第18話 現実に戻って
どうしたらいいのかわからない。今、僕は1つの社会に属し、少し悩んでいる。その社会の問題点はいくつかあり、それを指摘することは簡単だ。しかし、解決策を受け入れてもらうためには多くの説明を必要とする。そして、その解決策が僕の主観によることなのが、さらに問題なのだ。
その解決策の根底にあるのは「個の尊重」と「異なる社会」である。(これが僕の主観であり、主張である)
「個の尊重」と人権は異なる。人権は属する社会で与えられる物理的な権利である。つまり社会×個となる。「個の尊重」は基本的に個×個でしか成立しない。そこには「心」の働きが存在する。
人は他者の「心」を理解することは絶対にできない。絶対性の存在を否定してから日が浅いがこの有様である。絶対性の存在の否定は、物理的なものに対してだけなのだろうか。
その考察は後日ということにして文章を続けたい。「個の尊重」は他者の心を感じることが初めである。そして、相手(個)を傷つけたと気付いたならば、あるいは気付かされたならば、その代償を支払うことが必要である。人が自分で気付くことはそう多くない。ここに「気付かせ人」としての第3者の個が必要となってくる。
代償とは「謝る」「許してもらう」「理解してもらう」「説明する」などであるが、それがどれなのかはそのときの状況によるだろう。この積み重ねが「個の尊重」による和となっていく。
「自分がされて嫌なことは相手にしない」と、ときどき耳にする。基本的なことであり、間違っていないと思うが、必ずしもそうではない。自分が嫌なことでも、気にしない他者もいる。自分が嫌でないことも相手が嫌なこともある。
重要なのは「気付かせ人」としての第3者の個である。こういう人を友人か仲間に持ちたいものである。
思い遣りも優しさも相手を感じなければ存在しない。
人はいくつもの社会に属する。しかし、最も影響を受けたり、与えたりするのは、日常の多くを費やす社会である。それは会社かもしれない、家庭かもしれない。日本という国家の影響優先順位は、低くなる。人によって順位は変わるかもしれないが、第1位になるのは稀有な人である。それは総理大臣といえども変わらない。
1つの社会は基準を持つ。ルールやマナー、約束事、常識と数え上げればきりがない。その基準を持って、異なる社会に移ったとき、果たしてその基準は適用されるだろうか。極端な例をあげる。日本という社会の基準を持って、戦闘(戦争)を行っている地域(社会)に移り住んだとする。果たして、生き延びることはできるだろうか。
若い頃に「人と会ったら、最初にその人が敵か味方か見極めろ」という教育をしている国の存在を知った。そういう教育をしているのは、国家ではない。親である。この教育は多くの日本人に受け入れ難いのではないだろうか。
教育はそれを受け入れる社会の中でしか成立しない。
または、教育は基準を共有する社会の構築のため行われる。
同一の基準を持った社会は存在しない。何故なら、社会を構成する個が違うのだから。「異なる社会」に足を踏み入れるとき、その社会の基準を受け入れる覚悟が必要である。
僕もまた人であり、上述のことを脳は理解しているが、実践できない。




