第5話 不可侵領域
どうやら僕の心には触れてはいけない領域があるようだ。その領域に触れると精神が過敏に反応し、不調となる。不調で済めばよいが、心が不安と恐怖で充満したように感じるときがある。そんなとき、心は怯えて目に映る光さえも失ったかと思ってしまう。それは錯覚なのかもしれない。きっと錯覚なのだろう。そしてそれを冷静に観察している自分もいる。「笑え」という自分もいる。このような精神状態のときでも周囲からは明るく振舞っているように見えるだろう。それでいいと思う。周囲からどのように見られても自分の精神状態に影響を与えないことを経験上知っている。徐々にではあるが、この不可侵領域の説明がつくかもしれないと思っている。しかし、説明がついても治るとは限らないのだ。
数ヶ月前、医者にフラッシュバックが起きているかもしれないと言われた。通常のフラッシュバックは追体験を伴う。過去の衝撃的なトラウマをあたかも今起きている体験だと認識してしまう。僕のケースでは顕著な追体験を伴わない。このため、医者も僕も数年の間このことに気がつかなかったのだ。それは、ささいな医者との会話から発見された。医者は「フラッシュバックが起きているかもしれないね」と言った。しかし、薬の種類が変わるわけでもない。その後の診察でフラッシュバックが話題となったこともない。医者にとっては「かもしれない」程度の可能性だけだったのだ。
僕にとってフラッシュバックは重要なことに思えた。自分の精神状態を説明するために格好の言葉となっていった。少なくともそれに反する精神状態はないように思われた。しかし、フラッシュバックは単に症状を現わす言葉のようだ。何かの原因がわかるわけでもなく、ましてや治療にも役にたたない。ただ、追体験を伴う患者はカウンセリングを受けたりして、原因を取り除き治療に役立てているようである。追体験がどれほど辛いものか僕には分からないため「追体験を伴った方がよかったか」と問われたら「どちらも嫌だ」と答えるであろう。
僕の場合、原因を突き止めることができない。さらにフラッシュバックを起こしているのかさえ明らかではない。ただ、フラッシュバックを用いると自分の精神状態をうまく説明できる気がするだけだ。フラッシュバックという言葉と知識は無駄なものだったのだろうか。その証拠に何ら症状に変化は見られない。
フラッシュバックに固執していたのかもしれない。過度のトラウマや単にトラウマであっても精神状態を説明することに障害はない。脳のことを考えたとき、これらのトラウマは記憶に属するのであろうか。そうであれば、脳の中にトラウマ・ポイントと呼ぶものが存在するのであろうか。このトラウマ・ポイントが不可侵領域を産みだしているのだろうか。
触れてはいけない記憶、記憶にない記憶。これらを現代の科学技術で取り除くことはできないものかと考える。おそらく、答えは「できない」であろう。厳密にいえば、できるのであろう。その「できる」は大きな副作用を伴い、別の障害をもたらすかもしれない。
第4話「脳を変える心」で、精神疾患を自己治癒させる可能性があることを知った。それは微かな光であるが、縋るもののない僕にとっては縋りたくなるものであった。「豊かな環境」「自発的な経験」など捉えどころのないものであるが、ふとこの文章を書くという行為が「自発的な経験」となっているかもしれないと思った。しかし、これらは即効性がないと思われる。ということは、自分が治癒への道を歩んでいるのか確かめることが難しい。「豊かな環境」を作り出すことは、もっと難しいであろう。何故なら僕一人ではできないからだ。
そして、記憶が不安や恐怖を産みだしているのではないことに気がつく。おそらく記憶が脳の何処かと繋がって、そこが不安や恐怖を産みだすのだと思う。これが何を意味しているのかと考えると「記憶が五感と同じように感覚の出発点となっている可能性がある」ということだ。第6感は確実に脳の中に存在すると思う。そうでなければ、説明のつかないことが多いように感じる。五感を用いなくとも幻覚は起きる。このことを脳神経科学者はどう説明するのだろうか。異常な脳だと切り捨てるのだろうか?少なくとも不安や恐怖、幻覚の起点ニューロンを明らかにしてもらいたいと思う。
思わぬ結論になってしまったが、それでいいのかもしれない。文章には起承転結が重要だと言われるが、それでは僕の病は治らないと思う。始めから「結」があるのであれば、文章にする必要はないのだ。僕の思索の綻びを見つけて結論を導き出すのがこの文章であると思っている。
追記
思索とは論理的な思考であり、客観性に近い。主観性を探ろうとしている僕にとってこの文章は戸惑いを与えるだけなのであろうか。
主観が受け入れやすいのは納得感だと思っている。例え論理的な思考や主張であっても納得感がなければ、主観に拒絶される。客観性と主観性を繋ぐことが目的ではないが、繋ぐきっかけでもあれば、何かが変わると誰かが叫んでいる。




