不運な逃走劇
う、運がなさすぎるっ……。
ゴミ山の上の不良を前にした愛理子の顔は大きく引き攣った。今に、足がすくみそうになる。
どうしてこんなところで、どうしてこんな時に、不良に出くわすの……っ。
生まれてこのかた、小説の中でしか見たことの無い不良。しかし、一瞬見ただけで、これはやばいということが、わかってしまった。
因縁をつけられる……ッ? 恐喝をされるッ……?
正しいかどうかはさだかではないが、そんな知識でどんどんと、どん底へと陥っていく。心臓がばくばくと音を鳴らす。
その間にも、ガンッ、カンッ! と何かしらに蹴躓く音と悲鳴が連発しているが、そんなことにまで気は回らない。
どうすれば……っ、どうすればいいの……。
仲間内で駄弁る不良達を前に、今に涙がこぼれそうになった。歯がカタカタと音を立てる。
どうして、こんなところに逃げこんでしまったの。どうして、不良がいる路地を選んでしまったの。
落ち着きを取り戻す間もなく、後ろから、アスファルトを蹴りつける音がした。
影が、愛理子の頭上を覆う。
背筋がぞわっと震え上がったのと同時に、意志とは関係なく、弾かれたように前へ出た。
――捕まりたくない!
さっきまで感じていた恐怖に勝る恐怖から逃れる為に突っ走る愛理子の目に、げらげらと笑う不良の内の一人が、肩越しに空き缶を放ったのが映った。
――嫌嫌嫌!
不良達の座るゴミ山にぶつかる寸前で、靴底が磨り減るぐらいの勢いで曲がり、裏路地の出口へ向かって全速力をする。
カンッ! というのと同時に、空き缶に誰かが蹴躓く音がした。そしてすぐ、高い物が崩れ落ちる音と不良達の絶叫が響き渡った。
「ぎぃあああああああ!!!!」
複数人の声が入り混じった声が、耳の中で尾を引く。
はあっ、はあっと息を切らしながら外へ飛び出すと、そこにはまた、見知らぬ店が並んでいた。辺りは薄暗くなっており、伸びる影がぐっと濃くなっている。
愛理子はすぐ近くのレストランへ逃げ込もうとした。
しかし、ドアが開かない。がたがたと音が出るくらいに引いたり押したりを繰り返しているのに、鍵は閉まったままだ。
どうして!? 焦って顔を上げると、『closed』の文字があった。
次だ! と隣の店へ走ると、『本日定休日』の文字。その隣は『臨時休業』。さらに隣は何のプレートも下がっていない癖に、開かない。
その次も、その次も。さらにその次も。どこもかしこも、開いていない。
「何でなのよっ……!」
汗のにじむ手で、骨董品屋の引き戸をガンガン叩きつけた。何で、全部閉まっているのよっ……!
運が悪いにも程がある。普通、一店舗くらいやっているものでしょ。そうでなくても、中に入れてくれたっていいじゃないっ……!
パニックに陥りながら引き戸に縋りついていると、
「――!」
わけのわからない怒号を上げる追っ手の足音が迫ってきた。
「もうっ、嫌っ……!」
制服をひるがえし、愛理子は駆け出そうとした。しかし、あまりに焦っていたせいか、足がもつれてしまう。
そこでまた、強くアスファルトを蹴り上げる少年。行く手を阻むかのように頭上を飛び越えられ、ひっ、と身を縮ませる。
彼は愛理子の目の前で、身体を丸め、足を地面につけた両手の前につく形で着地する。まるでウサギそのものだ。
貴方は、本当に何なの……っ?
何も出来ないまま震えていると、ガシッと両肩を掴まれた。
「―――、―――!」
彼の真っ白な髪はすっかり乱れ、顔も体も擦り切れてしまっている。
それなのに、愛理子の肩を激しく揺すって、強く訴えかけてくる。切れ切れの息で、懸命に、何かを。
でも、やっぱりわからない。 愛理子にまとわりつくのは、恐怖だけ。
「やめて、離して!」
なんとか逃れようと、身をよじる。
もはや愛理子は、外国語どころか、敬語さえ殴り捨てていた。
「人違いなの……! 人違いだってば!」
私は貴方のことなんて、全く知らないの……! 視界が滲んでくる。
耳元でわからない言語を叫ばれても、私にはどうすることもできないの。
だからっ……、お願いだから……!
「他の人を当たって、ちょうだいよっ!」
無理矢理、少年の身体を引き剥がし、手に持った鞄を大きく振り回した。
思わぬ反撃だったのか、慌てて背中を反らせる彼。咄嗟に耳をたたみ、信じられないと言った顔を浮かべる。しかし、その目はすぐに感情を失った。
鞄の間から手を伸ばして、尚も近づこうとしてくる。彼の口が開く。
「――――」
「来ないで!」
愛理子はまた鞄を振り上げた。警告のつもりだった。
なのに。
がつんっと角が当たり、少年の華奢な身体が吹き飛ぶのが見えた。
「あっ……」
視界がぐにゃりと歪む。瞬間、込み上げてくるのは、後悔。
バタンッと地面に倒れ込む音がする。続いて、荒い息を吐き出すのが聞こえた。
「……」
愛理子は痛そうに唸るウサギの少年に手を差し伸べることもせず、ただ、呆然と見下ろしていた。
取り返しのつかないことをしてしまった……そう、衝動で殺人を犯してしまった後の、犯人のように。
閉じられない口からは、細い息が断続的に漏れる。目は大きく開いたまま、瞬き一つすることも出来ない。
彼の顔は怖くて、見られなかった。
代わりに凝視するのは、童話の中から出てきたような、チェック模様の赤い上着に、黄色のチョッキ。裾にリボンのついた、黒いズボン。
擦り切れて、汚れて……これも全部、私のせいなのよね、私の、私の……。
言わなきゃ、いけないことがある。
「ごめんなさい……」
上手く、声が出てこない。ほとんど、嗚咽に潰されている。それでも、口は謝罪の形を紡いでいる。
「ごめんなさい……私……私……」
震える足が、後ろへと下がった。
まだ起き上がれずにいる彼。痛そうに額を押さえる彼。
びゅうっとスカートの中に冷たい風が通る。
耐えられなくなった愛理子は、少年を置き去りに走り出していた。