月岡の夢
あるところに、狂った学者がひとり、おりました。
学者は月岡という名前で、文学を研究していました。
しかし、月岡は狂っていたのです。
(美しい文学を、現実に現せないか?)
そればかりを考えて、考えて、考えて、毎日考えて、ひとつの結論に辿り着きました。
「創り出せばいいのだ。自らの手で、現し世に、美しい文学を!」
月岡は、慎重に考え抜いた結果、実現可能と思われる例を探し当てました。
月岡は「これならば」と思いました。淫猥で凄絶なる修羅場を描きつつも、美しい作品を生み出した実在した三人の人物。これらを元に、月岡は現実に、大いなる耽美なる文学作品を描こうと考えたのです。
月岡は、まず、薄汚い孤児院から一人目の男の子を連れてきました。彼には、『聖雨』という名前を与えました。
月岡は、聖雨に残虐な文学・芸術・歴史、ありとあらゆる人間の憎悪と醜悪さの塊を徹底的に教え込んだのです。
その次に、もう一人の男の赤子を連れてきました。教会の前に捨てられていた、捨て子です。彼には『夢路』と名をつけました。
月岡は、彼に、作られた美しい物を与えました。きらきらとうつろうカレイド・スコープ。澄んだ作り物の夜空に満天に星が光るプラネタリウム。色とりどりの尾をひらめかせる熱帯魚の水槽。
月岡は、己の教育に満足していました。
そして、二人の男の子が、男となる頃に、最後の子供を連れてきました。『葉子』と名づけた、硝子玉より果敢ない印象の、美しい少女です。
月岡は、葉子を溺愛しました。そして、聖雨と夢路にも、それを強要しました。
二人は、月岡に素直に従い、葉子を愛しました。
二人とも、月岡の事を敬愛する父と慕い、葉子を愛するべき女として扱い、そうして、歪んだ楽園は完成したかのように思われました。
しかし、美しいだけの楽園など、現世には存在しないのです。
まずは、聖雨について語りましょう。
彼は残酷な男でした。夢路をからかい、時に意味なく殴打し、嘔吐するまで蹴り飛ばし、暗く沈んだ青痣と膿の溢れる傷口を愛でる事もありました。
そして、淫逸なる男でもありました。堕落し、男も女も関係なく肉体的な関係を持ち、淫らな酒宴を毎日のように繰り返していました。
しかし、それだけの男ではありませんでした。
聖雨は、『善』を信じていました。あまりにも醜い悪だけを見すぎたため、真逆の美しい、夢のような存在があると、信じていたのです。その姿は、まるで夢見がちな幼い少女のようでした。
彼は、毎日寝る前に神様にお祈りしました。
『神様。どうか、綺麗で怖い物などない、素晴らしい世界をもたらしてください』
と。
滑稽なようですが、彼は、真実、美しい善なる世界があると信じていたのです。
そして、彼は、ある女性と出会います。聖雨は、(運命だ)と思いました。
青年のような女性でした。凛々しく、潔癖で、穢れのない。聖雨の信じていた夢の国をもたらしてくれる、勇気ある戦士の如く、優美なる歌い手である彼女は笑顔で手を差し伸べてくれたのです。
聖雨は、はじめて、『恋』というものを知りました。そして、乙女のような純粋な心で、その女性を愛しはじめたのです。
しかし、その女は、『恋』を知りませんでした。女は理解できない物を見るかのように、聖雨を見ました。
聖雨の少女のような心は、ばらばらに壊れて、解けて、色々な色が混じった汚物のように固まりました。
聖雨は、旅に出る事にしました。汚い色に固まった心が、琥珀のように滑らかな美しい結晶になるまで、女の前から姿を消す事にしたのです。女の歌う声だけが、聖雨を見送りました。
そして、月岡の楽園から、聖雨は姿を消しました。
夢路の話になります。
夢路は、美しい物を愛する、夢見がちな、繊細で心弱い男でした。
外見は逞しく、すらりと伸びた手足はしなやかな強さを持っていました。肉体的には、一人前の男性として申し分なく育ちましたが、その心は、脆い硝子でできていました。
彼は、ある日、一人の青年と出会います。
薄い氷が張った、透明な池を想像してください。その中央まで、恐る恐る歩いていきます。その場に立ち、足元を眺めると、薄い膜の向こうに、自分の姿がうっすらと垣間見えるでしょう。
夢路と青年とは、そんな風に出会いました。似ているけれど、似ていない。真逆の性質を持ち、一歩間違えて踏み出せば、命を落とす。そんな関係性でした。
しかし、夢路は、その池の中央から、動きませんでした。
池に映る青年を、愛してしまったのです。たとえ、冷たい水の中に落ちるとも、二人ならば怖くない。
夢路はそう思って、手を差し伸べました。
「ここから、出て行こう。君と僕と一緒に。この手を、もう絶対に離さないから」
そう夢路は一歩を踏み出しました。
ぱりん。
薄い氷の膜は、夢路の体重を支えきれず、中央へ夢路は沈んでいきました。
(怖くなんてない。だって、彼がいるのだから)
夢路は、池の中にいるはずの青年の姿を探しました。透明な水は、死んだようになにも生き物の存在が感じられませんでした。
夢路は地上の方を見上げます。夢路が立っていたはずの氷の膜の向こうに、愛する青年は立っていました。
(ああ、そうか。君と俺は、鏡だったんだね)
限りなく近いのに、永遠に交わる事のない平行線の存在。それが二人でした。
そして、青年は、夢路と一緒に溺れるのを恐れて、池から立ち去りました。
(なにもない。でも、それでいい。俺には、彼の想い出があるのだから。彼の面影と一緒に、この水底で死んだように生きていこう)
不思議とつらくも苦しくもなく、夢路は割れた水面から射し込む目映い光が透明な水と踊るのを見て、こぽこぽと自分の吐く空気が昇っていくのを見上げ、その池の住人となったのです。
そうして、また、夢路が月岡の楽園から姿を消したのです。
さて、がらくたのようになった楽園に残ったのは、月岡と葉子の二人でした。
月岡は、壊れた自動人形のようにタイプライターを打ち続け、聖雨と夢路の物語を綴っていました。月岡にとって、予想外ではありましたが、とても面白く美しく果敢ない恋の物語を、二人は魅せていったのです。
紙に埋もれる月岡に対して、葉子は泣き続けました。愛される事に慣れた彼女は、愛してくれた聖雨と夢路が出て行ってしまって、どうしていいか分からなかったのです。
月岡は、狂喜して笑いながら、葉子にこう言いました。
「さて、お前は、どんな物語を現実にしてくれるのだい? 可愛い葉子。お前なら、桃源郷のような楽園を、一人きりでも現せる。愛する葉子。さあ、私に見せておくれ。お前の創る美しい楽園を」
葉子は、泣きながら立ち上がり、月岡の魂を引き裂く叫び声をあげました。野獣のような、美麗な外見からは想像もつかない雄叫びでした。
葉子は、三人の内で月岡から、なんの教育も得ていなかった、ただ唯一の少女でした。その本質は、野生でした。
「私は、ここから出て行きます。この足で。さようなら。私は、自分の手足で現実を歩いていきます。たとえ醜い現実だろうと構うものですか!」
目を見張る月岡を背に、葉子は駆け出していきました。小さな足は、裸足のままで。痛々しく小石がその足を傷つけましたが、それすらも葉子には素晴らしい体験でした。
「あは、あはははははははっ!」
葉子の笑い声が楽園だった場所に響き渡り、月岡は、ただひとり、そこに残されました。
ふらり、と聖雨が月岡の元に戻ってきた時の事。
彼は、もう誰も愛する事なく生きていこうと、無理難題な決意をしながら、旅をしていたのです。その心は、琥珀にはなりませんでしたが、鋼鉄の鎧で覆い、強く固くありました。もう、悪も善も信じてはいませんでした。
あれだけ美と退廃に溢れていた楽園は荒れ果て、途切れ途切れのタイプライターを打つ音が響いていました。
カタ、カタカタ、カタ……
そして、もう何を書いているかも判断できないような文章を紙に綴っている月岡に目を留め、聖雨は静かに首を振って、その場を離れていきました。
月岡は、今でもひとりで、狂った夢を書き続けているそうです。