白ウサギを追いかけて
「……え?」
愛理子は思わず、目を見張った。
人々の中に混ざる、一点の白。
「白、ウサギ……?」
夢の中の、あの子……? 思わずそう錯覚したが、そうではなかった。
正しくは、ウサギのような耳を生やす、白い髪の少年。
童話から抜け出したままの格好で、赤いチェックのスーツを着、黒いズボンをはいてる。
そうよね、あれは夢なんだもの……。
どこか落胆しながらも、愛理子は目を離すことが出来なかった。
だって、ウサギの少年だ。人込みの中でもよく目立つ。
よく見ると、彼は足を止めていた。頭に生やした耳を立てて、辺りを見渡している。
何をしているの。
気になって見つめていると、彼は横から来た人にどんっとぶつかって、よろけだした。それも一度では終わらず、他の人にぶつかりそうになったのをよけては、またぶつかるを繰り返す。それは周りの人にも伝染し、誰かと誰かがぶつかりあい、転んだ拍子にまた別の誰かが躓いて、誰かの背中を押しだしてよろけさせたりが続いていく。
こうして、彼のいる人込みに、本当の本当にちょっとしたごたごたが巻き起こった。
通りすがった人達の皆は皆、彼ら――特に、ウサギの少年から、離れた位置を歩こうとしていた。
まるで、少年こそがこの不幸の原因で、彼の半径数メートル内にいるから、こんな目に遭ってしまうのだというように。
気づけば彼は、すっかり雑踏の中から外されていた。
ぽつんと取り残された姿が、愛理子の目にやけにくっきりと映り込む。
「可哀想……」
思わず、そんな同情が口からこぼれていた。
けれども当の本人は、むしろせいせいしたといった風に赤チェックの上着を両手ではたく。それから、何事もなかったかのように歩き出し、路地の中へと消えていった。
――あの子は、誰?
手に持った缶ケースを咄嗟にポケットに突っ込むと、愛理子は走り出していた。彼を追いかけなければいけないという、使命感に駆られて。
横断歩道まで走る。信号が黄色から点滅していたので、迷わず突っ切って、ウサギの少年が入っていった路地へと入る。
狭い通路を抜けた先には、別の通りがあった。そちらは表通りとは違い、人の姿はまばらだ。店は立ち並んでいるものの、ほとんどのシャッターが閉まっている。
どこかしら、と探す間もなく、あの目立つ赤い背中が目に飛び込んできた。
慌てて路地の中へ引っ込み、そおっと壁から顔を出してみる。
やっぱり、その場で立ち止まって、辺りを見渡している少年。その手の中には、きらりと光る金色の懐中時計があった。
――やっぱり、そうだわ。 アリスの、白ウサギ!
こんなところで出会えるなんて! 胸がどきどきとときめき出す。
こんな、素敵な白ウサギを見るのは初めて。
両手で覆った唇から、うっとりと息がもれる。
ふわふわっとした白髪に、ぴくぴくと動くリアルな白い耳。
黒いズボンからは同じ色の丸いふわふわの尻尾が飛び出て、靴もまた白ウサギの足の形をしている。
こうして近くで見ると、本当に凝った服を身に着けているのだなと思う。
あのよく目立つ赤いチェックの上着には、よく見ると小ぶりの黒いハートが均一にプリントされており、足首の部分がきゅっと締まったズボンの裾にも、ハートのワンポイントがあしらわれていた。
おまけに、金色の懐中時計が繋がれているのは、黄色のチョッキである。
もう、『不思議の国の白ウサギ』。
そうとしか思えない!
彼は何者なのだろう――そうね、演劇部員かしら、とまず始めに思った。
高校生である愛理子から見ても彼は小柄で、とても大人には見えない。それに、よく見ると服が着崩れているし、白い髪を結ぶ、淡い水色のリボンもちょっといがんでいた。
どうして水色なのだろう。せっかく赤と白で揃えているのだから、リボンも赤い方がいいと思うのに。
そんな感じで、どこか残念なところがあるのが、子供っぽい。
でも、それにしてはどうもひっかかるところがあった。
それは、彼の仕草だ。
見た目や服装、小物は問題ない。むしろ、はなまるだ。演劇に力を入れている学校であれば、こだわりの衣装でキャストを飾るだろう。たしか、この近くに演劇で有名な学校があるはずだ。
でも、リアルな動きとなるとどうだろうか。
立てた耳をぴくぴくさせ、鼻をかがせているような仕草は、人の姿をしていながら、ついウサギだと感じてしまう程だ。
明らかに、プロである――なら、劇団員ではないかと愛理子は考えた。どこかの劇団で、『不思議の国のアリス』のショーをするのだろうか。
そうだとしたら、是非見たい!
愛理子は、彼の背中を追い続けることに決める。
彼が辺りを見渡すのは、おそらく、道に迷っているからではないだろうか。劇団に向かっていて、しかし場所がわからず、目印を探すのに苦心しているといったところか。
愛理子は妄想を膨らませる。
彼、口に出さないだけで頭の中では、「遅刻する、遅刻する」って騒いでいるんじゃないかしら。原作の、白ウサギと同じように。
そんな彼の後を、つける私。まるで、白ウサギを追いかけるアリスのようだわ。
行き着いた先には別のもっと素敵なアリスが待っているのだろうけど、今だけは、私が、主人公のアリス。
丁度名前も同じだし……漢字なのがちょっと、残念だけど。
後を追っていることに、罪悪感はなかった。
それどころか、ふわふわっと今に浮かんでいってしまいそうな足取り。高揚感でいっぱいの心。もしも愛理子が風船だったなら、あっさりと空へ舞い上がっていっただろう。
何も、彼を捕まえたいわけじゃない。ストーカーになるつもりもない。
ただ、彼がどこの劇団に所属しているのかが知りたいだけ。それさえわかれば、あとはスマートフォンで調べればいい。
でも、彼はスマートフォンを持ってないのかしら?
ふと、小さな疑問がわいた。
場所がわからないなら、調べればいいのに。地図らしきものも開こうとしない。
まあでも、皆が皆、持っているわけでもないわよね。
愛理子はそう考え直して、納得した。今日は偶然、道に迷ってしまっただけかもしれないわ。
一定の距離を保ちながら追っていると、少年は角を左へ曲がった。
完全に通り過ぎたのを確認した上で、しばらく間をおいて、同じ場所を曲がる。すると。
すぐ目の前に、あのウサギの少年が立っていた。