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ボクと愛の試練1

 狭くて急な階段を駆け上がるのは地団太を踏む動作と変わりないように感じた。階段を上っていないような錯覚に陥り、余計に焦る。モディは顔を濡らす雨粒を払うように思い切り振り返った。目線よりも下にはやはりずぶ濡れのリンドウとイルカ男が一列に並んで階段を上っている。イルカ男はイルカに戻っていたはずだったが、雨に濡れて人の姿に戻っていた。


「リンドウ、アンタ。傷は大丈夫?」


「心配無用。それよりもルム殿の身が心配だ。急ごう」


「そうね。ずっとサンダーの様子がおかしかったのには気付いていたのに……。ルムに変なことしてなきゃいいわ!」


 言い終えると思わず舌打ちをこぼした。サンダーの異変に薄々気付きながらも流そうとした自分の愚かさを呪った。

 モディの右足が階段の最上段を踏む。それと同時に自分たちが泊まっていた部屋の方向から女の子の悲痛な叫び声が聞こえた。


「ルム!」


「あれは間違いなくお嬢ちゃんの声だねェ」


 冷や汗が吹き出て雨粒と混じる。頭で考えるよりも先にすでに腿のベルトに納めた銃に手をかけていた。狭い廊下を走りながら目標の部屋のドアに銃口を向けた。


「アタイがドアの蝶番と鍵を壊すから、リンドウは突入をお願い!」


「承知!」


 ドアの正面に立ってから撃つなんて余裕はない。一番奥の部屋までそれでも大股で十歩以上ある距離だ。しかも的は小さい。それでもモディは躊躇わなかった。

 ガン、ガン、ガン、と三発の銃声が狭い廊下に響く。ほぼ同時に木の破片に紛れて金属の部品が弾け飛んだのが見えた。他の部屋の中から驚き混じりの悲鳴が上がる。悪いと思いつつも、他の宿泊客を気遣う余裕はなかった。


「希代の銃の名手だな!」


 モディの後ろからリンドウが彼女を追い越し、ドアに向かって疾走する。彼は速度を落とすことなくドアの手前で体を縮め、左肩をドアへと向けた。背中からドアに飛び込むように体当たりをする。サンダーと並ぶとどうしても小粒に見えてしまうが、実際にはリンドウだって長身で鍛えられた体をしている。木製のドアくらいなら体当たりで壊すのも可能だろう。

 ドアは割れたり折れたりすることなくそのままの形で部屋の中へと傾いた。バフォンと圧縮した空気を逃す音が鳴ると共にドアが床に倒れ、埃が舞う。


「ルム!」


「ルム殿!」


 倒れたドアを避けたり飛び越えるという考えには至らなかった。二人はドアを踏みつけながら部屋に飛び込んだが、部屋の中の光景を見てほんの一瞬だけ足がすくんだ。

 入口のすぐ傍にある大きなベッドの上に、刺青を露わにした大きな背中が見えた。その男は息を荒くしてベッドの中央で座り込んでいる。

 そしてその奥には……追い詰められたように壁に寄りかかり乱れた着衣のまま涙で顔中を濡らす女の子がいた。さっきの悲鳴が嘘だったように、口をぱくぱくさせたまま声を出すことができない。


「ルムっ! サンダー、アンタ何やってるのよ!」


 硬直が解けたモディはベッド脇まで駆け寄り、小さく丸まって泣いているルムの腕を掴んで引き寄せた。抱き止めた彼女の肩はガタガタ震えている。モディの腕の中にルムが収まった途端、サンダーが顔を上げモディを鋭い眼光で射抜く。


「……ルムを奪うな!」


 低く掠れた声で威嚇してきた。その様は手負いの獣だ。これで怪物化して本気で襲いかかってくれば無事では済まない。モディはルムを強く抱き締めた。

 しかし怯むことは許されない。腕の中で怯えて泣いているのは目の前の男に酷いことをされた女の子だ(実際は元男なのだが)。今ここで自分がこの子を守らなくてはまたこの男によって危険に晒されてしまう。

 モディはルムの肩を抱いて素早くベッドから離れ出入り口へと移動する。サンダーがベッドから腰を浮かし、ルムを奪い返さんとモディの腕の中の彼女へと手を伸ばした。ルムは「ひっ」と小声で呻き、目をぎゅっと瞑ってモディにしがみつく。

 その瞬間、サンダーの首元に金属の光がちらついた。


「サンダー殿、動くな」


 刀を抜いたリンドウがそれをサンダーの首筋にぴたりと当てていた。鍔に程近い刀の根本の、それも峰ではなく刃を首筋に当てている。鍔迫り合いの距離でサンダーはギラついた目をリンドウに向けている。


「そなたがあの物ノ怪になろうものなら拙者でも勝てぬ。だがそうなる前にそなたの首を落とすことくらいならできるぞ」


 サンダーは微動だにせずリンドウを睨みつけている。確かに今少しでも動けば頸動脈がかっ切れるほどすれすれに刃物が当てられている。そしてその言葉が脅しでないことも、いくら錯乱した頭でも理解しているようだった。サンダーはリンドウの力量を見誤っていないし、それをわからせるほどリンドウは鬼気迫っていた。

 リンドウはちらりとルムに視線を送る。そして小さく溜息を吐いた。


「今このようにそなたの身に危険があるというのにルム殿が止めないのが、そなたから心が離れている何よりの証拠。今そなたはルム殿に近付くべきではない」


 ルムはモディに抱き締められながら体を震わせ、目に涙をたっぷりと溜めていた。サンダーだけでなくルムの精神状態も尋常でないことはリンドウも理解していたようだ。

 リンドウの言葉にサンダーの表情から怒りみたいなものが失せていく。だがそれは落ち着きを取り戻したのではなく放心状態になったに過ぎない。


「……リンドウ、そっちは任せたわ」


「承知」


──あの朴念仁に今のルムを慰められるとは思えないし、説教垂れるのはあいつの方が向いてるわ。


 それに自分だったらサンダーと話してるうちに何をし出すかわからない、とモディは思った。彼にこの場は任せてルムを自分の部屋に連れて行こう。

 モディは一度振り返った。力なくうなだれて捨て犬のような顔をしているサンダーと目が合うと、モディは右手の親指を立てて自分の首の前を素早く横切らせた。それだけやって、ルムを連れて部屋を出た。


「モディ殿……全く品がない」


 リンドウは呆れた口調で呟き、二人が去っていく姿を見送った。


***


 ルムの声が、匂いが、体温が消えた。


 立ち上がりかけたが、足から力が抜けていく。サンダーはベッドに腰を下ろし俯いた。脳裡に浮かぶのは、自分以外の人間に肩を抱かれ振り返りもせず震えていた小さな背中だけ。俯いたまま頭を抱える。

 彼女の「いやだ」という叫びが頭の中で繰り返される。彼女の涙が瞼に灼き付いている。それがサンダーの全ての気力を奪った。ルムはたった一部屋向こうにいるはずなのに、追いかけることもできない。

 サンダーの正面に立つリンドウは大きく息を吐いてから徐に床に腰を下ろし胡座をかいた。雨に濡れた袖で額の汗を拭ってから彼は口を開いた。


「そなたが訳もなくルム殿に無体なことをするとは思えぬ……。その訳を話してもらえぬか?」


 彼は穏やかな声でサンダーに話しかけた。刀を向けてきたときの剣幕とは百八十度印象が違う。それはとても過ちを犯した人間に向ける態度ではなく、逆にサンダーを混乱させた。


──言い訳のできないほどの酷いことをルムにしたというのに、なぜこの男はこんな落ち着いていられるんだ?


 胸の底に鉛が沈んだような苦しさを覚える。真綿で首を絞めるようなリンドウの優しさにサンダーは困惑し、追い詰められる。サンダーが口を開くのを待っているのか、リンドウは黙っている。巨大な罪悪感がこの沈黙に耐えうる精神力を奪った。


「……何でそんなに落ち着いている? 俺は愛する人を傷つけた。最もやってはいけないやり方で。その結果あの子に拒まれた。俺は責められるべきだ。殴られても罵られても当然だ。だけど失いたくない。大事なものを奪われるのだけはもう嫌なんだ!」


 俯いてリンドウとは目を合わせないままサンダーは叫ぶようにまくし立てた。この淀んだ胸の苦しさから解放されるなら暴力でも罵声でもよかった。愛する人を傷つけてでも自分の傍に置こうとした罪をただ責めてほしかった。だから、欲しいのは優しい声かけじゃない……


「そなたの身に何があったのでござろうか? それがルム殿を傷つけることと何か関係があるのか?」


 膝の上に置いた組んだ両手が震える。サンダーは顔を上げられず正面に座っているリンドウがどんな表情をしているかさえ見えない。リンドウは何も言わない。湿った冷たい空気が淀んでいくだけ。優しい拷問のような空気は耐え難いものだった。


「俺はっ……目の前で大事なものを失った。たった一瞬で……【魔女】に奪われた! あんな大きなものが突然消えるなんて……理不尽だ……っ!」


 自分の口から吐き出される言葉が支離滅裂なのは自分が一番わかっていた。こんなことを言って何も知らないリンドウに何と声をかけて欲しいのか。突然こんな告白をされても困るだろう。それでも溢れる感情を、言葉を止められない。自分を苦しめているものをぶちまけたかった。


「【魔女】……でござるか?」


 返ってきたリンドウの声は少し高かった。驚きを禁じ得ない、というのがよく表れている。

 だが彼はすぐに落ち着いた声に戻り穏やかに問いかけた。その穏やかさがサンダーのもつれてこんがらがった感情を解きほぐしていくかのように感じられた。


「そなたの呪いは物ノ怪になることだけではないのか?」


「俺は故郷を【魔女】に奪われた。国のあった場所が無に還された。その中に住んでいた人達も、俺の身内も全てだ。俺が大事だと思ってきたものがある日を境に全て消え失せた」


 あの日から数え切れないほどの人間と出会ってきたが、こんな滑稽は話を他人に話したのはこれで三度目だ。たった三度だ。


***


 温かいシャワーの湯の粒は髪をまんべんなく濡らして下を向いた顔へと伝い落ちてくる。止まらない涙もそれに紛れて足下へ落ちていく。


「ルム、痛いところはない?」


 モディがシャンプーを手に出して揉みながら泡立てている。それをルムの頭に置くとマッサージするように泡を髪になじませていく。彼女は自分の服がシャワーで濡れようとお構いなしでルムの髪を洗っている。

 ルムはモディの問いに何度も頷いたが、体の震えに紛れて伝わっているかわからない。それでもモディは重ねて尋ねることはせず、シャワーを手に取りルムの頭の泡を流した。そしてこんどは石鹸をタオルに擦り付け揉み合わせて泡を作り、ルムの体を丁寧に洗い始めた。

 あの時のサンダーの感触がシャワーの湯に紛らわされ、彼の匂いが石鹸にかき消されていく。それでもただ一つ、ルムの中には決して薄れない『あの時の彼の記憶』が残っていた。


──離れるな……消えないでくれ!


 半ば泣いているのではないかという苦しそうな声で、サンダーは自分に訴えてきた。強くて頼もしい彼が初めて見せた弱みだった。あれが彼の取った行動の本質なのではないか……ルムはそう思った。そこまで彼を追い詰めたものを、自分は知らない。

 知りたい、心からそう思った。


***


 サンダーの告白を聞いたリンドウが、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「さようでござるか……。さぞ辛かったであろう」


 思いも寄らない言葉が返ってきた。絵空事を信じる者を蔑むような反応になるかと思っていた。

 前にこの話をしたのは親身になって世話してくれる恩人と、【魔女】の呪いを受けたという同じ境遇の少女の二人だけ。その二人なら信じてくれるに違いないと思っていたから話せた。

 でも今は違う。ではなぜ彼に話をした? ただ今の苦しみから逃れたいだけだ。

 しかしリンドウはサンダーの話を端から否定しなかった。


「だからサンダー殿はルム殿を失わぬよう、奪われぬよう繋ぎ止めようと図ったのか」


 サンダーは小さく頷く。


「あんな経験は二度と繰り返したくない。ルムを失いたくない」


「なるほどな……サンダー殿」


 そこで再びリンドウは険しい顔をした。


「そなたの想いはわかった。されどそなたは思い違いをされている」


「え……?」


 目の前の存在がゆっくりと動く。床に座っていたリンドウがのろのろと立ち上がった。ゆっくりではあったが完全に立ち上がるとサンダーの目の前に仁王立ちした。

 彼の言葉に驚いたサンダーは絶句し、彼の姿を呆然と見た。

 リンドウは背筋を伸ばし、立てた右手の人差し指をサンダーの鼻先に突き出した。


「ルム殿はそなたがかつて失ってしまったものとは全く違う。同じように考えてはならぬ」


「え……?」


 彼の言ったことが理解できない。俺がルムを大事にしていないとでも思っているのか? サンダーは首を激しく横に振る。


「違う訳がない。どちらも同じくらい大事なんだ!」


「まだ言うか。大事の度合いは同じ、それは承知の上。しかしその質が違うと拙者は言っているのでござる」


「なっ…………」


「そなたは父母に、友人に、ましてや国にあのような不埒なことをするというのか? もし仮に此度のように辛うじて引き留めることができていたというのなら、相手が誰であろうとルム殿にしたように閨事に及ぶというのか?」


「する訳ないだろう!」


 サンダーにとってルムも故郷もかけがえのない存在だ。そこに全く違いはない、そう思っていた。

 しかし彼の言葉を皮切りに全く別の考えが頭をもたげる。


──違いはない、果たしてそうだろうか……。ではなぜルムが無事に戻ってきたというのに俺は素直に喜べなかったのか。なぜ全く安心できていなかったのか。


 浮かぶ疑念を無視することができず、頭の中で素直に自問自答する。


──なぜあんなに不安になったのか。それは再び失う恐怖があったから。なぜ失うと思ったのか。ルムが、俺以外に心を奪われていたから……?


 リンドウの放った言葉の真意があと少しで掴めそうな気がする。

 今日のルムの行動を思い出す。ルムはあのイルカを撫で回して嬉しそうな表情を見せた。今朝俺がルムにしたように、イルカが彼女の腹に擦り寄るのを拒まなかった。そしてあのイルカは本当は人間で、男だった。【魔女】の呪いを受けた、ルムの興味を引くには十分な存在だった。


──俺は故郷を取り戻したときに、今日のように安堵よりも先に不安が来るのだろうか。


 頭に浮かんだ問いかけが答えそのものだった。答えは「NO」だ。故郷を奪還したら俺は一も二もなく歓喜するだろうと考えた。

 ああ、違うな。サンダーは素直にそう思った。故郷に対する大事とルムに対する大事、確かに違った。ルムはただ取り戻すだけでは安心できなかった。体の距離がそのまま心の距離とは限らないから。ルムは物理的にだけではなく、心まで傍にあってくれなければ俺は安心できないんだ。

 それに気付いたサンダーは頭を抱えた。

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