第19話 知らないことは質問できない
例えば「マニュアルは白紙の状態で新しい仕事をした人が書くのが良い」と言われる。これはその仕事のベテランがマニュアルを書くと「抜け」がでるからである。ベテランは自分の知っていることは、他の人も知っていると錯誤する。また、身体が覚えてしまった作業を脳の表層に戻し、書き記すことは困難である。ベテランは無意識で作業ができる。無意識を書き出すことは難しい。
人が人に何かを教えるとき、教師役の人は生徒役の人が何を知り、何がわからないのかを知らない。「何がわからないのですか?」と生徒に聞いても、生徒も何がわからなのか知らない。お互いが知らないのでは八方塞がりとなる。
これを解決するためには2つの方法がある。1つは教師が例をあげて「ここですか?そこですか?」と生徒の脳を探ることである。そうして、わからない点を探り当てた時点で一歩前進となる。
1つは、生徒が教師に対し質問攻めを行うことである。生徒は自分でわからない点を探し出していく。
ただし、教師や生徒に情熱や興味がないとき、この「教える」または「学ぶ」という行為は成立しない。
「わからないことは質問してください」という言葉を聞く。しかし、これは多くの場合無理である。教師は知っているからそう言えるが、生徒は知らない。何がわからないかわからないと質問できないのだ。
教師から教えられた情報や知識を生徒は脳に回路として形成する。この回路形成の早い遅いで「覚えがいい」とか「覚えが悪い」とか言われる。早い遅いという問題の因は教師にもあるのだ。生徒のわからない点を的確に抑えて教えているのかが問題となる。
1人の教師に40人の生徒がいたとき、35人の生徒が覚えて5人の生徒が覚えられないとする。このように人数の差がでたとき、教師の教え方は良くて5人の生徒に問題があるとされる。この認識は誤りであるかもしれない。教師は5人の生徒の分からない点を抑えたのであろうか。
ここまでは、一般論である。そして教師が生徒に正しいことを教えているとするものでもない。教師が生徒に正確に知識を伝えることができるかということを述べたかっただけである。つまり、教えるという行為は社会の中のコミュニケーションの1つに過ぎない。
障がい者は、いくつかに分類されている。その中に知的障がい者と精神障がい者がある。僕は精神障がい者である。余談であるが、僕の精神障害の等級が2級であることを幾日か前に知った。2級であれば、障害者年金の受給資格を持つそうであるが、実際に受給できるかは、行政管轄の異なるところで審査が行われるために、わからないそうである。余談ついでとして、障がい者の「がい」を「害」から「碍」へと変更するのが正しいとする主張があり、行政なども過敏に反応して、漢字ではなくひらがなの「がい」を用いる傾向にあるようである。当事者としては「どっちでもいい」と思う。
世では障がい者を差別しないようにとの傾向にあるようである。しかし、差別しないことが、どうもしっくりこない。不満があるわけではないが、しっくりこない。しっくりこない点を書き出せば、止まらなくなりそうなのでやめておく。
障がい者に対して健常者(実はこの語をあまり使いたくない)が存在する。障がい者の一人として、健常者に求めたいのは「障がい者に深く接するときは、相当の覚悟が必要である」ということである。
健常者が障がい者に対して「教えれば覚えられる」と思っていたら、それは錯誤である。上述のように健常者同士でも「教える」ことが難しいのであるから。
僕は精神障がい者であるが、他の障がい者の人たちの「心」まではわからない。しかし、僕の周りの障がい者の人たちを見ると、おそろしく感受性が強い。それは接する人の心を見抜くかのようだ。特に接する人に対しての快/不快に関しては健常者を超越する。
障がい者に接する仕事につくときは、中途半端な同情ではなく、純粋にその人を感じることが必要である。
思わぬ結論となり「話」のタイトルと異なることを書いてしまったが、当初は、
「自分が知っているからといって、他者が知っているとは限らない」などの結論とするつもりだった。これは、不慮のことなのだろうか。




