第7話 科学信仰
自然は個々の命を大切にしていないのではなかろうか。連鎖や連環にみられるように命を土に還したり、自然の中に芽生えさせたりする。自然全体としてみれば、美しい調和がとれているように見える。でもやはり部分では、個々の命を大切にしていない。これはある意味において支配的に感じる。命を支配するのは自然である。
人は自然の部分である。だから個々の命を大切にしないのであろうか。しかし、支配的であるのは全体としての自然の特権であるような気がする。人が支配的であるためには、何らかの条件を充たさなければならないのではなかろうか。
このように考えるのは僕が「自然」に「神」を見ているせいなのであろう。神とは大宇宙を含めた自然全体であると考えている。あたかも古代人が太陽信仰や巨石信仰のように自然の中に神を求めたように。
遺伝子や生命体も自然の中に属する。神がこの世界を創造したときにこれらも自然の法則の中で自動発生するように仕組んでいたとしたならば、驚異を通り越して崇めるしかないのだと思う。崇めるのはいいが、神のことを論じるのは意味のないことだと感じてしまう。しかし、何かにすがりたいときに神のことを思ってしまうのである。
遺伝子や生命体は、創造主たる神が作り出したものとは限らない。この地球上では遺伝子も生命体も見事な調和をかもしだしているような気がする。しかし、遺伝子や生命体を作り出した者が誰であるか考えることも無意味であるような気がする。現代の人類はそこまで進歩していないのだ。
科学は一種の信仰であると考えている。自然科学の根拠を探っていき、ある時点まで遡ると「証明されていません。実証されていません」となる。自然科学の根拠に近づけば近づくほどこれが顕著となる。これは科学の自己矛盾ではないのだろうか。科学信仰は実証主義である。それが根拠において実証されていないとなると自己矛盾と考えてもさほど違和感を覚えない。
だからといって科学を否定しているのではない。時代によって勢力を誇る信仰は存在するのだと思う。その信仰はその時代において社会に多大な恩恵をもたらすものなのだろう。科学の根拠は経験則であるが、その意味においては太陽信仰も例にもれないと感じる。
科学信仰に代わる次の信仰が何であるか想像もつかない。それは科学信仰の延長上にはないと信じている。科学の基盤を支えているのは論理である。しかし、論理だけでは解決できない問題が山積みとなっている。科学者たちは行き詰まりを感じているのではないだろうか。
僕を含めた日本人は豊かになったと思う。確かに貧困よりは豊かな方が快適に生活できる。しかし、そう思うのは人だけであり、自然は自然の持つ法則に従って人に恩恵を与えたり、裁きを降したりするのだと思う。
自然は人に対して「ああしろ。こうしろ」とは言わない。人は自然の中で自由なのだと思う。繁栄することも滅亡することも自由なのだと思う。
占いによると僕は90歳過ぎまで生きることができるそうである。この間もらった精神障害者手帳が僕に「もっと多くのことを考えろ」と言っているような気がする。この文章を書き続けることによって世界観がどのように変わっていくのか楽しみである。時間はまだあると信じている。




