第50話
バルバロッサの街に、科学の光が灯った。
貯水池の浄化に成功した翌日、街の雰囲気は一変していた。
昨日まで私たちを「魔女」と呼んで石を投げんばかりだった人々が、今では列をなして私たちの宿舎の前に集まっている。
彼らの手には、感謝の印としての特産品や、病気の相談を記した手紙が握られていた。
「先生、診療所にはもう、入りきれないほどの人たちが押し寄せていますわ」
エリアーデが、忙しく立ち回りながら私に報告した。
彼女の白衣は既に少し汚れていたが、その顔には充実した笑みが浮かんでいる。
「これほどまでに、人々は『理にかなった助け』を求めていたのですね。魔法の祈りでは満たされなかった不安が、一錠の薬や、一つの説明で解消されていくのを目の当たりにしています」
「ええ。安心は、理解から生まれるものだから」
私は宿舎の一室を臨時の「技術相談所」として開放した。
そこへ、昨日の老魔導師が、数人の弟子を連れて現れた。
彼は、私が渡した入門書をボロボロになるまで読み込んだ形跡があり、その瞳には昨日とは違う、純粋な探求の光が宿っていた。
「……リディア殿。私は、自らの傲慢を恥じ入るばかりです。この本に書かれている『酸化還元反応』。これを知っていれば、あの呪いも防げたはずだった」
「過去を悔やむ必要はありません。大切なのは、これからその知識をどう使うかです。魔導師殿」
「我が名はゼノ。このバルバロッサの魔法院の長を務めております」
彼は深々と頭を下げた。
「どうか、我々にさらなる教えを。魔法という不確かな力に代わる、この『科学』という強固な杖を、我が街の若者たちにも授けていただきたい」
「もちろんです。私たちは、そのためにここに来たのですから」
私はゼノを椅子に促し、バルバロッサを拠点とした「同盟諸国科学ネットワーク」の構想を話し始めた。
各都市を鉄道と電信で繋ぎ、マナ・コレクターを設置する。
そして、それぞれの街に科学学校を建設し、共通のカリキュラムで教育を行う。
「資源と知識を共有し、協力して発展する。それが、アークライト科学合衆国が目指す、新しい世界の形です。あなたたちは、その最初のパートナーになるのです」
ゼノたちは、私の言葉を一つも漏らさぬよう、必死にメモに取っていた。
かつての敵対心は、未来への熱狂へと昇華されていた。
午後、私は街の外れにある高台に登った。
そこからは、バルバロッサの街並みと、遠くに広がる同盟諸国の荒野が一望できた。
風が私の髪を揺らし、心地よい静寂が周囲を包み込む。
不意に、背後から足音がした。
振り返ると、そこにはジークフリードから預かった緊急用の電信機を手にした、アルブレヒトの部下が立っていた。
「リディア先生、王都から緊急の電信です。ジークフリード大統領閣下より」
「ジークフリードから? 何があったの」
手渡された紙テープには、短いが重みのある一文が記されていた。
『ガルニア帝国皇帝、バルバロッサへ直接向かうとの連絡あり。歴史の目撃者になりたいとのこと。リディア、準備はいいか?』
「……皇帝自ら、ですか。思ったよりも動きが早いわね」
私はその電文を読み、不敵な笑みを浮かべた。
「先生、どうなさるのですか。帝国の皇帝が来られるとなれば、この街の警備だけでは不十分です」
アルブレヒトの部下が、心配そうな顔をして尋ねた。
「心配いらないわ。皇帝は、戦争をしに来るわけではないもの。彼は、新しい時代の風を感じに来るのよ。だったら、私たちは彼に、最高に『刺激的な風』を見せてあげればいいの」
私は、自分たちの列車の貨物車両に積まれていた、ある秘密兵器のことを思い出した。
それは、王都を出発する直前にギュンターさんと私が完成させた、最新の光学通信システムだった。
数時間後、バルバロッサの駅には、合衆国の紋章旗とガルニア帝国の紋章旗が並んで掲げられた。
街の人々は、自分たちの小さな街に、超大国のトップが集まるという事実に、興奮と緊張を隠せないでいた。
やがて、北の地平線から、一筋の銀色の閃光が近づいてきた。
それは、帝国の魔導技術の結晶である、超高速の魔導戦車の一団だった。
しかし、その先頭を走るのは、私たちの「リディア号」の姉妹機である、最新鋭の蒸気機関車だった。
「……彼らも、私たちの技術を早速使いこなしているわね。学習能力は高いわ」
私はホームで、ジークフリードと共に皇帝を待った。
ジークフリードは、バルバロッサへの移動中に別のルートを通って、既に合流していたのだ。
「リディア。皇帝は、君に会うのを心から楽しみにしているようだ。彼の国では、君の書いた論文が聖典のように扱われているらしいぞ」
「それは少し、重荷ね。科学は宗教じゃないのに」
列車がホームに滑り込み、重厚な扉が開いた。
中から現れたのは、質素ながらも気品のある軍服を纏った、初老の男性。
ガルニア帝国の皇帝、フェルディナンド一世だった。
彼はジークフリードと握手を交わした後、真っ直ぐに私の元へと歩み寄ってきた。
「……あなたが、リディア・フォン・アウスバッハ殿か。理を司り、魔法の呪縛から人類を解き放った、真の聖女よ」
皇帝の声は、深く、威厳に満ちていた。
「皇帝陛下、お会いできて光栄です。ですが私は聖女などではありません。ただ、少しだけ世界を注意深く観察しているだけの、一人の科学者です」
「その『注意深さ』こそが、我々に欠けていたものだ」
皇帝は私の目を見て、静かに微笑んだ。
「我が帝国の魔導師たちは、強大な力を誇ることにのみ腐心し、その力の源泉に目を向けようとはしなかった。君の科学は、我々に謙虚さを教えてくれたよ」
皇帝のその言葉に、私は彼が単なる権力者ではなく、高い知性を持つ指導者であることを確信した。
私たちは、街の中心にある広場へと移動した。
そこには、私が指示して急遽設置された、巨大なスクリーンのような装置があった。
「陛下、そしてバルバロッサの皆さんに、新しい科学の魔法をお見せしましょう。情報の距離を、ゼロにする魔法です」
私は、手元のスイッチを操作した。
数秒後、スクリーンに光が走り、一つの映像が映し出された。
それは、数百キロ離れた王都アークライトの、現在の風景だった。
「なっ……!?」
皇帝が、絶句して声を漏らした。
群衆からも、悲鳴に近い驚愕の声が上がった。
「これは、遠見の魔法か? いや、それにしては鮮明すぎる……。王都の風に揺れる花びらまで見えるとは」
「いいえ、魔法ではありません。光学センサーで捉えた光の情報を、電信網を通じて電気信号として送り、ここで再構成しているのです。リアルタイムの映像送信。名付けて『テレビジョン』の原型です」
スクリーンの中には、王都の広場で大きく手を振る、ギュンターさんとアルブレヒトの姿があった。
さらに、エリアーデの病院のスタッフたちが、笑顔でこちらに呼びかけていた。
『バルバロッサの皆さん、こんにちは! 科学の力で、共に歩みましょう!』
スピーカーから流れる、鮮明な声。
距離を超え、瞬時に情報を共有する。
それは、魔法でも一部の天才にしか成し得なかった奇跡が、今、すべての民衆の目の前で、科学的な現実として示された瞬間だった。
「……信じられん。これがあれば、情報の隠蔽も、誤解による紛争も、すべて無意味になる」
皇帝は、震える手でスクリーンに触れようとした。
「その通りです。世界を透明にすること。それこそが、科学が果たすべき平和への責任なのです」
私は皇帝の隣に立ち、力強く告げた。
「陛下。私たちは今日、この場所で、正式に『世界科学同盟』の発足を行いたいと考えています。合衆国、帝国、そして同盟諸国。国境を越え、人類の知恵を結集させるのです」
「……承知した。我がガルニア帝国は、喜んでその旗印の下に集おう。リディア殿。いや、総帥。君の指揮の下で、我々はこの星の未来を書き換えることにしよう」
皇帝は、私の前で深々と頭を下げた。
それをきっかけに、ジークフリード、ゼノ、そして広場を埋め尽くした数万の民衆が、一斉に歓声を上げた。
それは、古い魔法の時代の終焉と、輝かしい科学の時代の幕開けを告げる、魂の咆哮だった。
祝宴は、夜更けまで続いた。
帝国の魔導師と、バルバロッサの若者たちが、火を囲んで技術について熱心に語り合っている。
エリアーデは、帝国の治癒魔導師たちと、ナノマシンの活性化治療についての共同研究の約束を交わしていた。
ギュンターさんの弟子たちは、帝国の最新の合金技術に目を輝かせていた。
異なる文化、異なる力が、科学という共通の皿の上で、見事に溶け合っていた。
私は一人、祝宴の喧騒を離れ、街外れの天文台へと足を運んだ。
そこには、新しく設置したばかりの屈折望遠鏡が、静かに夜空を向いていた。
私は接眼レンズを覗き込み、月を見つめた。
クレーターの凹凸が、驚くほど近く、鮮明に見える。
「……待っててね。すぐに、会いに行くから」
私が小さく呟くと、後ろから足音がした。
「リディア。やはり、ここにいたか」
ジークフリードだった。
彼は、冷たい夜風に当たって少し顔を赤らめていた。
「素晴らしい一日だった。君はまた、世界を一つにしてしまったな」
「一つにしたんじゃないわ。もともと一つだった世界を、みんなに思い出させただけよ。物理の法則は、どこの国に行っても変わらないのだもの」
私は望遠鏡から離れ、ジークフリードに向き直った。
「ジークフリード。あなたはこれから、大統領として、この巨大な同盟を率いていかなければならない。覚悟はできている?」
「君が横にいてくれるなら、どんな重荷も耐えられるよ。君は俺の、いや、この世界の羅針盤だ」
「羅針盤か……。少し、責任が重すぎるわね」
私は苦笑したが、ジークフリードの瞳は真剣だった。
「リディア。同盟が安定したら、最初にお前が言った『宇宙への進出』。あれを、国家の最優先課題に据えるつもりだ。君の夢を、俺たちの共通の目標にする」
「うれしいわ。でもその前に、解決しなきゃいけない数式が、まだ何万行もあるのよ」
私は手帳を取り出し、月を背景に新しい計算式を書き込み始めた。
「ロケットの推進剤、大気圏再突入の熱計算……。やるべきことは山積みだわ」
「……全くだ。君という人は、本当に休むということを知らないな」
ジークフリードは呆れたように笑い、私の肩に自分の外套をかけてくれた。
外套の温かさが、私の心に深く染み渡る。
科学者としての探求心。
そして、それを支えてくれる仲間たちの信頼。
私は、自分が今、最高に幸福な場所にいることを実感していた。
魔法を失い、無能と蔑まれたあの日の絶望は、今では遠い銀河の彼方へと消え去っていた。
私は、理系の知識という翼を手に入れ、誰よりも高く、誰よりも遠くへと飛ぶことができる。
夜空には、数え切れないほどの星が輝いている。
その一つ一つの光が、私たちに解き明かされるのを待っている。
私はペンを走らせ続け、ふと顔を上げた。
東の空が、微かに白み始めていた。
新しい一日の、そして新しい文明の夜明け。
私は、次の一歩を踏み出すための数値を導き出し、満足して頷いた。
「……よし。次は、真空の中での燃焼実験ね。エリアーデに、酸素供給のシステムを相談しなきゃ」
私は弾むような足取りで、天文台の階段を駆け下りた。
広場では、まだ祝宴の残り火が温かく揺れ、未来を語り合う人々の声が途切れることなく続いていた。
王都へと戻る準備を進める中、私は駅のホームで、一人の少女に声をかけられた。
バルバロッサの、貧しい農家の娘だ。
彼女は、汚れた手で、一冊の小さなノートを大切に抱えていた。
「リディア先生! 私、先生の本を読んで、この街の土を調べてみたんです!」
彼女が差し出したノートには、いびつな文字で、土の酸性度や、肥料の配合の記録が細かく記されていた。
「見てください! 先生の言った通りにしたら、お家のトマトが、こんなに赤くなったの!」
少女が差し出した、完熟した真っ赤なトマト。
それは、どんな魔法の宝玉よりも美しく、生命の輝きに満ちていた。
私はそのトマトを一口かじり、その溢れるような甘みに目を細めた。
「……美味しいわ。素晴らしい研究成果ね。これからも、自分の目で見たことを、大切に記録し続けるのよ」
「はい! 私、もっと勉強して、いつか王都の学校に行きます!」
少女の力強い宣言に、私は胸が熱くなった。
教育の連鎖。
それこそが、私がこの世界に残せる、最大の発明だった。
列車がホームに入り、力強い汽笛が鳴り響いた。
ポォォォォォォッ!!
私たちは、次なる目的地へと向かう。
世界中に、科学の種をまく旅。
終わりなき、知への挑戦。
私は列車の窓から、見送りに来た大群衆に向かって、大きく、何度も手を振った。
列車の車輪が、レールを力強く踏みしめ、加速していく。
その振動は、私の心臓の鼓動と重なり、新しい時代の旋律を奏でていた。
*
もし面白かったなら、
⬇︎の(☆☆☆☆☆)を(★★★★★)に変更して、
評価していただけますと幸いです。




