第16話 宇宙の基準点
この世界に「絶対」は存在しない。無条件の絶対は無い。
全ては相対関係により決定される。相互作用によって決定されるのだ。すると個は個だけでは存在できない。主観も1つだけでは主観と認識できない。他の主観の存在が自分の主観を主観であると認識するのだ。
個が集まり集合体となったとき、部分を形成する。この部分も個となり、この個も集合体を作り個となる。宇宙は有限個であるとしたから、やがて個は全体を形成することになる。
人が生きていくために必須条件がある。例えば酸素の供給だ。距離を測るためには始点と終点の存在が条件となる。このように例をあげればきりがない。しかし、無条件の絶対を考えることは難しい。いや、少なくとも僕には考えることができない。
基準はこの条件を内在するのではないだろうか。基準がなければ条件は発生しないように思われる。人が酸素を必要とするのは、個としての生体が要求するからである。生体は必要な量だけ要求する。必要な量は生体のなんらかの基準で決定される。
さて、全体としての宇宙の基準はどこにあるのだろうか。それは外周にあると考える。これは1つの妄想である。そして、外周とは1つの概念である。それは外側に張り出した凸形状の球を考える。厳密に外周を考えると、空間の議論が始まる。しかし、現代科学によって空間の議論は始まったばかりだ。ここに僕の妄想が入り込む余地が存在する。
何故、外周を基準に選んだかというと、それがもっとも安定した形だからである。その外周に存在するのは素粒子などより、もっと単純で基本的なものであると思う。そしてその数は想像もできないほど存在するだろう。
外周の各頂点から全ての対角線を引いてみる。すると夥しい数の交点ができる。しかし、凸図形の性質から交点の数は一定である。外周の内側にある点から各頂点に対角線(そうは呼ばないだろうが)を引いたとき、交点の数は減って行く。これが外周を安定とした理由である。
この外周からの対角線の交点がこの世界の基準となる。外周の各頂点は移動するかもしれない。しかし、対角線の長さはかなりとしかいいようのないほど長い。交点の位置の移動量は外周の頂点の移動量より遥かに微々たるものとなる。また、交点間の距離はおそろしく長く、そして短いのかもしれない。
僕が存在する世界(現実)はこの内側にある。内側に存在するものはこの外周からの交点を基準とする。これを簡単のために基準点と呼ぶことにする。内側の存在は基準点を境に左右を感じる。上下かもしれない。左右上下が逆転したときに、何かが起こる。これがしきい値の正体である。
内側の存在は宇宙を安定させるために外周へと移動する。この移動する力が斥力である。重力は斥力の反対の力である。重力は宇宙の安定を妨げている。しかし、重力の存在が僕の存在を認めてくれる。
宇宙は何千億年あるいはそれ以上をかけて安定する。安定したとき、宇宙は張り出した外周だけとなる。このとき内側の存在は皆無となり、内側の空間さえ意味を持たなくなる。つまり、外周は空間を持たない点と同じとなる。
これが宇宙の終焉である。それは時間も失う。ここでいう点は外周と空間を内在する。やがて(どうしても時間の概念が入ってしまう)点は陥入を始める。これが新しい宇宙の始まりである。
陥入を起こすと内側の存在が現れる。同時に空間も内側の存在を認めるために膨張する。それはインフレ的に起こるのかもしれない。しかし、インフレ的には時間の概念が導入されている。宇宙の始まりをみるものはいないのだから時間の概念は無意味である。観測者のいない時間は無意味なのである。
新しい宇宙が現在の宇宙と同じであるとは限らない。外周の位置取りの法則も陥入の法則もわからないからだ。
受精卵も5回の細胞分裂を経て、32個の細胞(⒉,4,8,16,32)の外周を作り、陥入を始めるとされる。そこから生命体は、脳や内臓、骨などを構築していく。
この妄想が真実を語っているとしても、大きな欠陥がある。心の入り込む隙間がないのだ。主観たる心の説明は宇宙の説明より遥かに難しい。




