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ボクと愛の試練2

「そなたはただ、あのイルカに嫉妬していただけではござらんのか?」


 リンドウに身も蓋もなく言われてしまった。

 だがサンダーは否定できなかった。そうだ、自分はルムがあのイルカに取られると思ったのだ。

 この目の前の赤毛の男が順序立てて話をしていなかったら、今も自分の不安の原因に気付かないままだっただろう。


──それを自覚していたのなら、自分はあれ以外の行動を取れていたはずだ。ルムに詫びなければ!


***


 モディは濡らしたタオルに石鹸を擦り付け両手で泡立てた。泡まみれになったタオルをルムの細い背中に当て、上下に小刻みに動かして彼女の背を洗う。


──細い背中。ちっちゃいけど胸もあるし。男の子だったときの面影なんてないじゃない……元の姿見たことないけど。


 今度は彼女の腕をタオルで包み、それを二の腕から手首にかけて滑らしていく。彼女の手首にはまだ赤い痕が痛々しく残っている。大の男に力一杯捕まれていたのなら当然だ。

 ルムの背後に座るモディからはルムの表情は見えないが、彼女の肩が上下に動いているのでしゃくりあげているのだろう。どれだけ怖い思いをしたのか……とサンダーに対する怒りが湧く。

 しかし体を洗っている間に気付いたのは、腰や腿など下半身には乱暴した形跡が見られなかったことだ。


──サンダー、あいつ寸でのところでやらなかったってこと?


 あの状況から、ルムの様子から、サンダーは一線を越えていたものだと思っていた。

 だがそれらしい形跡はない。あの錯乱した状態でもサンダーは自分を抑えることをしたってこと? とモディは動揺した。


「……モディ」


 小さく呼びかけてきたルムの声でモディは我に返った。彼女の体を洗う手を止め「何?」となるべく優しく返事をする。今の傷ついているルムに自分のネガティブな感情が少しでも伝わらないよう気を遣った。

 ルムは小さく肩を痙攣させながら涙声で言葉を続けた。


「サンダーの様子が……おかしいんです」


「そうね……」


 まずは聞き役に徹する。ルムから言葉を引き出し、そして彼女の本音に従おう。だから今は自分の怒りを隠す。それがルムの考えや心に影響を与えないように。

 ルムがサンダーを嫌いになって離れたいと思っているのなら、自分はその手助けをするだけ。ルムはサンダーを嫌うには十分すぎることをされたのだから。


「ボクは彼が何を考えているのかわかりません」


「そうよね」


「あの人が何を思って、どうしてあんなことをしたのかさっぱり繋がらない……」


「うん……」


「あの人が何を怖がって……何に怯えているのか、それがわからないんです。ボクはそれにちっとも気付いていなかった」


「えっ?」


 モディは自分が思い違いしていることに気が付いた。ルムが言う「様子がおかしい」とはあの行動を指しているのではなく、サンダーの精神の異変そのものを示していた。


「夕べ彼は少しだけ弱みを見せていたのに……ボクはそれを知ろうとはしなかった。それを知っていたら、自分で彼を止められていたかもしれないのに」


 さらにルムの言葉にはその異変の原因を知りたいと、彼を救いたいという気持ちが垣間見えた。

 あんな怖い思いをさせられたのに? という言葉をぐっと飲み込む。サンダーがあんな行動に至った何らかの理由があるように、ルムにも彼を放っておけない理由があるのだろう。

 自分はルムの本音に最初から従うつもりだった。それならば彼女の本音が自分の予想と違い納得いかないものでも受け入れるしかない。今回はサンダーに再び近付こうとするルムを阻むことはできない。だってそう自分で決めていたのだから。

 モディはシャワーのバルブを捻って湯を勢いよく出した。シャワーの水音が狭いバスルームに響く。


「アタイがこれを見逃すのは最初で最後だからね、サンダー……」


 ルムには聞こえないように、シャワーの音で自らの呟きをかき消した。


***


 コンコンと壁を拳で叩く軽い音が聞こえた。その音がした方向……すっかりドアが取り外されてしまった部屋の出入り口を見た。部屋に入ってすぐのところに例の男が壁に寄りかかって立っていた。そいつは訳もなくにやけた笑みを浮かべている。


「悪いねェ。部屋に入る前にはドアをノックするのが礼儀だろうけど、そのドアが壊れてたからさァ」


「何の用だ?」


 サンダーは威嚇するような低い声で尋ねた。自分の気持ちを自覚したのなら逆に彼に取るべき態度は明らかだった。奴にはルムに近付いてほしくない。


「あんたがお嬢ちゃんのコレかい?」


 男は右手の小指を立ててサンダーに見せた。サンダーは「それは女性を指すんだ」と言って呆れた。それでも男の言いたいことはわかる。サンダーは男を睨みつける。


「ルムが俺のことを何か言っていたのか?」


「あのお嬢ちゃん『ルム』っていうのかい? 可愛い響きだねェ」


「はぐらかすな。ルムは何と言ってたんだ?」


「まぁまぁ」


 男は今にも食ってかかりそうな雰囲気のサンダーを宥めるように両手の平を見せた。その余裕を見せた態度が余計に癇に障る。


「一応聞くけど……あんたはあの『青い化け物』で間違いないかい?」


「誤魔化しても仕方ないから言うが、そうだ。お前も似たようなものだろう?」


「まあねェ。お嬢ちゃん……ルムっぺはパートナーのために貞操を守るつもりだったんだよォ」


「お前、何をした!」


「最後まで聞きなよォ。何もしてないよ、結果的にはね。ルムっぺに同衾を誘ってみたんだけど、そンときに『それをするのはこの世でたった一人』って拒否されちゃってさァ」


「何だと」


「断る理由なんか他にいくらでも出てくるだろうに、思わず本当のことを言っちゃったみたいだねェ。そンときは適当な理由かと思ったんだけど、あんたが助けに来たときのルムっぺの態度を見て『あぁ、本当だったんだな』って思った訳よ」


「本当か……?」


「今はどうかわからないにしても、少なくともあンときはルムっぺにはあんたしか考えられなかったんだろうしねェ」


 サンダーは押し黙った。言葉が出てこない。自分が感じている以上に彼女は自分を想っていたのだ。惚れ込んでいたのだ。彼女の気持ちは自分がわかっていると思っていたが、わかっているつもりになっているだけだったのではないか。自分は彼女のことを一番理解していると自惚れていたようだ。だけどその自惚れのせいで、気付かず見過ごしている部分もあった。

 彼女の気持ちにもっと気付いていれば、こんなことで不安になって傷つけるような真似はせずに済んでいたのだ。


「ルムっぺについては最初は顔が好みだったからちょっと楽しめればいいかなァって思ってたんだよねェ」


「貴様! 口を慎め!」


 サンダーに気遣ったのか、リンドウが男に怒声を浴びせた。それでも男は首を傾げて、口角を上げ目を細めて笑った。


「だけど何者かわからない俺に向かってさァ、『自分が何者かわからない以上、自分を大事にできるのは自分だけ』って説教かまして諭すなんて人が好すぎるだろォ? 得体の知れない奴に、生き方を説くなんて」


 男はにやけていたが、その奥に凪のような穏やかさがある。いや、その凪を呼んだのは紛れもなくルムなのだろう。ルムの言葉がこの男の心を平らにした。またルムは人を惹き付けた。

 この男も、モディも、リンドウも、そして自分も彼女に強く惹かれてここまで来た。遠く離れているユーすらルムを常に気にかけている。


 だけどルムが特別に想っているのは……自分だった。離れたときに真っ先に彼女の頭に浮かんだのは自分だったのだ。本当の意味で彼女を失いたくない。嫉妬とかではなく純粋に傍にいて欲しい。強くそう想い、願い、祈った。

 サンダーは立ち上がりベッドから離れた。


「リンドウ、ルムはモディの部屋にいるのか?」


「左様でござる」


 リンドウが少しだけ頬を緩めたように見えた。

 サンダーは一秒でも早くルムに会おうと駆ける。しかし部屋を出る前に立ち止まり、少しだけ振り返った。リンドウが背筋を伸ばして立っている様子が目に入る。


「ありがとう……気付かせてくれて」


「うむ……だが気付いただけで終わりではござらん。そなたはルム殿に許しを乞い、それを得なければならぬ」


「ああ……だから行ってくる」


「うむ」


 サンダーは部屋から飛び出した。隣の部屋なのだから走らなくてもいいのに、はやる気持ちが抑えることができない。


 サンダーが部屋を出た直後、リンドウはよろめき背後の壁に寄りかかると、そのまま壁を滑り落ちるようにして床に座り込んだ。彼が大きく息を吐き出すと同時に額から汗が噴き出した。

 その傍らで例の男はイルカの姿に戻った。宙を浮きながらリンドウを見下ろす。


「お兄さんすごい汗だよォ? ずっと傷の痛みに耐えてたって言うのかい?」


「苦悶の表情で諭されて誰が聞き入れるものか」


「強がりだねェ」


 イルカは頭を上下に小刻みに動かした。


***


 サンダーはモディの泊まる部屋の扉の前に立った。リンドウの言うことが本当ならばこの中にルムがいる。鼓動が速くなり、扉をノックしようとした拳が震えていた。

 自分が彼女に対してやったことは理解している。だから恐怖している。ルムに嫌われたのではないかということと、またルムのことを怖がらせてしまうのではないかということに。こんなに逃げ出したくなるような気持ちになるのは初めてだ、と思った。

 でも逃げても仕方ない、どんな結末になろうとルムと向き合い謝らなくてはいけない。本当はルムと離れたくないが、それは彼女の決めることだ。だから話を聞いて欲しい。サンダーは大きく深呼吸をした。

 拳を扉に軽く叩きつけ、コンコンと音を鳴らした。扉はすぐには開かずサンダーはその前で開くのを待つ。


 扉がわずかに開いた。そのわずかな隙間から顔を覗かせたのはモディだった。彼が訪ねてくることをわかり切っていたかのように、扉を大きく開けることはしなかった。彼女は目を細め口を真一文字に結んでいた。


「ルムの様子は?」


「さっきよりは落ち着いてるわよ。だけどね、アタイはあんたにはまだルムと会わせたくない」


「それはわかってる。それでも俺はあの子に話したい……伝えたいことがある。そして謝りたい」


 それでもモディは扉を開けず、隙間からサンダーを値踏みするような目で睨みつけている。サンダーは両手を後ろで組んで直立不動の姿勢を見せた。


「いいです。話を聞きます」


 部屋の奥から小さな声がした。一瞬でモディの顔に焦りと動揺が浮かび、部屋の中へと振り返った。彼女の視線が完全にサンダーから外れたが、それでも彼はその隙に扉に手をかけて部屋に踏み込んだりはしない。

 サンダーの立っている位置からでは部屋の奥のルムの姿は見えないが、ようやく彼女の気配を感じることができた。ただそれだけで喜びを感じ、胸が高鳴る。心と体の高揚は自分がどれだけ彼女を愛しているかを思い知らせる。

 モディは不満げにサンダーの顔と部屋の奥を交互に見た。彼女は無言のまま俯いたかと思うとふぅーっと大きく息を吐いた。


「わかったわ。二人だけで話したいことがあるでしょうから、アタイは部屋を離れるわ。だけどその代わりサンダーは部屋に入らないで扉越しに話をすること、いい?」


「わかった」


 モディは人ひとりが通れるだけ扉を開けそこから部屋を出るとすぐに扉を閉めた。何という用心深さか。しかしそれがルムへの思いやりそのもののようにも感じられた。モディは閉めた扉に寄り添った。


「ちゃんと鍵を閉めるのよ」


 モディは用心に用心を重ねている。その様子にサンダーの中で何かが氷解していくように感じた。自分に対する警戒を決して緩めない。それはつまり中にいるルムを守ろうとする彼女の意志に他ならないと感じた。


「モディ」


「何よ」


「ルムを守ってくれて……ありがとう。俺からルムを引き離したときは、本当に憎く思った。だがその後無理に連れ戻しに行かなかったのは……お前にならルムを任せられるとどこかで信用していたんだ。何だかんだでお前はルムと気が合ってて、彼女を思いやっていたからな」


「……アンタにルムを巡ってお礼を言われるなんて気持ち悪いわね」


 モディはサンダーの方を見もせず、それだけ言い残して部屋の前から去っていった。

 サンダーは彼女の背を見送ってから再び扉に体を向ける。モディは中のルムに向かって「鍵をかけろ」と言ったが、いくら待っても鍵をかける音が聞こえない。今ノブに手をかければこの扉は開き、ルムに会うことができる。

 でもサンダーはそれをしなかった。今はまだ自分にその権利はないとわかっているからだ。扉の向こうに人が立っている気配がする。


「ルム……」


 それは即ち、この板一枚を挟んだ向こう側に愛しい人がいる。本当はルムに触れたい、抱き締めたい。だから自分の胸の内を明かし謝ろう。そのために今自分はここにいるのだ。


「ルム……本当に、すまなかった。怖い思いをさせてしまって。……少しだけ言い訳をさせてくれ」


 扉の向こうは無言だ。それは「話を続けてくれ」という意味だと、都合がいいとは思うがそう解釈させてもらった。


「俺は……大事なものを失うことが、奪われることが何よりも恐ろしいんだ」


 サンダーの瞼の裏に浮かんでくるのは今朝も見たあの悪夢の光景。繰り返し見る、立った一度のできごと。


「俺が【魔女】によって故郷を失ったことは前に話をしたな? あの日から大事なものを失うことに怯え、それでもそれを押し殺してここまで来た。……だけど今日、目の前でルムが攫われて取り乱した。また俺は大事なものを失うのかと思って……」


 だが赤毛の男が言うに、それは自分の思い違いだと。【魔女】という得体の知れない存在に奪われてしまうという恐怖とは違うのだと指摘され、そして自覚した。


「だけど実際はその時感じた恐怖と今日のそれは違った。もっともっと情けなくてくだらない感情があった。愛する人を他の男に取られたくなかった……ただの嫉妬だ、男として負けたと思いたくなかっただけだ。国や肉親、友人が相手なら俺はあんな行動には出ない。【魔女】への恐怖や憎しみと嫉妬心の区別がつかずにパニックを起こして、傷つけて、本当にすまなかった」


 右手でそっと触れると扉に重みを感じた。向こうで人が寄りかかっていると、扉からこんな反動が返ってくる。向こうでルムがこの扉に寄りかかったに違いない。扉を挟んで互いに触れ合っている、そんな気さえした。

 サンダーは扉に額を押しつけ寄りかかると「ルム」と小さく呼びかけた。目を閉じると彼女に触れているように感じられた。


「ボクだって怖かったんです」


 愛しい人の声が聞こえた。だがその言葉はサンダーが恐れていたことを現実のものとし、彼の胸を抉る。覚悟を決めてここに来ていたはずなのに、やはりいざ現実を突きつけられると恐怖心に押し潰されそうになる。

 ついさっきは近くに感じたはずなのに、あっという間に彼女が遠くに行ってしまったような気になり狂いそうになる。

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