ある白ウサギとアリスの悲劇
カチコチと、音がする。早くしろと、急かしてくる。
休むんじゃない、急げ、急げ。少しの時間も、無駄にはしない――
「アリス」
君の本当の笑顔を掴む為に、僕は許しを請いながら、走り続けるんだ。
♥♠♦♣
「もう、信用なんか出来ない」
ある日、アリスはそう言って、白ウサギの手を振り払った。
どれだけ白ウサギが理由を求めても、許して欲しいと懇願しても、その赤い目は蔑みをたたえ、冷たく見下ろすだけ。
やがて、アリスは彼の元を去った。
あれだけ仲が良かったのに。あれだけ笑いかけてくれたのに。
悲嘆に暮れる白ウサギの雪のような白色はくすみ、灰色がかるようになっていった。
一方、それを眺める真っ黒なウサギは、ほくそ笑んでいた。
楽しい日々の思い出程、心を蝕むものはない。
♥♠♦♣
「アリス、遊ぼう」
チョッキを着て、首から時計を下げた白ウサギが、弾けるような笑顔とともに手を差し出していた。
愛嬌のある、大きくて黒い瞳の周りを、同じ黒のアイラインが囲んでいる。
大好きな白ウサギ。私の親友。
アリスは大きく頷き、花畑へと導かれていった。
ぶわりと一面に広がる、水色の群生。忘れな草――
綺麗、と目を開くアリスの前で、白ウサギが花の中に飛び込んでいく。
「僕を追いかけてよ、アリス」
誘われるがままに、追いかけっこは始まった。
飛ぶように走る白ウサギの後に続くアリス。
手を伸ばしながら、小さな小さな水色を散らしていく。
やがて、白ウサギはぴたりと足を止めた。
淡い花に埋もれた、白くてふわふわの身体を抱きかかえる。
「捕まえた!」
もう離さない、と言えば、耳を垂らして、気持ちよさそうに身をよじらせた。
時折肌を撫でる風は、まるで音楽を奏でるかのように、二人の間を吹き抜けている。
「ねえ、絵本の中の人はね、楽しい時に踊るのよ」
次はアリスが提案する番だ。
「だから、私と一緒に踊りましょう!」
白ウサギの両手をしっかりと握って、ステップを踏み出した。
綿雲が浮かぶ穏やかな青空の下に、丸い形で広がる青いワンピース。
くるくると回る、小さな身体に大きな時計。
歌うようにハミングするアリスに合わせて、白ウサギがプウプウと鼻を鳴らす。
踏まれてくたりと折れても、また別の花が待っている。
果てのない淡い水色の花の中を、いつまでも、いつまでも二人は舞っていた。
「……ん、ん……」
ふっと、意識が現実に戻ってきた。
カーテンの裏側から、ぼんやりとした光が部屋に入り込んでいる。
薄い暗がりの中で、目覚まし時計を確かめる。短針がさすのは4。まだ、時間が来ていないことに安堵する。
――まだ、一緒に遊んでいられるな。
チョッキを着た白いウサギが、水色の花畑の中で自分を待ってくれている。
少女は温かい布団の中に潜り込み、垂れ下がった瞼を落とした。
夢の中では、私は幸せなの。
♥♠♦♣
とある場所で、白ウサギは、眩しい光の射し込む穴を見上げていた。
長い耳が、一定の音量で続く音を拾っている。自然の音ではないのは確かだが、それ以外はなんとも検討がつかない。
でも、この上にあるものがきっと、自分の何もかもを変えると確信している。
そう、変わるのだ。
時間が減っては戻るこの世界で、人々は幾度となく悲しい結末を迎えてきたけれど。
それをすべて、終わらせる。
チョッキに繋いだ懐中時計を握りしめると、カチコチと音がしてきた。彼を急かし続ける音――。
全てを投げ出す覚悟をした白ウサギは、ただ一人のことを想う。
――アリス。
冷たい眼差しとともに、後ろを向いてしまったアリス。
あの時、君が手を振り払ってしまったのは、本心じゃないって、わかってるよ。
罪悪感なんていらなかった。
だって、君は何も、悪くなんてないじゃないか。
……どんな非難も、どんな罰も受け止める勇気を、ようやく持てた。
アリスと、正面から向き合うつもりでいる。
そうすれば、あの出来事は無かったことになって、二人の幸せだった日々はきっと継続される。
そして、世界も平和なまま、正常な時を刻むだろう。
だからね、アリス。
僕は、どんなに僕を幸せにする誘惑にも負けないよ。
何を賭けても、君の時間を、取り戻すから。
「あとちょっとだけ、待ってて」
濡れた頬を拭うことはなく、白ウサギは床を強く蹴り上げた。