孤独な私
放課後。
雑居ビルや飲食店が立ち並ぶ道を、愛理子はとぼとぼと歩いていく。
両手で持っている黒皮の鞄が、朝よりも重く感じられた。それでも、前髪は目にかからないし、背筋は伸びたまま。それが、名門華ヶ丘学院高等学校の華である彼女の矜持だった。
この大通りには、彼女以外にもたくさんの人が行き交っている。
並んで自転車を走らせる学生。きゃあきゃあと騒ぐ若い女性のグループ。腕を組み、寄りそいながら歩くカップル。小さな子供を連れて、買い物袋をさげる主婦。綺麗にラッピングされた包みを抱えて走る、サラリーマン風の男性。
それらの人々が、愛理子の目にぼんやりと映っては、前からも後ろからも通り過ぎていく。
ここでも、愛理子だけが、その存在を切り離されていた。
その時、背後から甲高い声が飛んできた。
「ごめん、ごめん!」
思わず振り返りかけたが、髪を振り乱してすぐに前を向き直す。
――そんなわけ、ないじゃない。
ズキン、と胸に痛みが走る。
実際、それは正しかった。何故なら、愛理子の横を駆けていった少女は、彼女とは違う黒のセーラー服を着ていたからだ。
仮に同じだったとしても、声をかけられたのが愛理子のわけがない。
激しくポニーテールを揺らす少女は、少し先のファストフード店の軒下で、同じ制服の少女達と落ちあった。
息を切らしているのか、背中を丸める彼女を、大丈夫だよーとねぎらっているのが目に入る。
その彼女達が、不意にこちらを向いてきた。
「ね、見て。あれ華ヶ丘女学院の制服じゃない?」
「うそー、ほんとだ。可愛いー」
ビクッと肩が跳ねる。
出来る限り身を縮めながら、愛理子は早足で店の前を通り過ぎていく。
……何なの、あれ。
頭の中にあるのは、仲のよさそうな少女達の楽しそうな姿。
ぎゅうと胸が締めつけられて、息がつまりそうになった。
上質な皮の鞄が手から滑り落ちそうになったのを、慌てて掴み直す。
その拍子に後ろ髪が顔にかかってしまったが、手でよけようともしなかった。
楽しそうだったな、あの子達。楽しそうだった……、うん。とても、楽しそうだった……。
重い足取りで、俯きがちに歩く愛理子の脳裏に、今日の六時限目のことが浮かんでくる。
澄川あがりに、逃げられた。
一緒に「不思議の国のアリス」をテーマに発表しようという誘いを、断られた。拒絶された。あんな風に、あからさまに。大声なんて、出さなくたっていいじゃない……。
幸いだったのは、それが最後の授業だったということだ。
そうでなければ、愛理子の心は持たずに、席についた時点で椅子から崩れ落ちてしまっていただろう。
現に、図書室から戻ってからはずっと教室の片隅で突っ伏していたし、終礼が終わってすぐに校舎を後にした。
今日のことで、愛理子の身に染みたことがある。
一つ、自分には友達を作る器なんかないということ。
二つ、皆、自分なんかとは友達になりたくないということ。
孤独な自分とはあまりに違う、皆の姿。
勉学に励みながらも、友達と連れ合い、時にはじゃれあう。
そんな、愛理子の望むささやかな学院生活は、あまりに遠い、遠い世界の物語。
……いつまでも、めげてなんて、いられないもの……。
諦めのこもった溜息をつき、行き交う人々の間に入っていく。
淡い空のてっぺんには群青がかかっており、灰色混じりの白い雲が、遠くへ遠くへと広がっていっていた。辺りはまだそれなりに明るいのだが、アスファルトには早くも、薄い影が伸びている。その内真っ暗な夜を迎え、しばらく過ぎれば太陽が昇って、明るい一日の始まりを告げるのだろう。
どんなに『時間くん、止まって』と願ったって、時計が8時をさせば、愛理子は女学院へ向かわなければならない。
たとえ、一人ぼっちでも。
……そうね、気分転換をしなくちゃね……。
帰路を辿る彼女の目にとまったのは、一軒のケーキ屋だった。
ヨーロッパの下町にありそうな、洋風でこじんまりとした様相。『パティスリー・フェアリーテイル』と筆記体で書かれた看板は、どこか色あせている。
明らかに今話題の新しいお店ではないが、それが逆に魅力的に映った。
そうだわ、ここで甘いものでも買おう。
虚ろな目を浮かべた少女は、吸い寄せられるように店のドアを開く。
♥♠♦♣
からんからんと鳴るベルの音とともに外へ出た愛理子は、入る前とは打って変わって上機嫌だった。
今まで両手に下げていた鞄を片腕にかけ、かわりに店で購入した銀色の缶ケースを抱いている。あえて、包み紙は断っていた。
店の前で、蓋に貼りつけられた絵をうっとりと眺める。
トランプが舞う背景の中。時計を持って逃げていくウサギと、手を伸ばすアリス。『不思議の国のアリス』の始まりのワンシーンが、幻想的なシルエットで描かれている。
細かいことを言えば、トランプが舞い上がるのは始まりではなくむしろ終盤なのだが、そんなのは気にならない。だって、とにかく、可愛い。本当に、可愛い。
愛理子は、『不思議の国のアリス』が大好きだった。
――貴方の名前はね、お母さんが好きな本から名づけたのよ。
本当に小さな頃、ふかふかのソファの上で肩を並べながら、見せて貰った一冊の絵本。
自分と同じ名前の女の子が登場する物語に、幼い愛理子はすぐに夢中になった。
ウサギを追いかけて迷いこむ不思議の国。
そこには、現実では到底見かけないようなおかしな住人がいっぱいいて、アリスをナンセンスに満ちたことばの世界へと導いていく。
はじめは絵本だったが、小学生になってから原作を読み込んだ。それから、アニメーション映画も、実写映画も、それをベースにした小説も、見かけたものは全て手に取った。勿論、続編の『鏡の国のアリス』も愛読書である。
私が物語の中のアリスなら――そんな妄想にふけるのはもはや、日常茶飯事だ。
もし本当に不思議の国があって、私が本当はその世界の住人なのだとしたら……一瞬で入り込める自信がある。
ああ、思えば、昔はそんな夢を見ていた。
アリスの白ウサギと、仲良く遊ぶ夢。
間隔はまばらだったけれど、会う度に愛理子の手を引いてくれて、お喋りをしたり、お茶を飲んだり、色々な場所へ遊びに行ったりした。
でも、いつの日からか、彼の夢を見なくなった。
直後に、怖い夢を見たからだろうか。内容は覚えていないが、眠るのが怖くてたまらなくて、目に隈が浮かぶまでになった。
睡眠薬を喉に流し込んで、無理矢理眠るようになってからは、数える程しか夢を見ていないような気がする。
――何日か置いて、夢の続きを見ることは、ないことではないという。
現に、愛理子はウサギの夢を随分長く見ていたように思う。
あまりに、実感のともなった夢だった。感覚もリアルで、ふとすれば現実ではないかと思う程。
夢の中のウサギは、愛理子の大親友だった。ずっと友達でいてね、なんて指きりすることも忘れるくらいに、傍にいるのが当たり前だったのに。
どうして、夢を見なくなったんだろう。
愛理子にはわからない。
そもそも、夢に理屈を求めてはいけないとはわかっているのだけど。
だけどふと、こんなことを思うのだ。
ウサギは、嫌になって逃げたのではないかと。自分の元から。
丁度、この絵みたいに……。
缶ケースを見つめる愛理子の顔に、陰りが浮かぶ。
手を伸ばして追いかけるアリス。逃げていくウサギ。
無意識の内に唇を噛みながら、缶ケースを裏返し、底に貼りつけられたテープをはがしに入った。中には、アリスのキャラクターをかたどったアイシングクッキーがいっぱい詰まっている。
これを食べれば、元気が出る。出るはずよ。
そう言い聞かせて、テープの縁を爪でひっかいていると、
白ウサギが丁度、道路を挟んだ反対側の通りを歩いていくのが見えた。