運命
僕が黎子さんと出会ったのはバイト先だった。
3月5日。
卒業シーズンで少し忙しかったのをはっきりと覚えている。
小さな花屋だった。
そんなに花が好きな訳でも無かったのだが、少し面白そうで面接を受けてみたら受かってしまって。
すぐに面倒になるかと思っていたが、なかなかに楽しかった。
夕方の日が沈み始める頃、人が少なくなった店内で僕は花を眺めていた。
紫、赤、桃。
とても綺麗だった。
「花、お好きなの?」
外の方から声が聞こえて。
白いワンピースに黄色いカーディガン、肩まである真っ黒髪、赤い口紅。
「…ええ、少し」
「そう。その花、私も好きなのよ」
僕に近寄って花にそっと触れる。
綺麗な指先。
薬指には指輪をしていた。
「この花、頂けるかしら」
「はい、今用意しますね」
第一印象は、上品で情熱的。
こんなに優しそうなのに、どうしてそんなに艶やかな顔をしているのだろう。
不思議で仕方がなかった。
「どうぞ」
「ありがとう。また来るわね」
彼女の後ろ姿を見送った後、僕の頭の中には悪戯な微笑みが浮かんでいた。
家へ帰っても忘れられなかった。
それから毎日、僕は彼女の事を考えるようになった。
毎週火曜日と木曜日の15時頃に、彼女はやってくる。
雨が降っても、曇っていても、彼女は何かしら花を買いに来るのだ。
二人の秘密のような、そんな感覚だった。
何気無く大学に入り、何気無くバイトをして、適当に生きていた僕の価値観は、すっかり彼女によって狂わされてしまった。
彼女の事を考え、彼女に似合う花を勧めて、彼女の為に面白い話を考えた。
彼女の笑顔が見たいだけだった。
「浜野君」
「木嶋さん」
他人行儀過ぎず、馴れ馴れし過ぎず。
難しい距離だった。
なんせ人妻で、絶対に結ばれる筈なんてないと思っていたから。
好きだよ、なんて言えなかった。
この気持ちが、いつか淡く儚く消えていくと信じて、僕は彼女に接していた。
切なく思う事なんてなかった。
彼女が生きていてくれるだけで幸せだった。
それなのに
「ねえ、これからどこか行かない?」
全て壊れてしまった。
5月下旬。
確か、5月29日。
あの日から、
「護君」
「黎子さん」
そう呼び合うようになった。