ボクと偶蹄目イッカク科4
しかしその光景を見てルムは絶句した。あのベッドに押しつぶされているのはイルカ一頭のはずだ。ならばどうして、ベッドを除けようとその向こうから伸びる手は『人間のもの』なのか? 骨張っていて筋の浮いている手は紛れもなく成人男性の手だ。
壁に立てかけられた形のベッドが床へと倒れる。ガダンと大きな音を立ててベッドは元の四つ足の形に収まった。
そしてその壁の前には全身水浸しになっている若い男が立っていた。男は一つに括った長い黒髪を揺らして周囲を見回している。
男は『イルカの飼い主』を名乗る女性を見つけると肩をすくめた。
「アンタはこの町に踏み入れちゃなんねぇはずだよォ? 何てったってこの町をこんな廃墟に変えたのはアンタなんだからよォ」
「あはっ。町ぐるみで人を何の根拠もなく【魔女】って言って追い立てるのが悪いのよ。私はそれをただお仕置きしただけよ」
「……町の人は間違ってないのに何を言ってるんだかねェ」
この男と女の間にただならぬ空気が流れていることに『この二人には浅からぬ縁があるのだろう』とルムは疑った。
だがそれ以上にこの二人の会話の内容が余りにも突拍子がなく理解がついていかない。
「ちょっと、二人の言っていることが訳が分からないんですが!」
「ああ、それはね。この町を襲った洪水を起こしたのはそこの【魔女】だからねェ」
「なっ……!」
予想はついていたもののやはり動揺は禁じ得なかった。ルムは男が提示した答えに言葉を失う。その傍らで怪物は唸り声を上げて警戒心を露わにしていた。
──やっぱり、また【魔女】か!
その一方で女は落ち着き払っている。あの子どもの【魔女】や【炎の魔女】とは違い、【魔女】だと暴露されても顔色一つ変える様子はない。
「どうしてそんなことを……」
「だから言ったじゃない。この町の住人が私を【魔女】だって言って責め立てたのよ。酷い言いがかりじゃない。だから罰を与えただけよ」
「はぁ……?」
ルムには【魔女】の言い分が全く理解できなかった。彼女が【魔女】だとすれば、事実を指摘されてどうして罰する必要があったのか。なぜ彼女は事実を『言いがかり』などと言うのか。
いや、事実を指摘されたからなのか、と思いルムは首を小さく横に振った。この【魔女】もまたかつて出会った【魔女】達と違いがないのかもしれないと考え直した。やはりこの【魔女】も自分が【魔女】だと露見するのが嫌だったのだろう。だからそれに気が付いた人間に悪意を抱いた。恨みに思った。だからこの町の人間を害した。
だとしたら何という上から目線なのか。「自分が気に入らないことをするから」をいう理由で『罰する』という言葉を使い、強大な力を以て人間に災厄をもたらすところに【炎の魔女】と同じものを感じた。何て短絡的で幼稚なんだと怒りが湧く。
「お嬢ちゃん、俺もお嬢ちゃんと同じでね。その【魔女】に呪いをかけられたらしいのよ」
「『らしい』?」
自分のことなのにどこか他人事のように語る男に違和感があった。さっきもそうだった。「何者か?」という問いに曖昧な返答しかしなかった。
「俺がイルカの姿をしているのも『自分に関する記憶がない』のも、自分がやったってその女が言うもんでね」
「そうなのか……?」
ルムは【魔女】の方を見た。【魔女】は口角を上げてニヤリと微笑んだ。言葉で肯定も否定もしないが、その表情が全て物語っているように感じた。
つまりこの男も自分達と同じように呪いをかけられた人間だった。姿を変えられるだけでなく、記憶まで操られるのは初耳だ。故郷を消されたサンダーさえ記憶の改竄はないというのに──ただ彼の記憶を証明するものがないので『改竄されていない』という確証はないのだが。
「どうして彼に呪いをかけたんですか?」
「ま、彼自身は覚えていないでしょうけどそいつは軽薄な男よ、とんでもなくね。弄ばれた子に代わってお仕置きしたまでよ」
──またお仕置きか。自分の一存で他人を罰する方法を決めて実行するなど、上から目線の極みじゃないか。
呆れとともに激しい嫌悪感がこみ上げる。彼が何をしたのか知らないが、魔法という強大な力を以て他人のアイデンティティを奪った【魔女】の行為は許されるべきじゃないんじゃないかと思った。【魔女】の狂気と人間の怒りが異様な空気が渦巻いている。
「話はそれで終わりか?」
空気を切り裂いたのは沈着冷静な声だった。ルムの視界を赤毛の男が横切った。
たった一瞬でリンドウが【魔女】の眼前まで移動していた。すでに刀の柄をしっかりと握っている。刀は左から右へと振り抜かれ、その軌道は【魔女】の体を捉えていた。
「サンダー殿の恫喝や物ノ怪変化に驚かぬから何かおかしいとは思っていた。しかし相手が【魔女】というなら容赦はせぬぞ」
スッと刀を鞘に収めながら彼は言った。斬られた【魔女】はそのまま立ち尽くしている。その体から血が噴き出すのも時間の問題だ。そう、あの時の【炎の魔女】のように。
だが、女は不適な笑みを浮かべた。口が顔の端から端へと大きく避ける、細い三日月のように。痛みと苦痛に表情が歪むどころか、その笑みが全く崩れる様子はない。十秒近く経ったが、彼女のワンピースに血の染みが滲むことはなかった。
「馬鹿な……っ! 確かに刃の当たる感触はあったのに!」
「ええ、確かに貴方の攻撃は当たったわ。でもね、いくら剣の達人だったとしても『水は斬れない』でしょう?」
「何?」
彼女は右手で自分の頬に触れた。その腕を動かした瞬間にちゃぷ、と液体の動く音が微かに聞こえた。目を凝らしてみると彼女の体全体がわずかに『揺らめいている』ように見える。
「まさかそれって」
「私は水を使うのが好きでね。【水の魔女】だなんて言われているわ。だから自分の体を液状にすることなんて造作ないわ」
「……離れろ!」
条件反射でルムは叫んでいた。ただの人間が【魔女】と向き合ってしまった。彼女の声に反応してリンドウは【魔女】から遠ざかるように飛び退いた。
ルムも【魔女】と対峙したリンドウを援護しようと動いた。その瞬間、怪物の腕に力が入る。ルムは怪物の体に背を埋もれ、拘束される。もがいてみたが腕が虚しく宙を薙ぐだけだった。
【水の魔女】は頬に触れていた右手を顔から離すと、その手の人差し指を立ててゆっくりと柔らかく振った。すると床を湿らす水が浮かび上がり、水の塊が空中に現れた。部屋の隅に置いてあった水瓶と同じくらいの大きさだ。
直後にその塊から幾筋もの何かが発射された。それは尾を引き、その全てがリンドウへと向かった。彼は咄嗟に頭と胸を腕で覆ったが、飛んできた何かは彼の肩、上腕、脇腹を撃った。
「うぐぅっ!」
それが当たったせいで地面から足を離していたリンドウは空中でバランスを崩した。彼は着地に失敗して、ズダンと床板を鳴らし仰向けに倒れた。彼の肩、腕、脇腹の付近は血が着物を赤く染め、床に流れ赤い染みを作る。彼は戦い慣れをしているのか急所だけは何とか守ったが、傷はそれほど浅くはなく彼はなかなか立ち上がることができない。
「貴様っ、何をした!」
「ただの水鉄砲よ。文字通り『鉄砲』だから貫通してるけど」
「ちっ!」
モディがすぐさま腿のベルトから自分の得物を取り出し、【水の魔女】に向かって構えた。両手に構えた短銃型の『念導銃』から連射される。念の使い方と引き金を引くタイミングが絶妙なのか、左右の銃からリズムを刻むように交互にそして絶え間なく弾が放たれる。弾は全て真っ直ぐに【水の魔女】へと向かう。
その一瞬、【水の魔女】は口の端を歪めた。何とも忌々しそうな表情だった。宙に浮かんでいた水の塊が形を変える。それは薄く広がった水の膜になり【魔女】の前に躍り出た。モディの放った銃弾は全て水の膜に阻まれ、【魔女】に届くことはなかった。
それでもモディは撃ち続ける。水の膜は銃弾が当たる度にビシャビシャ音を立てて表面に波紋を作り、まるで悶え苦しむように波打つ。その動きがエネルギーの塊である『念導銃』の弾をかき消している。
「くっ!」
モディは発砲するのを止めた。『念導銃』の性質上、物理的な「弾切れ」という事態は発生しない。装備者の集中が続く限り連射することは可能だ。
しかし撃てども撃てども弾が【魔女】に届くことはないとわかれば、無駄撃ちするよりも次なる一手を考えなければならない。
水の膜がぐるんと体を捩るように動いた。膜は再び塊に戻り宙で渦巻いている。
「離せサンダー! 【魔女】から皆を守らないと!」
『グガゥ』
ルムは怪物の腕の中でよりいっそう激しくもがく。
自分は騎士だ、あの【魔女】と対峙するのは自分でなければいけない。それなのに人間に【魔女】が魔法で傷つけるのを見過ごしてしまった。
「騎士が【魔女】から人を守れないなんてあってはいけないんだ! だから離せ!」
どんなに振り解こうと、抜け出そうともがいても怪物の太い腕から逃げ出すことはできない。
──どうして、サンダーはボクの邪魔をする? 騎士の信念を守りたいってさんざん言ってくれたじゃないか。
宙を浮いて渦巻いていた水の塊は、まるで鉄砲水のごとく勢いよく動いた。それは屈強な格闘家の拳のように鋭くモディの体を打つ。
「うっ」
叫ぶこともできず、小さな呻き声を残して壁に叩きつけられるモディ。彼女は壁の前に崩れ落ち、床にうずくまった。それをただ見ていることしか許されなかったルムは全身から血の気が引いた。
「リンドウ! モディ!」
怪物の腕から身を乗り出し、床に倒れる二人の仲間に向かって叫ぶ。
しかしルムの声に反応したのは【水の魔女】だった。ルムの方を向き、嗤う。溢れる歓喜を堪えられない表情が示すのは、あの子どもの【魔女】が見せた『狂気を含んだ悦び』だ。
ルムの中に恐怖と、それとは相反する怒りが満ちていく。
「さぁて、あんたもお仕置きしなくっちゃ」
【魔女】は艶めかしく舌をちょっと出して唇を舐める。うっとりとしているが瞬き一つしない瞳はルムをまっすぐに見ている。
「……ボクが何をしたって言うんだ?」
狂気に満ちた快感に悶えているようにさえ見える彼女の様子が、ルムの恐怖心を煽った。ルムを抱え込む怪物も怒りを露わにしたような唸り声を上げている。
今ここで初めて出会ったばかりの女に恨まれる謂われはなかったが、それを問うても【魔女】は返事をしなかった。黙って微笑んだままだ。
「知らなくてもいいわよ」
ただ一言、とても小さな声で低く呟いた。鼓膜にこびりつくような粘性のある恨み言。顔は笑っているのにも拘わらず、一瞬だけ彼女が不愉快さを見せた。自分のことが憎くてたまらないという彼女の感情がルムに伝わる。
──いったいこの【魔女】は何に対して怒ってるんだ!
ごぷっ、と水同士がぶつかる音が部屋に響く。水の塊が再び部屋の中央に君臨する。水の溢れるようなどこか卑猥な音を鳴らし、だが雫の一滴も散らさずに水の塊は宙で蠢く。
その塊から、水の弾丸が無数に射出された。尾を引く姿はまるで彗星だ。色のない流星群がルムの目に映る。その全てが迷いなく自分に迫っている。
『ガアアアァァァァァァァッ!』
怪物が吼えた。吼えて、逞しい腕でルムを抱え込む。その瞬間、ルムの視界には水の弾丸が映らなくなった。怪物が『それ』から自分を遠ざけようとしている。自分に当たらないように、怪物が自分と『それ』の間に体を入れた。
つまり、身を挺して、己の身を盾にして、怪物はルムを守ろうとしている。
「ぃやだ……、嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ルムは叫んで怪物に体を押しつけた。思わず固く目を閉じる。
ボクを庇って怪物が大きな傷を受ける、自分の代わりに愛する人が血を流す、そんな結末は嫌だ──
『ガァ』
「……ん?」
頭上から平然とした怪物の声が降ってきた。体に痛みはない。血が流れ出る感覚もない。どうやら自分は無事なようだ。ではサンダーは? 怪物の背に手を回し撫で回してみる。手に伝わるのは乾いた鱗の硬い感触のみで、べたっとしたぬるい液体が手に付くことはなかった。ルムは恐る恐る目を開けて怪物の顔を見上げた。怪物は口を半開きにして、【魔女】のいる方向に顔を向けていた。ルムも彼の視線の方向を見てみる。そして、呆気にとられた。




