婚約する予定だった幼馴染? もう関係ない方です
わたくしの初恋は、王立学園の中庭が見える回廊で終わった。
「次の土曜日? いいよ、みんなで行こう」
幼馴染でケルタ子爵家の嫡男であるマルシオの声が聞こえた。
マルシオは取り巻きの女生徒たちと共に、中庭の白いベンチに座っていた。
昼の太陽に照らされて、マルシオのプラチナブロンドや、アイスブルーの瞳が煌めいて見えた。
「ジュリアと行く予定だったけど、あいつの方は断るよ。ジュリアとはいつでも行かれるからな」
マルシオは端正な顔に満足げな笑みを浮かべて、女生徒たちを見まわした。
「ありがとうございます、マルシオ様!」
「マルシオ様とサーカスに行けるなんて、うれしいわ!」
女生徒たちは、大はしゃぎしていたわ。
わたくしは、マルシオたちの姿を呆然として見ていた。いつもならば、マルシオの姿を見たら、すぐに駆け寄るのだけれど……。
「ジュリア、大丈夫?」
一緒にいた侯爵令嬢のフランシスカが、わたくしの持っていた教科書とノートを持ってくれた。
「顔色が真っ青よ」
伯爵令嬢のルイーザが、わたくしの手を握ってくれた。
わたくしが二人に返事をすることができずにいると、二人はわたくしを保健室に連れて行ってくれた。
養護教諭の先生によると、わたくしは精神的なショックで体調不良になってしまったらしかった。
しばらくしたら、家から迎えの馬車が来て、今日はこのまま早退よ……。
「ごめんなさい、二人とも……。迷惑をかけてしまったわね」
わたくしは保健室の丸椅子に座り、二人を見上げた。
「いいのよ」
「気にしないで」
二人はわたくしの腕や背中をさすってくれた。
「わたくし……、マルシオとの約束があったから、二人に誘ってもらった観劇を断ったのに……」
涙が、わたくしの頬を滑り落ちていった。
「ジュリア、わたくしの代わりにフランシスカと観劇に行ってちょうだい。わたくしは、あの劇にそんなに興味がないから平気よ」
ルイーザの言葉に、わたくしは首を振った。
「ごめんなさい、そんな気分になれないわ……」
「そんな……、謝らないで」
ルイーザがわたくしを抱きしめてくれた。
「わたくし、もうマルシオを追いかけるのはやめるわ……」
わたくしとマルシオは領地が隣同士で、親同士もとても仲が良かったの。
小さい頃から、二人で一緒に遊んで……。
王立学園を卒業したら婚約して、その半年ほど後に結婚する予定になっていた。両家の誰もが、わたくしたちが正式に婚約していなくたって、特に問題ないと思っていた。
だけど、マルシオは王立学園に入学してから変わってしまった……。王立学園に入学する前は、わたくしを好きだと言ってくれていたのに……。今では女生徒たちの人気者になって、わたくしのことなんて、いつも後回し……。
マルシオから約束を破られるのも、今回が初めてではない。
「もう……、マルシオを好きでいるのは無理だわ……」
わたくしはマルシオと違って、平凡な茶色の髪と瞳をしている。平民にありがちなこの髪と瞳の色を、マルシオから「よう、平民!」と、からかわれるようになったのも嫌だった。
マルシオが取り巻きの女生徒たちに向かって、「ジュリアに外堀を埋められてるからなあ。もうジュリアと婚約して結婚するしかないんだよ」なんて愚痴っぽく言っているのも嫌だった。それを聞いた女生徒たちが、「マルシオ、かわいそう」なんて言いながら、マルシオと一緒に笑っているのも、嫌で嫌で仕方がなかった。
「わたくし、マルシオと婚約していなくて良かった……」
わたくしは二人に笑おうとして……、上手くいかなかった。
「ええ、そうよ。ジュリアにはマルシオなんかより、もっと良い相手がいるわ」
ルイーザがわたしを抱く腕に力を込める。
「ねえ、ジュリア、オススメの男性がいるの。試しに会ってみない? もし気が合うようなら、その人に婚約を申し込んでもらうの。どうかしら?」
フランシスカは、わたくしの両手を励ますように握ってくれた。
「ありがとう……、二人とも。わたくし、その男性に会ってみるわ」
◇
それで、翌日の放課後、フランシスカに連れて行かれたのが王宮って……。
どうなっているの……。
わたくしたち三人は、王宮の応接室にいた。
「叔父様でしょ? そうだと思ったのよ」
ルイーザがフランシスカに言っている。
フランシスカのお母様は、国王陛下の同腹の妹なの。
「そうよ。もうすぐ王立学園から帰って来ると思うわ」
王立学園に通っているフランシスカの叔父様って……。
国王陛下の腹違いの弟で、一学年上のフェリペ殿下じゃない……。
フェリペ殿下は、王立学園をご卒業されたら、公爵位を賜るご予定だと聞いたことがあった。
「フェリペ叔父様なら、容姿だって、身長だって、マルシオになんて負けないわ! 成績でも、身分でも、剣技でだって圧勝よ!」
たしかにフランシスカの言うとおりだけれど……。
フェリペ殿下は、王立学園でマルシオと人気を二分しているお方だけれど……。
わたくし、どんな方なのか、きちんと確認してからお願いしたら良かったわ……。
「わたくし……、王族なんて困るわ……」
わたくしはフェリペ殿下のお姿を思い出してみる。フェリペ殿下は、銀髪で紫色の瞳をした、麗しいお顔立ちの王子様……。
「わたくしはね、ジュリアを蔑ろにしたマルシオが許せないの。ジュリアには、マルシオなんかより、圧倒的に上の相手と幸せになってもらうわ!」
「そうね。わたくしもマルシオには腹が立っていたのよ。いい気になって、ジュリアを馬鹿にして!」
フランシスカとルイーザが、わたくしのためにこんなにも怒ってくれている。わたくしは、二人の気持ちがとてもうれしかった。
「ありがとう、二人とも……」
だけど、王弟殿下だなんて……。
わたくしの家なんて、特に政治力があるわけでもない伯爵家よ。
我がインベル伯爵家は、領地にバルバット湖という大きな湖があって、その水を王都や近隣の領地に分け与えている。そのおかげで、父には『水源伯爵』という二つ名があった。
その湖の水による収入のおかげで、我が家はなんとか領地経営ができている。
マルシオからは「ジュリアのところはデカい湖しかないもんな」なんて、ずっとバカにされてきたけれど……。
「でも、わたくし、やっぱり……」
わたくしは、なんとか断ろうと口を開いた。
それなのに、応接室のドアがノックされて、フェリペ殿下が入ってきてしまった。
わたくしたちはフェリペ殿下に向かって、三人揃ってカーテシーをした。
「待たせたね。楽にしてくれ」
フェリペ殿下は、わたくしたちに申し訳なさそうな顔をした。
「叔父様、ジュリアは腰が引けているみたい」
「そうなのかい?」
フェリペ殿下はフランシスカの言葉を聞いて、わたくしに目を向けた。
わたくしは困ってうつむいた。
「私が王族だからかな? そう硬くならないでほしい」
「そうよ。気楽にやってちょうだい」
そんなことを言われても……。
わたくしは助けを求めてルイーザを見た。
「大丈夫よ」
ルイーザは力強くうなずいてくれたけれど、なにが大丈夫なの……。
「わたくしたちは帰るわ。叔父様、後はよろしくね」
フランシスカとルイーザは、さっさと部屋を出ていってしまった。二人を止める暇さえなかったわ。
ああ、どうしよう……。
「ジュリア……、久しぶりだね」
「え……?」
久しぶり? わたくしは戸惑いながら、フェリペ殿下を見上げた。
「覚えていないかな? 私はインベル伯爵領の隣にある王領にいたことがあるのだが……」
言われてみると、父に連れられて隣の王領に行き、男の子と何度か遊んだことがあった気がする。
フェリペ殿下は、先の国王陛下が高齢になってから迎えた側妃殿下の子だった。先の国王陛下は老いにより少し判断力が鈍っており、フェリペ殿下がお生まれになった時、喜びのあまり「王位はこの子に継がせる!」と宣言してしまった。
そこから、王太子派と末子派が争うようになり……。
争いの最中に先の国王陛下が崩御して、王太子殿下がご即位された。
同時に、フェリペ殿下は側妃殿下と共に王領に移られて、王立学園入学までそちらで暮らしていた。
「もしかして、あの時の……」
あの男の子とは、特別なことをした思い出はなかった。
父母から「高貴な方だから粗相のないように」なんて言われて、かちんこちんに緊張していた記憶しかない。
強いて言うなら、手をつないで原っぱを走ったことがあったような……?
マルシオとの間にある、一緒にお花を摘んだとか、春祭りに行ったとか、ボートに乗ったとか……。そんな甘酸っぱい思い出に比べたら……。
わたくしとあの男の子との間には、特別なことなんて、なにもなかった。
「君にとっては、たいした思い出ではないのだろうが……。私は他の子供と遊ぶことができて、とても楽しかった。かけがえのない思い出だよ」
フェリペ殿下は、寂しげに笑った。複雑なお立場で王領に追いやられた方だ。遊び相手もいなかったのだろう。
「そうだったのですね……」
わたくしはフェリペ殿下のお気持ちを理解することができた。けれど、フェリペ殿下と同じように過去を懐かしむことは難しかった。
「私は王立学園を卒業した後、一代限りの公爵位とインベル伯爵領の隣の王領を賜ることになる」
「はい」
わたくしは、なんと言ったらいいかわからなかった。
「ジュリア嬢は、私にとっては大切な思い出の中の幼馴染だ」
フェリペ殿下は片足を引き、その場でひざまずいた。
「あの……、フェリペ殿下、困ります」
わたくしはおろおろして、フェリペ殿下になんとか立っていただこうとした。手を伸ばしかけて、不敬だと思い至り、慌てて引っ込める。
「強引ですまない。だが、君があのケルタ子爵令息から馬鹿にされているのを見るのは、耐え難いのだ……。王族の権力を振りかざしていると思われてもいい……」
フェリペ殿下は昏い目をして、わたくしを見上げた。わたくしはその瞳の奥に、ケルタ子爵令息――マルシオへの怒りを見た。
「フェリペ殿下……」
「この身勝手さは、君にはケルタ子爵令息と同じに見えるかもしれない。だが……、私は君が好きだ。君を妻に迎えたい」
フェリペ殿下はなにかを堪えるように、そっと目を伏せた。
「すまない……。君のケルタ子爵令息への気持ちはわかっている」
そう言うと、フェリペ殿下はゆっくりと立ち上がった。
「いえ、それは……」
マルシオのことは、忘れるつもりだった。できるなら、新しい恋をして……。
そして、今度はきちんと婚約したかった。
「フランシスカやルイーザ嬢を交えて、お茶会をしないか? ジュリア嬢に私のことを知ってほしい。それで、もし私で良いならば、婚約してほしい」
「はい……」
「君の立場では、そう答えるしかないな……」
フェリペ殿下は申し訳なさそうに言った。
「いえ、あの……。お気持ちはうれしく思っています。ただ、急なことで……」
「そうだな。戸惑わせてしまって、申し訳ないと思っている」
フェリペ殿下は自嘲するように笑った。
そのどこか悲しそうな笑みに、わたくしはフェリペ殿下から自分への気持ちを見た気がした。わたくしはかつて鏡の中で、自分が同じ表情で笑っていたのを見たことがあったから……。
◇
わたくしはフェリペ殿下とお会いした日を境に、マルシオとは距離を置いた。
「サーカスに行けなくなったんだ」
前日になってやっと、マルシオからニヤニヤしながら伝えられた。
場所は、学園の廊下。
わたくしはマルシオとすれ違う時に呼び止められたの。
マルシオは、わたくしにギリギリまで期待を持たせておく。
なにもかもが、これまでと同じだった。
「そうなのね。わかったわ」
わたくしは静かに答えた。もう、怒りも、悲しみも、なにもなかった。
「ジュリアとは、いつでも一緒に行けるもんな」
マルシオは、あの中庭にいた時と同じように笑った。わたくしの様子がいつもと違うことになんて、気づいていないようだった。
「ええ、そうだったわね」
わたくしはマルシオに笑いかけた。
――これからは違うわ。もう二度と、どこにも一緒に行くつもりはないもの。
「じゃ、そういうことで」
マルシオの背中が遠ざかっていく。
わたくしとマルシオが話をしたのは、この時が最後だった。
◇
わたくしはフランシスカとルイーザに誘われるまま、フェリペ殿下と四人で何度もお茶会をした。
場所はフランシスカの家か、王宮だった。
お茶会の後には、フェリペ殿下と一緒に庭園を見ながら歩いた。
わたくしはフェリペ殿下と過ごすうちに、自分が王族とも婚姻できる伯爵家の娘であるということを、徐々に思い出していった。
伯爵家の娘が、子爵令息に笑いものにされていたことがおかしかったのよ。
マルシオは、ただ隣の領地に住んでいるだけで、わたくしの婚約者ですらなかった。
たとえ婚約者だったとしても、子爵令息が伯爵家の娘を愚弄して良いわけがない。
身分が同じであったり、わたくしの方が身分が下だったとしても、マルシオのあの態度は許せなかっただろう。
我がインベル伯爵領は兄が継ぎ、わたくしは相応しい相手に嫁ぐ。
わたくしがほんの一時期、隣の領地の子爵令息に入れ込んでしまったことなど、小さな瑕疵にすぎない。わたくしは純潔を失ったわけではないのですもの。
――フェリペ殿下は約束を守り、わたくしに婚約の申し込みをしてくれた。
王家としても、『水源伯爵』の娘は、複雑なお立場にある王の末弟の相手として、ちょうど良かったのだろう。
わたくしとフェリペ殿下は婚約し、王立学園の卒業と同時に結婚して、二人で領地を守っていくことが決まった。
それと同時に、我がインベル伯爵領からケルタ子爵領への水の提供が終わった。
マルシオの両親は自分たちの非を認め、水の提供が終わることに納得してくれた。
嫡男が王立学園で、伯爵家の娘を愚弄していたのよ。ただ水を止められただけで済んで良かった、とでも思っていたはずだわ。
彼らは、我がインベル伯爵領から水を提供される前だって、それなりにやっていたでしょうからね。その頃に戻るだけのことですもの。
――子爵夫妻はそれで良くても、領民たちは違ったわ。
領主の跡継ぎが『水源伯爵』を怒らせたせいで、領民たちは水路の整備に駆り出されることになった。しかも、その水路ときたら、インベル伯爵領から水を提供される前の時代のもの。傷み具合は、かなりのものだったはずよ。
領民たちは、長期間にわたって水路の整備に駆り出されたら、元々やっていた仕事に影響が出る。工事中は、領主から賃金が貰えるから良いかもしれないけれど……。工事が終わった後には、収入が減る可能性の高い者も多かった。そんなこと、領民たちは嫌に決まっているわ。
領民たちはケルタ子爵家の領地館を取り囲み、愚かな嫡男を廃して、なんとか『水源伯爵』の許しを得るよう迫った。
――許すわけがない。
父や兄は、ケルタ子爵家に対し、マルシオの取り巻きの女生徒たちに助けてもらうよう促しただけだった。
マルシオの取り巻きだった女生徒たちは、すでにマルシオに寄り付きもしなくなっていた。だけど、もう遅いわ。彼女たちは、わたくし――王弟殿下の婚約者にすっかり嫌われていたもの。ある者は婚約を破棄され、ある者は決まりかけていた婚約が破談になり、ある者は家の領地経営が上手くいかなくなった。
◇
わたくしは学園を卒業してフェリペ様と結婚すると、元王領である公爵領の産業などについて詳しく教えていただいた。公爵領とインベル伯爵領の両方を栄えさせる方法が、なにかあるかもしれないと思ったのよ。
わたくしは公爵領で作られている白レンガを、インベル伯爵領から伸びる水路を使って、各地に出荷することを提案した。マルシオから我がインベル伯爵領について「湖の水しか売り物がない」と何度も笑われたのが悔しくて、『水路を使って商売ができないかしら?』と考えたことがあったの。水路を使って品物を運ぶのは、その時に考えた案の一つだった。
水路を使って公爵領の白レンガを各地に楽に運べるようになると、この国では茶色いレンガと白レンガを組み合わせた建築物が流行るようになった。そして、新たに作られる建築物は、白レンガを多く使っていれば使っているほど高級だ、と認識されるようになった。
ケルタ子爵領と、マルシオの取り巻きだった女生徒たちの家には、公爵領の白レンガを売ることは一切禁止にしたわ。
わたくしたちは、白レンガの需要の高まりと共に豊かになっていった。
フェリペ殿下とわたくしとの結婚は、公爵領にとっても、インベル伯爵領にとっても、わたくし自身にとっても、大正解だった。
――そんなある日、わたくしはフェリペ様にお願いして、王都でやっている劇に連れて行っていただいた。
フェリペ様は元王族よ。わたくしたちのために、ロイヤルボックスが用意された。
わたくしは王立学園時代からフェリペ様と共に観劇に来ていたから、豪華絢爛たるロイヤルボックスも、もうすっかり慣れたもの。
そろそろ劇が始まろうとする時間になって、急にロイヤルボックスの外が騒がしくなった。
「何事だ」
フェリペ様は従者に訊ねた。
従者はすぐに外を見に行って、戻ってきた。その従者の後ろから、マルシオの声が聞こえた。
「ジュリア、いるんだろう!? 出てきてくれ! 会いたいんだ! 水も、白レンガも、なにもいらない! ジュリア、好きだ! ジュリア!」
「あのように、ケルタ子爵令息が騒いでおりまして……」
従者が説明してくれた。
「そのようだな」
フェリペ様は小さくため息をついた。
「わたくしのせいで、申し訳ありません」
わたくしは背後をふり返った。
「君はもう関係ないよ。気にする必要はない」
フェリペ様が、わたくしの手を握った。
「そうですわね」
わたくしはフェリペ様へと視線を戻し、苦笑してみせた。
フェリペ様は昏い目をして、わたくしの指先に口づけを落とした。わたくしにマルシオの方を見てほしくないのだろう。たとえ、閉じた扉越しであっても……。
フェリペ様ったら、本当に困った方……。
「あんな男は、護衛騎士がすぐに追い返すさ。それより、もう始まるよ」
フェリペ様に促されて、わたくしは舞台に目を向ける。
マルシオは、わたくしとの約束を破り、わたくしを笑い者にした。
わたくしがマルシオを好きだった時には、取り巻きの女生徒たちを優先して、一緒に出かけてもくれなかった。
そんなマルシオから、今さら、会いたい、好きだ、なんて言われても、会ってあげる気になんてなれない。
劇の始まりを告げるラッパが吹き鳴らされた。
――マルシオの声は、もう聞こえない。
この劇は、かつてフランシスカとルイーザから一緒に見に行こうと誘われて、「マルシオとサーカスに行く約束があるから」と断ったものだった。
それが再演されることになったから、こうしてフェリペ様に連れてきていただいたの。
フェリペ様はいつだって、わたくしとの約束を守ろうとしてくれる。どうしても約束を果たせない時だって、フェリペ様には、わたくしにも納得できる真っ当な理由があった。
『他の女性と連れだって遊びに行くから』といった理由だったことなんて一度もない。
劇の幕が上がる。
わたくしは過去のことなど考えるのはやめた。
すべては、もう終わったこと。
今のわたくしには、フェリペ様がいてくれる。
穏やかで幸せな日々を分かち合う、わたくしの愛する夫。
領地に住んでいると、王都で劇を楽しむことなんて、なかなかできない。
今この時を楽しみたいわ。
――その日、わたくしたちのいるロイヤルボックスに押し入ろうとした男が、剣を抜いて暴れたせいで、護衛騎士に斬られたらしいけれど……。
わたくしとは、もはやなんの関係もない方の話だった。




