表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

雪と桜 【Ⅰ】

 ────そういえば、何かがおかしかった。

 今になってそんなことが頭を過ぎったのはあろうことか、己に迫り来る猛獣の牙が、月光の光を反射し煌めいた瞬間だった。

 昨夜、ついつい読書に没頭し、講義の予習を疎かにしてしまったのに、問題を質問されることが無かったこと。

 両親からの月おきの仕送りが、予定より3日早く振り込まれていたこと。

 帰宅後、寂しい一人暮らしの屋根の下、料理本片手に意気込み初めて作った料理が思いのほか美味しくて満足出来たこと。

 ……そして、退屈な大学生活の中、今日は一度も、「二十過ぎて男の娘とか(笑)」と自分を馬鹿にする言葉が無かったこと。

 小さなラッキーが両手いっぱいあったような気がすると感じた。


「ぅひゃぁぁああ!!」


 砕けた腰を必死に奮わせ、辛うじて両手を斜め前につき出すように飛び出し、獣の牙を躱す。

 その際、背中に氷を落とされた女子中学生のような情けない悲鳴をあげてしまう。

 ……これじゃ馬鹿にされて当然じゃないだろうか。

 勢いが強すぎて、前転するように荒れた地に投げ出された身体は、まるで自分のものではないかのようにガタガタと恐怖に打ち震えた。


『────フシュルル……』


 獲物に自慢の牙を躱された獣は頭部に血管を浮かび上がらせ、叩きつけるような威圧を持って再度こちらを射抜く。

 その鋭い牙から垂れる真っ赤な液体が、唾液ではないと解った時、日向見 桜(ひなたみ さくら)は、同時に自分の頬が薄く噛み切られている事に気付いた。


(な、なんでこんなことに……!? いや、今は落ち着かな────ぁ……)


 パニックをおこしていた思考は回路がショートしたように急に途切れる。

 上気した頬に、つーっと血が流れる。しかし痛みは気にならなかった。

 恐怖に打ち消されているのか。いや、違う。それ以上に、驚愕していたのだ。

 ──眼の前の蒼い毛に覆われた獣の背後に広がる恐ろしく神秘的で幻想あふれる光景を、桜は初めて視界におさめたのだから。


「なに……これ……」


 “気付いたら”狼の様な容貌をした獣の前に立っていた。だから自分がどこに居るのかさえ、気付かなかったのだろう。

 そこに広がっていたのは、美しい月光に照らされ光りの粒子を纏う木々。

 緑の彩は暗く、微かに薄く点滅を繰り返しながら闇を照らし緑を蘇らせるそれは、まるで妖精のダンスのようだと感じる。

 桜が今居るのは、見通すことが出来ない程広大と思える“森の中”だった。

 テレビの中でしか見ることのないような憧れの幻想世界に、桜は状況さえ忘れ、思わずうっとりとした溜息を漏らした。

 どうして、自分はこんな場所にいるのか。なぜ、猛獣に狙われなければならないのか。

 次第と、そんなことは蚊帳の外になっていった。

 単純にその光景、空気、世界を、美しいと感じたのだ。

 夢の中でも構わない。ならば忘れないように飽きるまで見ていようと思えるほど。

 今日は小さな幸福が続いていた。だから、この壮大な光景を“見ている”ことも、もしかしたら幸福なのかも知れない、と。

 ────そんな事を思っていた時、その幻想を打ち砕くように桜を狙う鋭い牙が、再び彼女の背後から迫っていた。


「ぇ……?」


 鎌首を擡げるように獣の顎が大きく開く。

 喉奥から漏れる荒い呼吸音に桜が振り向いた時、一陣の白き輝きが、今にも獲物を飲み込まんとする獣へと降り注いだ。


『ギャァォオオッッ!!!』


 瞬間、顎が光りによって、縦に割れる。

 迸る鮮血さえも白く塗りつぶしてしまう光りは、そのまま踊る様に廻り、断末魔の悲鳴をあげる獣の首を斜めに薙き、躊躇いなく宙に跳ね飛ばす。

 再び赤黒い鮮血が地に迸った。しかし今度は、獣の咆哮はない。獣は顎を割られた時点で既に息絶えていた。

 次から次への急展開に我を無くしていた桜は呆然とそれを眼で追うのみだったが、地面に滴る血だまりがブクブクと泡立ち、蒸発したことを見納め、ようやく我に帰る。


「……」


 それと同じくして、息を飲むような小さな吐息が頭のすぐ上から聴こえた。

 もちろん、自分ではない。獣の凄惨な死体は、既に血と共に消え去った。

 ───なら、誰だ?

 その疑問に、瞳は光りを再び写す。

 よく見れば、それは輝く光りを剣の形におさめているように見えた。

 そしてそれを持つ“腕”もまた、白い光りに負けず劣らず、搾りたての牛乳のように汚れのない綺麗な肌をしていた。

 自ずと呼吸を止めて、目線で腕を辿ってゆく。

 白い肌に映える黒い衣装の背には、踵に届きそうな程に長く流麗な白髪が垂れている。ふわりと揺れ動くそれは、夜の闇さえも掻き消してしまいそう。

 その髪が大きく一度左に揺れた時、自分を助けてくれた“光り”の顔が、こちらに向けられていた。


「…………お前は……」「……君は…………」


 向かい合ったその顔に、言葉が重なる。

 白く輝く髪を持つ少年は、振り向いた端正な顔に、呆けたような表情を張り付かせる。

 助けた少年と、助けられた異世界の者。

 無論初対面である二人は、この時奇しくも同じ表情を浮かべ互いを見つめていたのだった。









 月まで届かんとする木々が、所狭しと立ち並ぶ森の中。

 極普通の大学生で、こんな森とは無関係のはずだった(・・・)日向見 桜と、その危機を救った、地に届きそうな白い長髪が強烈な印象を持たせる少年は、彼を先頭に二人縦並びで森の中を歩いていた。

 既に獣と遭遇した地点ははるか後方だ。


(助けて、くれたんだよね……? この子)


 穴があったり、石があったり、平坦ではない道を怖々と歩きながら、少年の細い背中をブラウンの瞳で見つめ、桜はそんなこと考える。

 ……つい先程、獣を撃破した後、名も知らぬ少年との見つめ合いは勝利の余韻のように唐突に終わりを告げた。


「森を抜けたいなら、ついてこい」


 14、5歳くらいだろうか。あどけなさを色濃く残した顔立ち。

 昨年成人式を迎えた桜より一回り年下であろう少年は、そう小さく口にし、答えを待たずに森の中の小さな平野となっていた場所をあとにした。

 その場で話したい事、確かめたい事は山ほどあったが、いくら美しいとはいえ夜の森に一人置去りというのは身震いがするもので、桜は直ぐさま彼の背中を追った。

 ……それから、どれくらい歩いただろうか。

 未だ少年との会話はなく、元々人見知りの気があった桜はオドオドしながら「つ、月がキレイですね」と時代錯誤のナンパのような言葉を投げ掛けるのみだった。

 わかったことと言えば、この少年が寡黙だということぐらいだろうか。

 しかし桜の不安と恐怖は、既に限界にきていた。


「あ、あの!」


 意を決し放たれた強い口調で作られた言葉に、少年は初めて足を止め半身で振り返る。

 ……降り注ぐ月光よりも白い乳白色の肌。そして銀鉛色の、大きな真珠のような瞳が、こちらを射抜いている。

 自分が女性ならば見惚れていたかも知れない。いや、男性であっても溜め息が漏れるものだろう。

 浮世離れした魅力を湛えた美少年だ。

 桜は、少年が足を止め耳を傾けてくれたことに安堵し、さて何から話したものかと思考を巡らせていた所、少年が先に口を開く。


「……お前はどうしてあそこにいた」


 中性的な、それでいて微かに怒気を含んだ言葉だ。

 一度言葉に出してみると止まらなかったのか、少年は少し語気を荒くし続け様に言葉を投げ掛ける。


「陽が落ちた夜の繊月森(せんげつもり)は、人を呑み込む。危険地域に指定されているんだ。魔獣に抗う術を持たない人間が、のこのことピクニックに来る場所じゃない」


「え? で、でも……」


「でももだっても無いだろ。俺がいなかったら、お前は今頃あの世にピクニックだったんだぞ」


「……ほ、ほんとうにすいませんでした……」


 少年の有無を言わせぬ言霊に、桜は思わず低姿勢で謝ってしまう。

 ……どうやら寡黙という訳ではなく、怒りに口を閉ざしていたらしい。

 言葉の大半の意味が解らない上、年下の子供に諭されるのは居心地が悪かったが、あの見た事もない化物に襲われて急死に一生を得たのは事実だ。

 それに少年は自分の身を案じ、注意を促してくれているらしい。

 責められていながらもそのことは不思議と心を軽くし、人見知りの桜に少しだけ勇気を与える。


「あの……何て呼べばいいかな?」


「……ウルリカだ。仲間には、ウルリと呼ばれてる。……別に、好きに呼んでいい」


「そっか……じゃ、ウルリって呼ぶよ。あ、僕は日向見 桜。京都の大学に通う大学生で年は21歳です。よろしく」


怖ず怖ずと差し出された手に対し、ウルリと名乗った白い少年は怪訝な面持ちでそれに答えた。


「お前、変わってるな」


「……。よく言われる……。ところでさ、さっきここの森の事何か言ってたけど、京都のどこら辺のことなのかな。東山とか?」


「ヒガシヤマ? ……なんだそれは。知らないな」


「や、やっぱり……? そうだよね……京都ではあんな化物出てこないもん……ファンタジーな光の剣とか出てこないもんね……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 もしかしたら、この少年は観光客の外国人で。

 ここは慣れ親しんだ京の都ではないかと願望じみたことを思うも直ぐさま否定されてしまう。

 そのままジメジメと草を生やしそうな桜の態度に、ウルリは怪訝な表情を更に深め、歩きながら話そうとジェスチャーで示す。


「ひにゃた……、ひ、ひにゃたみ……」


「……呼びにくいなら、桜でいいよ?」


 ウルリはこほんとわざとらしすぎる下手くそな咳払いをし、再びやり直す。


「──サクラ。何を勘違いしているのかは知らないが、ここはお前の考えているような場所じゃない。この森は、ヴィルヘリッタの裏手の先に位置する森林地帯、繊月森(せんげつもり)だ」


「ヴィル、ヘリッタの裏手の……繊月森(せんげつもり)……?」


 疑問符を浮かべ復唱する桜に、ウルリはこくりと小さく頷く。


「この森は魔獣を多く秘めている。明るいうちは騎士団の検問の元、一般人も入る事が出来るが、魔獣の餓えがより強くなる夜間は別だ」


「魔獣って…………マジ?」


 少年は小さく“マジ”と呟く。

 ゲーム等でよく目にした、現実離れしたその言葉。けれど目の前であんな空想的な戦いを見せられては納得するしかなかった。

 ……ここは、自分の“知らない世界”なのだと。

 今更ながら辿り着いたその結論に、桜は口を噤み黙りこくる。

 現実とは違い、憎たらしいほどに澄み渡る思考は、両親、そして家族の顔を次々と映し出していた。

 どうしてここに来たのかは、今はどうでもよかった。今更喚いても、これが夢ではないことは頬の傷が教えてくれる。

 それどころかやけに身体に“しっくりくる”感覚が、この世界にはあるのだ。

 ただ、別れにあたって自分が家族に何かしてやれたかと考えたとき、途方も無い後悔の念が浮かび上がる。

 ──せめて、「ありがとう」の一言さえ残せれば……。

 桜の拳は微かに震えていた。


「だから夜間には、正義気取りの騎士団の連中も、禁止令を出すだけで…………って、聞いてるのか?」


「っ……うん、聞いてるよ、すっごいマジメに聞いてるよ」


「……お前、変わってるな」


 どう見ても話半分だった桜の様子に、ウルリは怪訝さを通り越し溜め息をつきながらも世間知らずらしい冒険者に対して話を続ける。


「ヴィルヘリッタまでは俺達(・・)について来ていい。その見返りと言っちゃなんだけど、その後は二度と夜の繊月森(せんげつもり)には無暗に近付かないでくれ」


「……うん、わかったよ。さっきはありがとう、ウルリ」


「……ああ」


 ぎこちない笑顔を浮かべた桜に対し、ウルリはむずかゆいような微妙な顔を浮かべそっけなく返答をした。

 そんな少年らしい如何にもな態度に、少しだけ気持ちが晴れたような気がした桜は、目の前の現実を受け入れなければと気を引き締め、前を歩くウルリの背に声を掛ける。


「ねぇ。そんなに危険な森なら、どうしてウルリはここに来たの?」


「依頼を受けたんだ」


「依頼?」


「ちょっとしたな。……この森の魔獣の異常な繁殖増加。その“大元”を断ってほしいって話」


 ……ウルリは傭兵でもしているのだろうか。

 一撃の元、魔獣の首を叩き斬った光の剣を思い出し、桜は首を捻る。


「傭兵ってことかな……それって、報酬と引き換えにってことだよね」


「もちろん。ただで善行ができるならそれにこしたことはないが、この荒んだ時代、金銭と命は二律背反だ。幸い拠点の近場だし、ここの魔獣の特性もある程度調べがついていた。……けど、とんだ拾い物もあったぜ」


 そう言いウルリは似合わない皮肉げな笑みを桜に傾けた。

 桜が気落ちしていることを薄々感づいて、気を使いからかっているのだろう。

 少年にそんな自覚はないのかも知れないが、不器用なその優しさは桜の心を温かくする。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ