第44話
ヴァイスランドでの一夜は、王都とはまた違う安らぎを私に与えてくれた。
自分が最初に開拓した研究室の、使い古された木の椅子に座っていると、原点に戻ったような気分になる。
昨夜の祝宴の喧騒は収まり、今は早朝の霧が、村のコンクリート造りの建物を優しく包んでいた。
私は、デスクに広げた大きな地図に新しい記号を書き込んでいた。
それは、アークライト科学合衆国全土を網羅する、エネルギーネットワークの構想図だ。
ナノマシンから微弱な電力を吸い上げる「マナ・コレクター」の設置ポイント。
これを各地の主要都市に配置すれば、石炭に頼りすぎない、持続可能なエネルギー供給が可能になる。
「……先生、こんなに早くから。また徹夜をなさったのですか」
ドアを開けて入ってきたのは、アルブレヒトだった。
彼は既に、周囲の警備状況の確認を終えたようで、軍服には朝露が光っていた。
「いいえ、少しだけ仮眠は取ったわ。それより、アルブレヒト。交易都市から新しい情報は入っているかしら」
「はい。電信網を通じて、今朝早くに報告がありました」
アルブレヒトは、手元の記録帳を開いた。
「ガルニア帝国の皇帝が、正式に我が国への親善訪問を希望しているとのことです。昨日の鉄道の成功が、彼らを完全に本気にさせたようですな」
「帝国皇帝自ら、ですか。それは重畳ね」
私は、ペンを置いて立ち上がった。
「外交において、技術力を見せつけるのは最高の抑止力になる。彼らを招待しましょう。ただし、ただの観光で終わらせるつもりはないわ。帝国の豊富な鉱物資源と、私たちの技術を交換する、大規模な通商条約を結ぶわよ」
「承知いたしました。ジークフリード大統領にも、その旨を伝えておきます。彼も、この村の復興状況を見て、非常に感銘を受けていましたから」
アルブレヒトは礼をして退出しようとしたが、ふと思い出したように足を止めた。
「そういえば、先生。村の子供たちが、先生に見てほしいものがあると言って、広場に集まっております。お時間、よろしいでしょうか」
「子供たちが? ええ、もちろんだわ」
私は白衣を羽織り、アルブレヒトと共に広場へと向かった。
そこには、十人ほどの子供たちが、何やら大きな装置を囲んで騒いでいた。
その中心には、私の初期の教え子である少年、マルコがいた。
「リディア先生! おはようございます! 見てください、これ!」
マルコが指差したのは、木材と鉄の廃材を組み合わせて作られた、小さな水車小屋のようなものだった。
だが、その構造は従来の物とは違う。
水車の軸に、ギュンターさんの工房から拾ってきたであろう銅線と磁石が取り付けられていた。
「……これは、発電機ね」
私は、驚きに目を見開いた。
子供たちが、私の授業で教えた原理を応用して、自分たちで電力を作り出そうとしていたのだ。
「はい! 小川の流れを使って、この磁石を回すんです! そうすると、この電球が……ほら!」
マルコがレバーを引くと、水車が回り出し、小さなフィラメントがオレンジ色に輝いた。
それは、ひどく暗く、頼りない光だった。
だが、そこにはどんな高度な魔法よりも尊い、自発的な探求の成果があった。
「……素晴らしいわ、マルコ。回路の絶縁も、自分たちで工夫したのね」
「はい! エリアーデ先生から教わった、松脂の絶縁法を試してみました!」
子供たちは、誇らしげに胸を張った。
私はその小さな電球の光を見つめ、胸が熱くなるのを感じた。
科学は、私の手から離れ、もうこの世代の中にしっかりと根付いている。
私がいつかいなくなっても、彼らは自分たちの力で光を灯し続けるだろう。
「マルコ、この装置の効率をさらに上げるための本を、後で貸してあげるわ。次は、村全体の街灯を賄えるくらい大きくしてみましょうか」
「はい! ありがとうございます、先生!」
子供たちの歓声を背に、私は再び歩き出した。
教育こそが、最強の防衛であり、最大の投資だ。
その信念を、私はさらに強くした。
午後からは、ギュンターさんの工房で、帝国に提供するための「普及型蒸気機関」の最終チェックを行った。
これは、私たちの最新型よりもわざと出力を抑え、構造を単純にしたものだ。
メンテナンスを容易にし、彼らの技術レベルでも扱えるように配慮してある。
「どうだ、嬢ちゃん。これなら、帝国の無骨な鍛冶屋たちでも、修理しながら使えるはずだぜ」
「ええ、完璧よ。ギュンターさん。技術は、独占するのではなく、依存させるのが一番の外交なの。彼らが私たちの機械なしでは生活できなくなった時、本当の平和が訪れるわ」
「へへっ。相変わらず、嬢ちゃんの考えはえげつないが合理的だ。俺は、その考えが好きだぜ」
ギュンターさんは豪快に笑い、ピストンに油を差し込んだ。
夕暮れ時、私はジークフリードと共に、村の高台にある祖父の墓を訪れた。
私が追放されるまで、唯一の味方でいてくれた優しい祖父。
私は墓前に花を供え、静かに手を合わせた。
「……おじい様。見ていてください。あなたの愛したこのヴァイスランドは、今、世界の中心になろうとしています」
「……リディアの祖父君も、さぞ驚いているだろうな」
ジークフリードが、隣で静かに言った。
「俺も、かつては君を無能だと見捨てた一人だ。その罪を一生かけて償わなければならないと思っている」
「もう、その話はいいわよ、ジークフリード」
私は立ち上がり、都の方向に伸びる鉄道の線路を見つめた。
「あなたは今、立派にこの国を率いている。過去に囚われるよりも、明日をどう作るか。それが、王としての、大統領としての責任よ」
「……そうだな。君の言う通りだ」
彼は、夕陽に照らされた線路を眺め、深く頷いた。
「明日、帝国の大使が再びここを訪れる。いよいよ、世界を変えるための大契約が始まるわけだ」
「ええ。準備は万端よ。私たちは、科学という新しい法典を彼らに突きつけるの。魔法の優劣ではなく、生活の豊かさで競い合う世界。それが、私たちの作る新しい秩序よ」
私は、懐から通信デバイスを取り出した。
王都のエリアーデから、定期報告が入っていた。
『病院の新しい消毒設備、稼働。感染症の発生率、前月比三十パーセント低下。成功です』
「……成功、ね」
私は、その短いメッセージに微笑んだ。
科学は、少しずつ、確実に世界を救っている。
その歩みは、魔法のような一瞬の奇跡ではないが、誰にでも、どこにでも、平等に届く希望だった。
翌朝。
ヴァイスランドの駅には、色鮮やかな旗が飾られ、帝国の大使一行を迎え入れるための準備が整っていた。
定刻通り、王都からの特別列車が、白い蒸気を吐きながらホームに滑り込んできた。
中から降りてきたバルトロメウス大使は、以前よりもさらに謙虚な、そして熱烈な期待に満ちた表情をしていた。
「リディア先生、ジークフリード大統領。再びお会いできて光栄です」
大使は深く礼をし、私たちの後ろに広がる村の景色に目を見張った。
「……これが、先生の故郷。科学の聖地、ヴァイスランドですか。王都も素晴らしかったが、ここには、より純粋な創造のエネルギーを感じます」
「ようこそ、大使。ここが、私たちのすべての始まりの場所です」
私は彼を、村の中心にある「科学展示館」へと案内した。
そこには、私たちがこれまでに開発したすべての技術のプロトタイプが並んでいる。
石鹸、肥料、ガラス、そして、電信機。
一つ一つの説明を聞くたびに、大使は感嘆の声を漏らした。
「……これらすべてが、マナを消費せずに、ただ自然の理を利用しているだけだというのか。我々の魔導師団が、いかに資源を無駄に使い、狭い世界に閉じこもっていたかを痛感させられます」
「大使。自覚こそが、進化の第一歩ですわ」
私は、彼を展示館の奥にある、巨大な「世界地図」の前に立たせた。
そこには、これから敷設される予定の、国際電信網と国際鉄道網が、赤い線で描かれていた。
「私たちは、このネットワークを世界中に広げたいと考えています。情報の格差を無くし、資源を公平に分かち合う。それが、私たちの目指す『科学同盟』の理想です」
「科学同盟……。素晴らしい。我がガルニア帝国も、喜んでその一員に加えさせていただきたい」
大使は、その場で握手を求めてきた。
私は彼の厚い手を、しっかりと握り返した。
アークライトとガルニア。
長年の宿敵同士が、今、科学という架け橋の上で手を取り合った。
契約の調印式は、村の広場に集まった民衆の前で行われた。
二つの国の国旗が、新しい時代の風に揺れる。
ジークフリードが、力強い声で共同声明を読み上げた。
「私たちは、魔法による対立を捨て、科学による協調を選ぶ! 互いの知識を共有し、すべての民の生活を向上させることを、ここに誓う!」
民衆の歓声が、ヴァイスランドの空に響き渡った。
それは、一つの国の勝利ではなく、人類という種としての、大きな進化の凱歌だった。
私はその歓声の中で、ふと空を見上げた。
そこには、訓練飛行中のヴァイスランド号が、悠然と浮かんでいた。
「……さて。次は、海の向こうの国々へ、電信線を引く計画を立てなきゃね」
私が隣のエリアーデに囁くと、彼女は呆れたように、しかし誇らしげに笑った。
「先生。まずは今夜の祝宴を楽しみましょう。先生は、少し働きすぎですわ」
「あら、そうかしら。でも、新しいアイデアが止まらないのよ」
私は、自分たちが作り上げたこの景色を、目に焼き付けた。
鉄筋コンクリートの建物に、電気の光が灯る。
鉄道が走り、空には飛行船が浮かぶ。
そして、人々は魔法という奇跡に怯えることなく、自らの知恵を信じて生きている。
これこそが、私が夢見た、理系の科学者の理想郷だった。
祝宴の夜。
村は、これまでにないほど華やかな光と音に包まれた。
帝国の使節団と、ヴァイスランドの村人たちが、酒を酌み交わし、技術について、あるいは人生について語り合っている。
身分や国境の壁は、科学という共通の話題の前では、簡単に消え去ってしまう。
私は一人、村の広場にある噴水のそばに立っていた。
この噴水も、電動ポンプによって水を循環させている、私の自信作の一つだ。
水飛沫が、街灯の光を反射して、きらきらと輝いている。
「……リディア」
声をかけてきたのは、ジークフリードだった。
「お疲れ様。素晴らしい一日だったな。君の功績は、これで永遠に歴史に刻まれるだろう」
「歴史なんて、どうでもいいわ。それより、明日の予定を考えないと」
私は、手帳を取り出そうとしたが、彼に手を優しく制された。
「今夜くらいは、仕事のことは忘れろ。君が、一人の女の子として楽しんでいる姿を見たいんだ」
「一人の女の子、ね……。私、そんなふうに見えるのかしら」
私は少し戸惑い、夜風に吹かれる噴水の水を眺めた。
科学者として、合理的に世界を捉えることには慣れているけれど。
自分の感情という不確かな要素を扱うのは、いまだに苦手だった。
ジークフリードは、私のその戸惑いを見透かしたように微笑んだ。
「ああ。君は、世界で一番聡明で、そして、誰よりも一生懸命な、素敵な女性だよ」
彼のまっすぐな言葉に、私は頬が熱くなるのを感じた。
科学では説明できない、この胸の高鳴り。
それもまた、この世界の理の一つなのかもしれない。
私は小さく微笑み、彼の隣に並んで、賑やかな広場の様子を眺めた。
「……ねえ、ジークフリード。いつか、この鉄道が世界の果てまで届いたら、二人で一緒に旅をしましょう」
「ああ。どこまでも付き合うよ。君の見せる新しい景色を、俺は一番近くで見ていたいからな」
私たちは、約束を交わした。
それは、科学の契約よりも、もっと強く、もっと確かな、心と心の約束だった。
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