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ボクと偶蹄目イッカク科5

「お嬢ちゃんは何もしてないだろォ? 何が気に入らないのか知らないけど、何の落ち度のない人間に対してお仕置きと言うにはちと苦しいんじゃないかい?」


 全身から血を噴き出した若い男の背が見えた。【魔女】の前に立ち塞がるようにしている。彼は時折膝の力が抜けるようにガクンと姿勢を崩しそうになっていて、立っているのもやっとな様子だ。

 男の手にはたぶんベッドの部品であろう角材が握られていて、それを【魔女】の頭に突き通している。【魔女】の体の角材が刺さっている周辺は小さな波が立っているのを見る限り、【魔女】の体はまだ液状のようだ。つまりダメージは一つも与えられていない。


──まさかボク達を庇って、水鉄砲の弾全てを受けたって言うのか?


 男の発言からすると彼がルムを庇ったのは明らかだった。どうして会ったことのない【魔女】にボクは憎まれた? そしてどうして会ったことのない人間にボクは庇われた? 目の前で起きた事態をルムは正常に処理できないでいた。


「そいつは危ない! 頼む、下がってくれ!」


 その言葉を叫んだのはほとんど条件反射だった。脳内でこの事態を正常に判断できないルムには、この場にいる誰もが分かり切っていることを懸命に叫ぶことしかできなかった。

 しかし男は動かない。彼はその場で佇み、少しだけ振り返って横目でルムを見た。その顔は焦りや苦悶、そして退く意志も感じさせない。頼むから下がってくれ、【魔女】から離れてくれ──ルムは心の中で懇願した。

 角材で体を貫かれた【魔女】の全身が突然泡立ち湯気を噴出させた。顔のパーツがわからなくなるほど表面が気泡に覆われ、白い湯気は濃くなっていく。ブツブツと泡の破裂する音の中、彼女の体は人の形を崩していく。

 シュンッと炭酸の抜けるような音がして彼女の体は全て水蒸気に変わり、その水蒸気さえ部屋から消えた。


「どうして……消えた?」


 【魔女】にはどの攻撃も効いていなかったはずだ。なのになぜ彼女は消えたのか。

 しかしすでに【魔女】の気配はなく、ルムが【魔女】に対して感じる『不安』もなくなっていた。


***


 ベッドのシーツを剥ぎ取って、細長くなるように裂いた。モディはそれを器用にリンドウの体に巻いていく。ルムはその様子を怪物の腕の中から眺めた。本当は自分がやってあげたいし、やるべきなのだろうが怪物が自分を離す気配がない。


「リンドウは急所を外してたし、アンタは出血の割に傷が浅いから二人とも今はとりあえず止血だけしておくわ。宿に戻ったらちゃんと手当する。アンタも来なさい」


「モディ殿、面目ない」


「いいのかい? 俺がついて行っても?」


「ルムを攫った件はぶちのめすけど。でも【魔女】にやられた奴を放置するのはルムの望むところじゃないし」


「その通りです。ですけどモディ……貴方は大丈夫なんですか?」


「アタイは大丈夫。腹と背中の打撲程度で済んでるみたい。どこも折れてないわよ」


 モディは満面の笑みを見せた。


「お嬢ちゃんは【魔女】が嫌いなのかい?」


「嫌いと言うより……いえ、嫌いには嫌いなんですけど、人間を【魔女】から守るのが騎士の役目ですから」


「へぇ、騎士様ねェ。立派なもんだねェ、自分に嫌な思いをさせた奴にまで情けをかけるなんて」


「皮肉ですか?」


 男の言葉に俄に機嫌を損ねる。何だか甘ちゃんと言われているようでいい気はしない。

 当の男は口角を上げて上機嫌そうな表情を見せた。人間の姿をしていてもその表情はどことなくイルカの時と同じ、真意の読めないご機嫌顔だ。


「いや、素直に感心してるだけさァ。俺は自分のことを忘れてるから誰と繋がってるかわからないし、もしかしたらお嬢ちゃんの敵かもしれない。それに俺が死んだところで悲しむ奴の顔も浮かばないんだから放っておいても良かったのに」


「そしたらその時はその時です。そんな投げ遣りなこと言わないでくださいよ、ムカつくから」


「だってそうだろう?」


 自分が何者かわからない、誰と繋がっているのかもわからない。だから自分なんかどうなってもいい……ルムは怪物を見上げた。

 もしそんなことを『自分の全てを奪われ、自分が何者かも証明できず、大切な人たちを失った』愛する人が口にしたら? そんな考えに至ってしまったら? 多分ボクは悲しみ嘆くだろうな、とルムは思った。

 だから、誰であろうとそんな悲しい言葉を口に出すのはダメだと思った。じゃあ失った人はどうすればいい? その答えが自然と口を衝く。ルムは自分を抱え込む怪物の太い腕にそっと手を添えた。


「貴方が何者かわからないことが自分を大事にしない理由にはならない! 自分が何者かわからない以上、自分を大事にできるのは自分だけでしょう?」


 ルムはきっぱりと撥ね付けた。


「それはそうと、そなたはあの海獣ということでよかろうか?」


「ああ、元々は人間だよォ。あの【魔女】に呪いをかけられてどうしようもなく人生を食い潰すだけの遊び人さァ」


 男がそう言った次の瞬間、男はイルカの姿に変わった。姿が完全に変わるまで瞬きとほぼ同じくらいの時間しかかからなかった。


「変幻自在なんですか? 服は?」


「水に濡れてる間だけ人の姿に戻れて、体が乾くとイルカになっちゃうんだよねェ。服は変身するときに巻き込むみたいで、どんなに人の時に服を着ててもイルカになる時

はイルカは何も着てないんだよねェ」


「つまりアンタはイルカのくせに水に入れない訳ね」


「まぁね。水に入ったら人に戻るからねェ」


「サンダーとは違うんですね。サンダーは普段は人の姿をしていますが、自分の意志で怪物に変身できるんですから。ねぇ、サンダー。……サンダー?」


 ふと怪物の顔を見上げたルムは、普段と違う怪物の様子を訝った。怪物になっていても仲間の前なら穏やかなものなのだが、なぜか今は鋭い歯を剥き出しその隙間から絶えず呻き声が漏れている。


「どうしたんですか? どこか怪我してるんですか、苦しいんですか?」


 ルムは咄嗟に腕を伸ばし両手で怪物の顔に触れた。その途端、ルムの華奢な体を締め落とさんばかりに怪物の両腕に力が入った。


『ガアアアアアアアァァァァァァァッ!』


「ひぃっ!」


 怪物が吼えた。その大音量に驚きモディとリンドウは咄嗟に耳を塞ぐ。怪物は踵を返すとすぐ後ろの開いた窓から外へ飛び出した。


「なっ……ここ三階よ!」


「サンダー殿、何を考えている!」


 三階の窓から飛び出した怪物は両足で地面に着地した。衝撃が怪物の体を伝ってルムに届き、その強さのあまり彼女の息が一瞬止まる。頭も強く揺れて思考が奪われる。

 だが次の瞬間には怪物は駆け出していた。


「ルムーっ!」


 モディの叫び声だけが一瞬耳に入ったが、それもすぐに遠くなった。


***


 降り始めた雨は彼女の銀の髪を濡らした。もともと青みを帯びていた【水の魔女】の銀の髪は、それを濡らす水の色を強調するかのようにますます青みが強くなっている。彼女の虚ろな瞳には濁流が移っている。


──どうしてこうなったの?


 記憶を封じ、支えも抵抗する気力も何も奪っておいたからこそ『彼』は決して従順ではなかったけど自分に刃向かうことはしなかった。

 それが何で今になって『彼』は自分に対して武器とも言えない武器を向けた?


 支配したい。蹂躙したい。

 彼女を動かすのは他人を踏みつけることで得られる愉悦。

 しかし『彼』は自らの意志でそれに反旗を翻した。ただ踏みつけられることを終えるために抵抗した。

 『彼』を唆したのは、『彼』に抵抗する勇気を与えたのは、いったい誰であったか? 今日までの『彼』に起こらなかった事態が、今日初めて起きたわけだ。それはいったい何か。

 彼女の脳裡に浮かぶのは取るに足らない小娘。あの小娘がいったい『彼』に何を吹き込み、叛逆を煽ったのか。何にせよ自分の快楽を邪魔した罪は重い。彼女は小さく呟く。


「罰を与えなきゃ」


 そこで背後に気配を感じた。【水の魔女】はその露骨な二つの気配を訝る。敵意はない、それどころか相手は自身が何者か隠すつもりもない。【水の魔女】はその気配の主の方へ体の向きを変えた。煙雨の向こうに二つの人影が見える。


「もしかして……おたくら【魔女】かしら?」


「ええ、そうよ」


 近付くことで姿がはっきりと見えてくる。そこにいたのは甲冑の少女と赤毛の少年だった。【水の魔女】は目の前の二人が【魔女】であることを察した。二人とも自分が【魔女】であることを隠そうともしていない。それはつまり二人は自分を【魔女】と認識して近付いてきていることに他ならない。


「アマテラス、こいつマジで【魔女】なの?」


 赤毛の少年が不貞腐れたような表情をしている。早く帰ろうと駄々をこねる子どものようだ。甲冑の少女は彼の言い分を無視する。


「初めまして、『アキツヒメ』。私は貴女を捜していたの」


 少女は何の躊躇もなく彼女の本当の名前を呼んだ。赤毛の少年の言った名前が本当ならば、自分はこの少女の正体はわかっていることになる。


「アマテラス……【光の魔女】が私に何の用かしら?」


「貴女の力を貸してほしいの。『闇の子』と彼を庇い立てする【賢の魔女】を討伐するために。そのためには一人でも多くの【魔女】に集ってほしい」


「『闇の子』……?」


 【賢の魔女】は知っている。それは【魔女】ならば知らない者はいない。水や光のような物質・現象を冠する【魔女】とは違い、概念を冠することが彼がこの世の【魔女】の中で最高峰の存在だと示している。彼は確か今山奥に籠もり人前に姿を見せることはないらしいが。

 だが『闇の子』については聞き覚えがない。


「『闇の子』は初耳なんだけど」


「そうだと思う。『闇の子』は長じて『世界を闇に堕とす者』になる。そうなる前に消してしまわないとこの世界は闇に飲まれてしまう。お願い、協力して」


「一応聞くけど……『闇の子』って、誰?」


「さっき会わなかったかしら。小さな女の子の姿をした『彼』よ」


「女の子が彼? あなた何を言っているの?」


「てめぇ! アマテラスに向かって何て口利いてんだ!」


「いいのカグヅチ」


 何が地雷だったのかわからないが、突然怒り出した少年を甲冑の少女が制した。そして再び少女は【水の魔女】の顔を見つめる。


「私が『闇の力』を中和するために彼の体にとある力を混ぜ込んだの。女の子の姿になってるのはその副作用。でもなぜか『闇の力』は弱まるどころかさらに増していく……。急がないと手遅れになるわ」


 さっき会った小さな女の子。私の快楽を邪魔した女。【水の魔女】は右手を顎に当て値踏みするように甲冑の少女……【光の魔女】を見た。


「くそっ……何つー目でアマテラスのこと見てんだよ。ムカつくわーないわー」


 彼女の傍らで赤毛の少年がブツブツ文句を言っている。【水の魔女】も【光の魔女】も彼のことは相手にしなかった。


──この【魔女】に従うのは正直癪だし、世界が闇に飲まれようと私の知ったことではない。だけどこの【魔女】の下につけば「あの女を壊す」正当な理由が得られるってことよね……?


 理由なんか後からいくらでもでっち上げられる。ただただあの女をめちゃくちゃにする『許可』が欲しい。あの女を壊すことが『正義』と定義されるなら……どんな悪趣味なお仕置きだろうと咎められることはない。

 【水の魔女】はほくそ笑む。


 嬲って、破壊し尽くしてやる。


***


 雨に濡れた路地裏を怪物が走っていた。怪物が片腕で自分を抱え込んでいるため周囲が見えない。ルムは怪物の体に頬を擦り付けるように顔を左右に動かす。雨粒と人の生活空間が視界に入る。


──町中をこの姿で走ったら見つかるぞ!


 しかし雨が降り始めたおかげで人が屋内に籠もったのが幸いし、怪物が住民と遭遇することはなかった。

 怪物は狭い路地で立ち止まりルムを肩に担ぐように乗せた。そして二階建ての少し大きな建物の壁を上り始め、壁にへばりつきながら器用に二階の部屋の窓を開け中に侵入した。

 突然ルムの体が宙を浮く。


「わぷっ!」


 それも一瞬ですぐに柔らかな感触が背を包む。その上で体が何度かバウンドした。周囲を見てみると自分が乗っているのはダブルベッドで、枕元には見慣れた鞄が置いてある。自分達が夕べ泊まっていた宿の部屋だった。

 いくらベッドの上とはいえサンダーが自分を放り投げるという乱暴な扱いはしたことがないし、するとも思っていなかった。ルムは文句の一つでも言ってやろうとベッドの上で体を起こす。

 外は雨模様、照明を点けそびれた室内は薄暗い。部屋には巨躯に刺青を施した金髪の大男が佇んでいた。その目は虚ろで濁っていて、顔から血の気と感情が失われているように見えた。彼は何も言わずぼんやりと立ち尽くしている。


「サンダー?」


 彼の様子がおかしい。ルムは首を傾げ、声のボリュームを落として呼びかける。


「……ルム」


 彼は小さく囁くように自分の名前を呼んだ。ゆらりと彼の体が揺らめく。そして倒れるようにルムに覆い被さってきた。ルムは彼を抱き止めるように腕を背に回す。雨に打たれていた体は冷え切っていた。密着した肌から彼の鼓動がいやに早いことが伝わってくる。心臓が弾け飛んでしまうのではないかと心配になるくらい。


「走っただけでこんな動悸がするなんて、年を取ったんじゃないですか?」


 ほんのジョークのつもりだったが、彼は返答するどころか笑ってもくれなかった。

 サンダーはルムの手首をしっかりと掴みベッドに押しつけ、顔を近付けそのまま唇を重ねた。いくら部屋が薄暗く、雨音がそういう雰囲気にさせているのかもしれない。だけど時間帯としてはまだ昼間だ。ルムは腕に力を入れて解こうとし、足を軽くばたつかせた。なし崩しで行為に及ぶつもりはない、と意思表示をしたつもりだ。唇が離れたら「お預け」だと伝えよう、そう思った。そうすれば彼はいつものように笑って「すまない」と言ってくれるはずだ。

 しかし手首を掴む彼の手にさらに力が入った。手が、腕がベッドに沈み込む。彼はさらに深く口付ける。口の中に彼の舌が侵入し、自分の舌を絡め、舐め回す。


──何で! どうして!


 いつもなら少し抵抗すれば「どうした?」と言って気遣ってくれる優しい彼が、自分の意志を無視して求めてくる。

 サンダーはルムの左手首を押さえていた右手を離し、彼女の下半身の衣服に手をかけた。ルムは空いた左手で彼の顔を押しのけ唇を離した。それでも構わず彼は自分の腰を、腿を大きな手でさする。逃れようとしても彼の大きな体にのしかかられベッドに自分の体が沈み込んでいる。右手で体をまさぐりながら彼女の首元や胸元に顔をすり寄せている。彼のその行為の一つ一つが冷たいナイフを当てられているようで、触れられる度にルムはぞっとした。


「やだ……っ!」


 ただ口から出てくるのは拒絶の言葉だった。初めて自分の意志を無視してその行為に及ぼうとする彼に今は恐怖しか感じない。言葉と同時に溢れてくるのは涙だけ。


「ルム……! ……れるな、……でくれ!」


 彼は震える声で祈るように呟いた。震えていたのは声だけでなく、全身もまたひどく震えていた。

 ルムの足の間に彼のものが押しつけられる。同意もなく強引に入ろうとする。


──彼が今求めてるのは、互いの愛情じゃない。ただ恐怖から逃れるために藁に縋ろうとしているだけ。


 彼に怯え、彼もまた何かに怯えているこんな状態で繋がりたくない。


「いやだあああぁぁぁーっ!」


 自分の叫びが雨音に消される。助けを呼ぶ声は誰にも届かないのか。


「ルム!」


 銃声と平たいものが地面を打つ鈍い音がルムの耳に届いた。

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