追われる愛理子
愛理子は、少年の手を強く振り払っていた。
相当強く握られていたようで、白い肌にくっきりとした赤い痕が浮かんでいる。
信じられないという顔で凝視してくる彼に、思いっきり日本語をぶつけた。
「人違いです! 私、貴方の知り合いじゃありません!」
大声を上げたからか、少年の頭の耳が、目に見えるくらいに震え上がった。
痛そうに耳を押さえ、わなわなとこちらを見やる姿が映る。
愛理子は彼に背を向けた。
「絶対私じゃありません、他の人を当たってください!」
そして走り出す。
少年の罵声が背中を叩きつけてくる。
「――――!」
やっぱり何と言っているのかわからない。
振り返ろうとは思わず、とにかく急ぐ。急いで、急いで逃げる。
――でも、逃げる必要なんてあったの?
そんな走っている途中で、どうしてもっと親身にならなかったのだろうと、早くも後悔している。
話が通じなくても、ボディランゲージで頑張ればよかったのではないだろうか。
警察か、観光案内所まで連れて行ってもよかったのでは?
無数の『こうすればよかった』が、愛理子の中を駆け巡る。まるで、頭の中に鉛を入れられたかのように、気が重くなる。
でも、引き返す勇気はない。
仕方ないわ、だって、私は人見知りなんだから。心がずぶずぶと沈み込んでいく。同じ日本人でも駄目なのに、言葉が伝わらない外国人なんてとても無理。
そう言い訳しながら、せめて、早く探している人を見つけられればいいのだけどと、愛理子は思う。せめて、もっと親身で、話のわかる人が来てくれれば……。
彼の様子が気になって、ちらっと後ろを見た。
「ひっ!」
瞬間、喉が甲高い悲鳴を上げた。
すぐ後ろ、彼が追いかけてきていたのだ。それも、物凄く速い。顔がうんと近くにある。
何で、気づかなかったの! 足音! 混乱しながら、愛理子は足を速めた。
しかし、どんどん距離をつめられる。ダッダッとアスファルトを駆ける音が間近に来ている。
何、この子、相当足が速い!
まずいと、愛理子の頭が警鐘を鳴らす。
こういう時は、どうしたらいいのかしら……! 足と一緒に頭も動かす。
そうだ、助けを呼ばなくちゃ!
震える手。揺れる鞄の取っ手にさげた防犯ブザーのピンをなんとかつまんで、引き抜いた。瞬間。
ビリリリリリッリリリリリリッッ!!!!
と、機械的な大音量が街並みに轟いた。
音に驚いたのだろう。少年が耳を塞いで蹲ったのを、目の端で確認する。
「どうしたっ。何かあったのか!?」
「君っ、大丈夫かっ?」
続けて、ブザーを聞きつけた大人が、どたどたと建物の隙間から現れ出した。スーツ姿の人もいれば、ラフな格好の人もいて、しゃがみこんでいる少年の元へ駆け寄っていく。
愛理子がブザーのピンを押し込むと音はやみ、キーキー鳴きわめく彼の声が痛痛しく届いてきた。
胸の痛みを感じながら、ざわついている大人達を振り返る。
「すみません! この子、何か勘違いしているんです!」
「なんだって?」
男の困惑したような声が返ってきたが、構わずに走り出した。
すみません、すみませんと何度も叫ぶ愛理子の身体は、少しでも彼から逃れようと息をあげる。
その時、「うおっ!??」というどよめきが上がった。
え? と、声のした後ろを振り返ってみて、絶句した。
嘘でしょうっ……!?
少年が、高く、高くに跳び上がっていた。
ぐるりと取り囲み心配してくれていた、大人達の背丈を悠々に飛び越えて。
夕暮れの空の切れ間が、バックに映る。
「な、何……、あれっ……」
目を見張りながら、これはいけないと即座に背を向け駆け出した。
心臓がばくばくと脈を打って止まらない。
何なのよあのジャンプ力はっ……、信じられない。あんなの、人間業じゃない。
ウサギじゃないの、ウサギ!
そんな錯覚をしてしまったのは、彼の外見がウサギみたいなせいだろう。
目についた路地裏へ一気に飛び込む愛理子。
入ってすぐ、カンッと革靴の爪先が何かを蹴っ飛ばした。目の先に空き缶が浮上する。
「っ?」思わず眉を顰めると、次はぐしゃりと厚紙のようなものを踏み潰し、わずかに靴裏が滑ったところで、ぐにゃっという嫌な感触。
さすがに下に目をやると、その狭い通路にはゴミが散乱していた。うっと鼻をつまみそうになったのをこらえて、走り続ける。
色々なゴミを踏み、飲みかけのジュースの飛沫が靴下に飛び散り、足が冷たくなる。気持ち悪くても、拭っている暇はない。
なんで、こんなところにっ! 思わず頭の中で文句を言っていると、
「――――っ!」
背後から、つんざくような悲鳴が聞こえてきた。
な、何なの。走りながら頭だけ後ろを向けると、少年が盛大にすっ転んでいるのが見えた。
カンッと空き缶らしいものが落ちる音が後に続く。
「貴方、だいじょ――」
彼の元へ行こうとしかけて、ブンブンと頭を横に振る。Uターンしかけた足をすぐに正面へ戻し、つんのめりになりながらも走った。
いや、自分から捕まりに行ってどうするの。私は追いかけられているのよ……!
気の毒に思いながらも、その隙にと、狭い通路を抜けようとしたところで。
「……ッ!」
息を呑み、その場でブレーキをかけてしまった。
心臓が、全身が、一瞬、たしかに止まりかけた。
狭かった路地を抜け、開けたところの一角。
そこには、段ボールやずた袋、ビール瓶でも入っていたであろう空のケースが積み上げられており、上に複数の不良が座っていたのだ。
金髪、モヒカン、スキンヘッド、パンク、タトゥー、ピアス……。派手な格好をした男達が、ゴミ山にたむろっている。