこにいたか! とばかりに地面を強く蹴って寄ってくる。
だから、違うって言ってるでしょう。態度でわからないの!?
カッと腹が立ちそうになったが、一方で、何かがおかしいことに気づいた。
何だか、走り方がおかしくない?
分厚く灰色の雲がかかった群青の空と工事用具をバックに、彼はよろけていた。
もう身体は限界なのに、そこに愛理子がいるから、無理矢理走っているといった風だ。気持ちに、身体が追いついていない。
どうして、目が離せないのだろう。今、逃げればいいのに。
でも、愛理子はドラム缶越しに彼を凝視したままでいた。
息を荒くして、前へつんのめりになって、今に、倒れそうで――。
「あっ――」
愛理子は息を呑んだ。
彼が、倒れていたコーンに足を引っかけたのが見えた。がこんっと軽い音を立てるコーン。真っ黒に伸びた影が、ひとりでに踊り出す。よろけた白い足は恐ろしいことに、ある一点へ向かおうとしていた。
あれは、マンホール! しかも、蓋がずれて、穴があいている!
――落ちるわ、危ないっ!!!!
愛理子は鞄を放り投げ、彼の元へ走った。彼の上半身がマンホールの中へ入り込もうとしていた。その背中を掴もうと、目一杯手を伸ばした。
しかし、赤い上着を掴んだと同時に、愛理子の身体もぐるんっとひっくり返る。
「あっ――?」
そして、暗い暗い穴の中へと落下していった――。