第48話
地下工場での死闘から一夜が明け、私は王宮の自室で深い眠りから目覚めた。
窓から差し込む朝日は、かつてないほど柔らかく、私の全身を温かく包み込んでいた。
ナノマシンが正常化されたことで、大気中の粒子も落ち着き、都の空気は驚くほど澄み切っている。
私はベッドサイドに置かれた水を一口飲んだ。
(……生きてる。本当に、やり遂げたのね)
鏡を見ると、そこには煤と油で汚れ、目は充血しているが、一点の曇りもない強い眼差しを持った私がいた。
公爵令嬢としての気品など、今の私には必要なかった。
私は一人の科学者として、この世界を肯定することができたのだ。
着替えを済ませ、私はジークフリードの容態を確認するために、王宮の医務室へと向かった。
そこではエリアーデが、最新式の医療モニターを熱心にチェックしていた。
「エリアーデ、おはよう。ジークフリードの様子はどうかしら」
「先生! おはようございます」
エリアーデは私の顔を見ると、パッと表情を明るくした。
「殿下なら、もう大丈夫ですわ。昨日受けたダメージは大きかったですが、正常化したナノマシンの活性化プログラムが、驚異的な速さで彼の細胞を修復しています」
ベッドの上で、ジークフリードは上半身を起こして新聞を読んでいた。
「リディアか。朝から心配をかけたな。見てくれ、街の混乱は完全に収まったようだぞ」
彼が掲げた新聞には、『奇跡の光、消滅。聖女リディア、都を救う』という見出しが躍っていた。
「聖女、ね……。私はただ、配線を繋ぎ直しただけなのに」
私が苦笑すると、ジークフリードは真剣な顔をして私の手を取った。
「いいや。お前が示したのは、奇跡よりもずっと確かな『理』だ。民衆は今、魔法という不確かな力ではなく、お前の語る科学にこそ、自分たちの未来を預けようとしている」
「……責任重大ね。でも、やるべきことは決まっているわ」
私は彼に微笑み返し、手元の手帳に書き留めていた次の計画を話し始めた。
地下工場の制御権を手に入れたことで、私たちは莫大なエネルギーとデータを手に入れたのだ。
これをいかに平和的に利用するかが、これからの合衆国の鍵となる。
午後、私はアルブレヒトとギュンターさんを連れて、再び地下工場へと降りていった。
昨日の凄惨な戦いの跡は、自動清掃ドローンによってすでに見違えるほど綺麗に片付けられていた。
工場の白い回廊は、今や希望の光で満ち溢れている。
「……何度来ても、ここは畏れ多いな。神様の腹の中にいるみたいだぜ」
ギュンターさんが、真鍮のパイプを叩きながら感嘆の声を漏らした。
「神様じゃないわ、ギュンターさん。これは、私たちの先祖が未来のために遺してくれた『道具箱』なのよ」
私は中央制御室のコンソールを叩き、全土のインフラ状況を表示させた。
「見て。地下工場が安定したことで、ガルニア帝国や周辺の小国まで電力が供給され始めているわ。これは、もう国境なんて意味を持たなくなるということよ」
「情報の共有、そしてエネルギーの共有……。先生の目指していた『科学同盟』が、図らずも物理的に完成してしまったわけですね」
アルブレヒトが、モニターの光を見つめながら感慨深げに言った。
「ええ。でも、これを正しく管理する組織が必要よ。一方的な支配にならないように、各国から代表者を募って、『世界科学管理評議会』を設立しましょう」
私はさらに、データベースの深層から見つかった、あるプロジェクトのファイルを展開した。
そこには、空を飛ぶ機械ではなく、さらにその先、「宇宙」へと向かうための設計図が描かれていた。
「……星の海。私たちの旅は、まだ始まったばかりなのね」
エリアーデが、横から画面を覗き込んだ。
「先生、それは何ですか? まるで、巨大な槍が空を突き抜けていくような絵ですが」
「これは『ロケット』というものよ。かつて私たちの先祖が乗ってきた船の、新しい形ね。いつか、この世界の子供たちが、空の向こうにある本当の宇宙を見られるようにしたいの」
「宇宙……。そこには、何があるのですか?」
「新しい法則、新しい物質、そして……もしかしたら、他の星に住む仲間たちがいるかもしれない」
私の瞳には、かつて前世で研究室の窓から見ていた夜空の、あの限りない広がりが浮かんでいた。
あの時、私は働きすぎて命を落としたけれど、今、こうして新しい命として、その夢の続きを歩んでいる。
数日後、王都の中央広場では、合衆国の誕生を祝う壮大な式典が執り行われていた。
集まった民衆の数は、もはや数え切れない。
都の入り口には、ヴァイスランドの大砲を鋳潰して作られた、巨大な「知恵の女神像」が建立されていた。
女神の右手には本が、左手には電球が握られている。
私は、ジークフリードに促されて演台の上に立った。
かつては婚約破棄を宣告され、泥まみれで追放された私が、今、一国の、いや、世界の命運を握る人物としてそこにいた。
目の前には、涙を流して私を称える人々、そして、誇らしげに胸を張る私の教え子たちがいた。
「皆さん。今日、私たちは新しい歴史のページをめくりました」
私の声は、スピーカーを通じて、都の隅々まで響き渡った。
「魔法という名の過去を尊重しつつ、私たちは科学という名の未来を選びました。これは、誰か一人の力ではありません。皆さんが学び、考え、行動した結果です」
私は一度言葉を切り、空を飛ぶ飛行船「ヴァイスランド号」を見上げた。
船体からは、七色の煙が放たれ、空に大きな弧を描いている。
「知ることは、力です。そして、その力を誰かのために使うことが、本当の幸福です。これからも、一歩ずつ、理を積み重ねていきましょう!」
広場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
ジークフリードが、私の隣でそっと手を繋いだ。
その手の温かさは、私に確かな現実感を味わせてくれた。
私は、隣に立つエリアーデ、アルブレヒト、そしてギュンターさんの顔を見た。
みんな、最高の笑顔で私を見つめていた。
式典の後、私は王宮の裏庭にある、小さな実験農場を訪れた。
そこには、私が最初に開発した化学肥料を使って、丸々と太ったカブや、色鮮やかな花々が咲き誇っていた。
「……リディア先生!」
一人の小さな少年が、私に駆け寄ってきた。
マルコ、あの発電機を作った少年だ。
「先生! 見てください! 僕、今度は太陽の光を電気に変える板を作ってみたんです!」
彼が掲げたのは、黒い石の板に、細かい銅の網を貼り付けた、不恰好な太陽電池の試作品だった。
まだ発電効率はゼロに等しいだろう。
だが、その瞳に宿る知的好奇心は、どんな高価なダイヤモンドよりも輝いていた。
「素晴らしいわ、マルコ。光の反射を抑えるために、表面を少しザラザラにしてみたらどうかしら? 後で、光学の専門書を貸してあげるわね」
「はい! ありがとうございます!」
少年の背中を見送りながら、私は確信した。
この国は、もう大丈夫だ。
私が教えた科学の種は、次の世代の中で、より強く、より美しく育っていくだろう。
夕暮れ時、私は一人で、都を一望できる高台に登った。
眼下に広がる、輝く街並み。
鉄道が走り、街灯が灯り、人々が安心して眠りにつく場所。
それは、かつて理系女子だった私が、研究室の片隅で密かに夢見ていた理想の世界そのものだった。
ふと、風の中に、微かな魔法の響きを感じた。
それは、暴走するエネルギーではなく、自然と調和した、優しいナノマシンのささやきだった。
「……おじい様。私、頑張ったわよ」
私は、形見の銀貨を空にかざした。
銀貨は、夕陽を受けてオレンジ色に輝き、私の道を明るく照らしていた。
(さて。次は、深海の調査計画を立てなきゃね。それとも、新しいコンピュータの試作から始めようかしら……)
私の頭の中には、すでに千分の一秒先の未来の設計図が描かれ始めていた。
解決すべき謎は、まだ星の数ほどある。
科学者の旅に、終わりはない。
私は弾むような足取りで、自分の研究室へと続く階段を駆け下りた。
王宮の回廊ですれ違う職員たちが、私に笑顔で挨拶をしていく。
「お疲れ様です、リディア先生!」
「明日の物理学の講義、楽しみにしています!」
「ええ、期待していてちょうだい。明日はちょっと、面白い実験を用意しているから」
私は自室に戻ると、真っさらなノートを一冊手に取った。
表紙には、『新世界科学体系 第一巻』と書き込んだ。
万年筆の先が、白い紙の上で踊るように動き始める。
数式。
図形。
そして、人々の暮らしを彩るための、愛の言葉。
その時、窓の外で力強い蒸気機関の音が聞こえてきた。
リディア号が、王都の中央駅を出発したのだ。
どこまでも続く線路。
どこまでも続く空。
そして、どこまでも続く、私たちの知恵。
私はペンを止め、夜空に浮かぶ最初の一番星を眺めた。
あの星の光さえも、いつか私たちは科学の言葉で説明し、そして、そこへ行く手段を見つけ出すだろう。
「……さあ、始めましょう。私たちの、本当の冒険を」
私は再びノートに向き合い、最初の一行を書き始めた。
それは、魔法を失った世界に、真の光を灯すための、聖なる序文だった。
私が書き込む文字の一つ一つが、新しい時代の鼓動となって、この星の隅々まで広がっていく。
科学という名の、美しく、そして残酷なまでに正しい、希望の調べ。
私はその旋律を奏でる、指揮者として、この世界に生きることを誇りに思った。
夜が深まり、研究室のランプの灯りが、私の横顔を静かに照らし続ける。
外では、電信線の微かな振動が、国中の人々の「おやすみ」という声を運んでいた。
私は、心地よい疲労感に身を任せながら、一晩中、未来を描き続けた。
朝になれば、また新しい「なぜ」が、私を呼んでいるはずだから。
「……ところで、アルブレヒト」
私は、横で私の記録を整理していた彼に、不意に問いかけた。
「どうしたのですか、先生。急に真面目な顔をして」
「次回の、月への飛行船計画。あなた、操縦士に立候補しないかしら? 誰よりも正確な反射神経を持つ、あなたにしか任せられないの」
アルブレヒトは、一瞬呆然とした後、苦笑しながら深々と頭を下げた。
「……リディア先生。あなたは本当に、私を休ませてくれないお方だ」
「あら、光栄だわ。それが、最高の信頼の証だもの」
二人の笑い声が、静かな研究室に響き渡った。
窓の外では、新しい時代の風が、静かに、しかし力強く吹き抜けていった。
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