第19話 偽りの白百合と、冷たい清拭
重々しい扉で閉ざされた、セルヴィス伯爵家長女クラリスの自室。
厚手のカーテンが日光を一切遮り、室内にはどんよりとした重苦しい沈黙が停滞していた。
「……クラリスお嬢様。お食事とお茶のご用意が整いました」
静かに声をかけたのは、完璧な侍女の佇まいを見せるマリアだった。
洗練された動作でサイドテーブルへ置かれたのは、表面にうっすらと冷えた油膜の浮いた薄いスープと、少し時間が経って水分の抜けた硬いパン。そして、上質な茶葉ではなく出がらしで淹れられた、渋みの強い冷めた紅茶だった。
精神の疲弊により感性の鈍っているクラリスは、その質の変化にすら気づく様子がない。
「……いらないわ、マリア。喉を通らないの……」
「それではお身体が持ちません。ほんの少しだけでもお口になさってください。……わたくし、お嬢様がご無事でいらっしゃることが何よりの救いなのですから」
マリアは心から心配するように甘く優しい声をかけながら、右手をそっと自分のエプロンのポケットへ忍ばせ——「ヴェルスが昨日使った木製のスプーン」をしっかりと握りしめる。
ポケットの中のスプーンの感触を指先で確かめるたび、マリアの下腹部から甘い熱がじんわりと滲み出していく。
クラリスに向けた微笑みはどこまでも温かく完璧だが、その瞳の奥にはドロリとした狂おしいほどの悦びを孕んだ、絶対的な所有欲が満ちていた。
「……ヴェルス……あの子は今、どうしているの……? お父様はあの美しい顔を、また傷つけるつもりなのよ……ッ! お願い、マリア……あの子に会わせて……ッ!」
ベッドの上で膝を抱え、すがるように叫ぶクラリス。
その口から「ヴェルス」の名が発せられた瞬間——マリアの胸の奥で、黒く渦巻く強烈な『嫉妬』が跳ね上がった。
マリアは返事の代わりにクラリスの背後に回ると、静かにブラシを取り、彼女の黄金の髪を梳かし始めた。
だが、クラリスの「あの子は私のもの」と言いたげな泣き顔を思い出すたび、ブラッシングに込められた手に余計な力が加わってしまう。
『ツッ……』
「あ……っ、マリア……少し痛いわ……」
髪を強く引っ張られたクラリスが、小さく眉をひそめて声を漏らした。
「……申し訳ございません、クラリスお嬢様。あの方のことを思いますと、わたくしも胸が痛むばかりで、手元が狂ってしまいました……」
マリアは粛々と頭を下げると、すぐさま整った声に戻り、クラリスの耳元でそっと毒を囁きかけた。
「ですがお嬢様、どうか焦らないでくださいませ。当主様のご立腹はまだ冷めておりません。今お嬢様が地下牢へ向かわれれば、当主様は即座にあの方の命を奪うでしょう。……お部屋でおとなしくお食事を摂り、時を待つことこそが、あの方をお救いする唯一の方法でございます」
「……そう……そうね……。お父様を刺激したら……あの子が殺されてしまう……」
クラリスは逃避するように静かに瞼を重く閉じていった。
◇
部屋を辞したマリアは、静かに扉を閉めると、一人になった廊下で深々と息を吐いた。
エプロンのポケットの中でヴェルスのスプーンを強く握りしめ、熱く火照った太ももを静かに擦り合わせる。
クラリスへの嫉妬と対抗心が、そのまま地下牢にいる美少年への狂おしい情欲へと変わっていく。
その後、マリアは浴室へ向かうと、湯気を立てる温かい湯桶と清潔な白い布を準備した。
地下へと続く冷たい石段を降りる足取りは、すでに高揚で微かに震えていた。
◇
光の届かない地下牢。
『カツン……カツン……』
湿った石畳を叩く、細く規則正しい靴音が地下牢の静寂を切り裂いて響き渡る。
暗闇の奥から姿を現したのは、隙のない漆黒のメイドロングドレスに、雪のように白く細やかな刺繍が施されたエプロンを纏ったマリアだった。
湯気を立てる温かい湯桶と清潔な白い布を両手に抱え、一歩足を踏み入れるごとに、冷え切った地下牢の湿気の中へ柔らかな湯の温もりが微かに広がっていく。
鉄格子の前で静かに膝を折ると、湯桶と白い布を冷たい石畳の上へとそっと静かに置いた。
両手足を重い枷で繋がれたヴェルスは、傷の残る体を壁にあずけたまま、深遠な黒い瞳で静かにマリアを見つめていた。
侍女は喉の奥から小さく甘い息を漏らし、ヴェルスを恍惚とした瞳で見つめながら、すっと背筋を伸ばした。
しなやかな指先でスカートの脇を軽くつまみ、右足を後ろへ。ふくらはぎの素肌をわずかに覗かせながら、深く、艶やかなお辞儀を繰り出した。
やがて高揚に耐え切れなくなった彼女は、エプロンとブラウスのボタンを震える指先で静かに解き、肩口から無防備な素肌を滑り出させると、息をのむような艶やかさでヴェルスの前に膝をついた。
薄暗い地下牢の中に、一肌の艶やかな白さと、甘く熟した体温の匂いが立ち込め始める。
マリアは荒い吐息を漏らしながら、ヴェルスの前に静かに身を寄せた。
吸い寄せられるように、ヴェルスの深遠な黒い瞳をじっと見つめる。底の見えない冷たい闇のようなその瞳に射抜かれ、マリアの胸の奥で激しい情熱が弾けた。
耐えかねたように身を乗り出すと、ヴェルスのかさついた唇へ己の唇を強く重ね合わせ、深く、呼吸を奪うような口づけを落とした。
ヴェルスは逃げることなくその口づけを受け入れると、かさついた唇を微かに開き、マリアの求めるままに応えてみせた。
自分を受け入れてくれるその温もりに、マリアの胸は狂おしいほどの歓喜で満たされる。言葉など交わさぬまま、熱い吐息が重なり合っていった。
やがて名残惜しそうに唇を離したマリアは、至福の悦びに肩を震わせながら湯桶から温かい布を絞り、ヴェルスの首筋や胸元に残る汚れと血の跡を、傷口を優しく避けながら丁寧になぞり拭っていく。
「……ハぁ、っ……あ……っ」
冷え切った身体に温かい布が触れるたび、ヴェルスは微かに息を漏らし、マリアの捧げる温もりにそっと身を委ねていた。
マリアの指先が、ヴェルスの華奢な背中へと回る。
痛々しく残る傷痕を避けるように、彼女は自らの柔らかな体温と温かい素肌をヴェルスの背中へとぴったりと密着させた。
肌と肌が触れ合う熱に肩を跳ねさせながら、その背中へ、唇をじわりと寄せて、そっと吸い付いた。
背中に身を寄せ、湿った吐息を吹きかけながら、愛おしむように何度も唇を落とす。
「ん……ッ……ふぁ……っ」
言葉など一言もない。ただ、己の手でこの傷ついた少年の汚れを拭い、命を繋ぎ止めているという狂おしいほどの所有感と快楽。
こみ上げる甘い熱に背中を震わせながら、マリアは一人、恍惚とした陶酔の深淵へと沈んでいく。
侍女は波打つ全身の震えとともに、甘い服従と陶酔の頂点へと一気に落ちていくのだった。
『……っ、あぁッ……! ……んぅっ……!』
熱い吐息と情熱の喘ぎ声が、静まり返った地下牢に響き渡る。
嵐のような陶酔が去り、荒い息を吐きながら手早く衣服を整えたマリアは、すっと背筋を伸ばすと、優美で深いお辞儀を捧げた。
『……また、お持ちいたしますね』
そう心の中で囁き、恍惚とした瞳でヴェルスを見つめた後、彼女は静かに地下牢を後にした。
マリアの遠ざかる足音が冷たい石廊下に虚しく響き、地下牢には再び深い静寂が満ちていく。
薄暗闇の中に残されたわずかな湯気の温もりと、甘く歪んだ情熱の余韻だけが、重い鉄格子を静かに包み込んでいた——。




