「元婚約者殿。あなた様の全てを奪わせていただきますがよろしいか?」
「レオナ・エスカルト! 今日ここで、君との婚約を破棄させてもらう! そして僕はここにいるアイリと結婚する!」
豪華絢爛。
シャンデリアの輝きに負けるとも劣らない、着飾った人々が集まる場所。
王室主催のパーティー会場で、そう声高らかに宣言したのは、ここラルク王国の皇太子、ガイ・ラルク。
レオナ・エスカルト伯爵令嬢の婚約者だ。
いや、婚約者だった。
今、この宣言をされるまでは……。
「……王太子殿下。本気ですか?」
「本気だ! 僕はアイリに会って、本当の愛を知ったんだ……!」
「王太子殿下……!」
涙に濡れる大きな瞳を瞬かせてガイに抱きつくのは、アイリと呼ばれた少女だ。
確か男爵令嬢だった気がする。
アイリはなにやら瞳をうるうるとさせていたが、レオナは興味ないと彼女から視線を逸らす。
「殿下。殿下から婚約破棄されれば、私はこの国に居場所はないでしょう。王太子に婚約破棄されたなんて、誰からも相手にされないからです。そうなれば両親からも勘当されます。……それでも、婚約破棄なさいますか?」
レオナの言葉に罪悪感でも感じたのか、ガイの顔が歪む。
「な、なんだ。今さら僕に許しを請うたって遅いぞ! 今日、この場で婚約を破棄する!」
「………………そうですか」
顔を伏せるレオナ。
そんな彼女を見て鼻を鳴らしたガイ。
彼の心の中ではきっと、レオナを馬鹿にする言葉を述べていることだろう。
それはそれで別にいい。
問題はそこではないのだから。
「王太子殿下。覚悟はよろしいですか?」
「覚悟? 覚悟するのはお前だろう!」
どうやら伝わってはいないらしい。
まあそれならそれでいいかと、レオナはその場で美しいカーテシーを披露した。
「婚約破棄、確かに承りました」
「――そ、そうか……」
駄々を捏ねるとでも思っていたのか、ほっとしたように息をついたガイ。
そんな彼に向かって、レオナは優しい微笑みを見せた。
「では、元婚約者殿。あなた様の全てを奪わせていただきますが――よろしいか?」
「――…………は? お前、なにを言って……」
「あなた様は私の全てを奪ったのです。あなた様もどうぞ、奪われる覚悟をしてお過ごしください」
レオナの優しい微笑みとは真逆のことを言われ、ガイはピタリと動きを止めた。
しかしレオナは微笑みを止めることはしない。
そのままちらりとアイリを見ると、にこやかに微笑みながら軽くウインクを飛ばした。
全てを奪うと言うことは、もちろんその中には彼女も入っている。
「それでは元婚約者殿。……どうぞ震えてお待ちください」
レオナはそれだけ告げると、会場を颯爽と後にした。
ここはラルク王国にある学園だ。
選りすぐりの優秀な紳士淑女を集めた学園は、人々の羨望の眼差しを受け王都に建っている。
そんな学園のとある一室にて、レオナは一人書類にサインをしていた。
生徒会室と書かれたプレートを掲げたその部屋は、限られた人しか入れない場所となっている。
そんなところに一人、扉を勢いよく開け入ってきた。
「レオナ! 婚約破棄したというのは本当か!?」
「アキト。もう少し静かに入ってこれないの?」
「話を逸らすな。どうなんだ?」
ズカズカと入ってきたアキトは、そのまま生徒会室のソファに勢いよく座る。
「生徒会副会長として、もう少し生徒の手本になる行動をとってはどう?」
「なら生徒会会長として、生徒の質問にはしっかり答えてくれ」
やれやれとレオナは大袈裟なほど大きなため息をついた。
「破棄したわ。……どう? 満足?」
「――真実なんだな?」
「ええ」
「――ぃよっしっ!」
アキトは大袈裟なほどガッツポーズをとると、そのままの勢いでレオナの元までやってくる。
人が婚約破棄という悲惨な出来事があったというのに、喜ぶなんて何事だと冷めた目を向けた。
「あなた、そこは普通憐れむところでしょう?」
「憐れんでるよ。お前を捨てたあのバカな男をな」
まあそういうことならいいかと、レオナは書類をめくる手を止めた。
ちょうどいい。
アキトに話したいことがあったのだ。
レオナは両手の指を組むと、その上に顎を乗せ不敵に微笑む。
「アキト。私と結婚しましょう」
「――………………………………はぁ?」
たっぷり十秒は間が空いたと思う。
アキトはその美しい顔を盛大に歪めると、すぐに立ち上がる。
スタスタとレオナの元へとやってくると、至近距離で指を指してきた。
「俺はお前を愛してる。だからこそ、お前と結婚できるなら俺はなんだってやる」
「それなら」
「だがな。俺はお前を愛しているからこそ、愛のない結婚はしたくない。――お前、俺を愛しているのか?」
レオナはアキトの指先を見つめた。
この幼なじみは見た目の割に少しメルヘンなところがあるのだ。
愛だ恋だと騒ぐところは、そこらへんの淑女とそう変わらない。
だがそこが可愛いのだと、レオナは自らに向けられたその指先に軽く唇を押し当てた。
「私が愛していない人に結婚を申し出ると思う?」
「――確かに。ならいい」
どうやら納得したようだ。
アキトはソファへと戻ると、先ほどと同じように腰を下ろした。
「それで? お前のことだ。あの男をそのまま野放しにするわけじゃないだろう?」
「もちろん。殿下の全てを奪うつもりでいるわ。手助けしてくれる?」
「なにをすればいい?」
さすがは幼なじみ。
話が早い。
「とりあえずまずは殿下から婚約者を奪うつもりよ」
「俺に色仕掛けでもしろと?」
「あら。そんなことをするつもりなら私があなたを殺すけれどよろしい?」
「――そうか。ならやめておこう。嫉妬は嬉しいしお前に殺されるなら本望だが、傷つけることだけはしたくない」
かっこいいことを言う。
素敵な婚約者ができたなと口端を上げつつも、レオナは話を進めた。
「殿下のことよ。きっとアイリ嬢をこの学園に入れるはず」
自分が通う学園に、一緒に通おうとアイリを入学させるだろう。
そこは王族。
それくらいの力はある。
それにこの学園を卒業したともなれば、アイリの名前にも箔がつく。
「は! 自分は生徒会にも入れないのにか? 愚かなことだ」
「全生徒からたった五人しかなれないのだもの。仕方ないわ」
「俺とお前はなっている」
「私たちは優秀だもの」
知力もさることながら、この学園で生徒会をするにはなにかに秀でていないとダメだ。
生徒から羨望の眼差しを向けられるような人間でないと、生徒会に入ることはできない。
レオナは学年一位の成績ながら、剣術を得意としている。
王国主催の大会では毎回圧勝しており、ついたあだ名が戦乙女だ。
ちなみにアキトも成績はレオナに次ぐ二位であり、馬術を最も得意としている。
馬の上での戦いになれば、彼に敵うものはいない。
「それで? 徹底的にイジメぬくのか? その女が帰りたいと泣き叫ぶまで」
「あなた……私を極悪非道な冷徹女だとでも思っていて?」
「だとしても愛している」
「聞いてないわ」
はあ、と大きくため息をついたレオナは、桜貝のように美しい爪でとんとんと机を叩いた。
「そんなことはしないわよ。ただ王太子妃になるためのさまざまを教えてあげるだけだわ」
「お前……」
アキトはなぜか心底嫌そうな顔をした。
「そうやってまた信者を増やすつもりか? もうラブレターをもらうのも飽きただろ?」
「あら、うれしいものよ?」
「そう言うなら俺にくれ」
「あなたにはちゃんと言葉にするわ」
「……ならいい」
納得したらしいアキトに、そうだと話を変える。
彼を待っていた最大の理由を伝えなくては。
「アキト、あなたにお願いがあるの」
「今の俺は最高に気分がいい。よろこんで聞こう」
さきに結婚の話をしておいてよかった。
レオナはにっこりと微笑む。
「あなたの地位を使わせてほしいの」
「……まあ、話を聞こう」
「王国唯一の公爵家の次期当主。現国王陛下の弟君を父親に持つあなたは、一応王位継承権を持っているでしょう?」
元婚約者であるガイとアキトは従兄弟だ。
ゆえに一応、アキトは王位継承権をもっている。
それを利用させて欲しいのだ。
ガイの全てを奪うために。
「……言っておくが、国王になんてなる気はないぞ?」
「知ってるわ。私もあなたになれなんて言わない。やっと解放されたのに、また王妃教育なんてやりたくないもの」
「ならなんだ?」
アキトの探るような視線に、レオナは緩やかに口角を上げた。
「あなたが王位継承権を破棄し、代わりに殿下の弟君を王太子に推すの。国王陛下はあなたをすごく気に入っているでしょう? そんなあなたが継承権を捨ててまで推すなんて、きっと陛下は熟考してくださるはずだわ」
アキトはふむ、と顎に手を当てた。
自分がそうした時のことを考えているのか、形のいい眉を上げる。
「それで陛下はあの馬鹿から王太子の座を取り上げるか?」
「取り上げたら最高。取り上げなくても恐怖は感じられるでしょう? 本当に全てを奪われるかもしれない……と」
恐怖を与えられればそれでいい。
まあ奪えたら御の字だが、そこは国王の采配次第だ。
「なるほどな。俺も大義名分でいらない権利を破棄できる。――いいだろう。やってやる」
「やっぱり、あなた最高だわ」
「――見て! レオナ様とアキト様よ!」
「本当だわ! ……なんて素敵なのかしら……!」
学生たちの羨望の眼差しを受けながら、レオナは学園内を進んで行く。
生徒会副会長のアキトと共に。
中庭で楽しげに話す生徒たちは、レオナたちを視界に入れると皆立ち上がり頭を下げる。
それに手を振って答えれば、途端に黄色い悲鳴が上がった。
これがレオナの日常だ。
学園では当たり前の景色を、その日は珍しく怪訝そうに見ている人たちがいた。
彼らはレオナの元までやってくると、その表情のまま言い放つ。
「レオナ! 今日からアイリがこの学園に入学することになった。彼女をいじめたり蔑んだりするな!」
そうビシッと指差しまで付けて告げてきたのは、もちろん元婚約者のガイだ。
彼の隣にはアイリもおり、まるで肉食動物を前に怯える草食動物のように震えている。
失礼なことだ。
レオナはアイリをいじめても蔑んでもいないのに。
「……殿下」
「なんだ!?」
「あまりにも失礼すぎます。私がいつアイリさんをいじめたと?」
「いじめるかもしれないと釘を刺しにきたんだ!」
「やってもいないことでそのように怒鳴られるなんて……。あまりにも失礼すぎて思わず黙ってしまいました」
なるべく声を大きくしてそう伝えれば、周りの生徒たちもざわつき始める。
だがそのことに気づいていないのか、ガイはまたしても口調を強めた。
「君はアイリに嫉妬しているだろう!? だから――」
「しておりません」
「………………え?」
「微塵もしておりません」
「…………う、嘘だ!」
なぜガイが慌てるのだろうか?
真実を告げているだけなのに。
レオナが呆れたようにため息をつけば、それを聞いたガイがさっと顔を赤らめた。
「僕を奪われたと、アイリに嫉妬して――」
「しておりません。一ミリもです。むしろ晴々とした気分です」
レオナはそう言うと、まるで石像の如く固まっているガイを無視してアイリへと近づいた。
彼女の手をとると、そっとその耳元で囁く。
「王妃教育で大変になったら私の元へお越しなさい。いろいろ教えてあげることができるでしょうから」
「…………え? でも、私――」
なにかを言おうとしたアイリの頰に優しく口付けを落とすと、レオナはすぐに離れた。
少し離れたところで悲鳴のような生徒たちの声が上がる。
挨拶のつもりでやったことだが、キスされたアイリの頰が赤く染まった。
それを見た瞬間、レオナは自分の計画が必ずうまくいくと確信できた。
「無理をしてはダメよ。つらくなったら……約束ね?」
唇にそっと人差し指を押し当てて、レオナはそのままアイリの横を通り過ぎる。
アイリはまるで視線を奪われたかのように、レオナを追って振り返った。
「…………レオナ様」
そんなアイリの声が聞こえた気がしたが、もちろん振り向くことはしない。
そのまましばらく歩き、彼らからこちらの姿が見えなくなったタイミングで、アキトが口を開いた。
「お前本当にやめろそれ。誰彼構わずたぶらかすな。敵が増える」
「よくわからないわ」
「――このっ……!」
「そんなに不安なら、あなたが私の心を掴んで離さなければいいのよ。そうすればどこにも行かないわ」
そう言って振り返れば、アキトの瞳が大きく見開かれた。
だがすぐに悔しそうな顔をしたかと思うと、レオナの手をとり先を歩き出す。
「それができたら苦労しないんだがな!?」
「もうできているから自信を持ちなさい」
「………………一生持てない気がする」
剣を持っている瞬間だけは、全てのしがらみから解放されている気がする。
だからこの瞬間が好きなのだ。
構えて息を殺し、相手の急所を穿つことだけを考えるこの時間が。
審判の合図を待つ。
周りの雑音なんて聞こえない。
この耳が聞き取るのは、己の鼓動と合図だけ。
――ピッ!
たった一音。
その音が聞こえたと同時に足を一歩前に出す。
それと共に剣を相手の胸へ一直線に突き刺した。
「それまで!」
審判の声を聞いて、レオナは静かに剣を下ろした。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
相手に敬意を払い頭を下げた瞬間、わぁっと大きな歓声が会場内に響いた。
「さすが戦乙女! レオナ様ー! 素敵ですー!」
「アキト様ー! かっこいいですー! 次もがんばってくださーい!」
頭の防具を外せば、きらりと汗が光った。
たったそれだけなのに拍手喝采をする生徒たちが可愛らしくて、レオナは軽くウインクを飛ばす。
するとまるで骨抜きになったかのように、数名の生徒が膝を折った。
「やめろ。死人を出す気か?」
「あなたもやってみたら? ファンの子たちの悲鳴が聞けるわよ?」
「俺がそんなことをするのはお前だけだ」
「…………されたことないけれど」
ガイはそれだけ言うとさっさと会場から出ていく。
打倒レオナを目指している彼が負けるのは何回目だろうか?
そのたびにああやって悔しそうにして去る姿が可愛らしくて、ついつい本気を出してしまうのだ。
まあ馬術だと立場が逆になるため、レオナがああして去っていく側なのだが。
「…………レオナ様」
「あら、アイリ嬢。どうしたの?」
そんなことを思っていると、レオナの前にアイリが現れた。
彼女はひどく困惑した顔でこちらを見てくる。
「あの……私……」
「あなた、レオナ様の前によく顔を見せられたわね!」
アイリがなにかを言おうとした時だ。
先ほどのレオナのウインクで腰を抜かしていた生徒が立ち上がり、アイリに向かって言い放った。
するとそれに便乗するかのように、周りの生徒たちもそうだそうだと声を上げる。
「レオナ様を傷つけておいて、何様のつもりだ!」
「そうよ! 今すぐ学園から去りなさい!」
声はどんどん大きく、アイリを傷つける言葉が投げつけられる。
それにびくりと肩を震わせたアイリが、俯いて去ろうとした時だ。
レオナは強く地面を蹴った。
「静まりなさい! あなたたちの私を思っての行動、とても嬉しいわ。――だからこそ、あなたたちが人を傷つけるところなんて見たくないわ」
「――! レオナ様……! はい……。はいっ! 私たち間違っていました!」
「レオナ様の期待を裏切ることなんて二度としません!」
「みんな……。あなたたちのような素晴らしい生徒と学べて、私はしあわせものね」
またしても黄色い悲鳴をあげながら去っていった生徒たち。
彼らを見送ったあと、レオナはアイリへと向き直った。
「ごめんなさいね。嫌な思いをさせたでしょう?」
「……いえ」
「さて、話しを聞きましょうか?」
アイリは押し黙ると、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……人気者なんですね」
「みんなよくしてくれているわ」
「……それも、王太子の婚約者だから、ですよね?」
王太子の婚約者なのは関係ないと思う。
そうでなければ今でもこんなふうに、慕ってはくれていないはずだ。
あとその王太子がどちらかといえば周りから嫌われているのだが、入学したばかりのアイリは知らなくても不思議ではない。
「……羨ましい。そうやって全部持ってる、あなたが」
「全部持ってる?」
「そうじゃないですか! 伯爵令嬢で、王太子の婚約者で、学園ではみんなから慕われて……! 私のように男爵なんて地位じゃ……絶対に無理だわ」
ふむ、とレオナは顎に手を当てた。
どうやらアイリは大きな見当違いをしているようだ。
「どうせ生まれで勝てないのなら……卑怯なことだってやるしかないじゃない…………!」
アイリはまるで悲鳴のような声で、悲痛な叫びを上げた。
「そうかしら?」
それにレオナは簡単に答えてみせる。
「私はそうは思わないわ。生まれなんてどうでもいいもの」
「……そんなの、持ってるあなただから言えることなのよ!」
「生まれも生き方もどうでもいいの。あなたの言うとおり、生まれは人に変えられるものじゃない。……私だって公爵家に生まれていたら、もっと簡単に王太子妃になっていたと思うわ」
「そ、れは……」
レオナはちょうどいいとアイリを手招きしながら、更衣室へと向かった。
淑女で剣を握る人はほとんどいない。
ゆえに女性用の更衣室はレオナの貸切状態だ。
防護服を脱ぎつつ、汗をタオルで拭う。
「失礼。汗をかいたままでは風邪をひいてしまうので」
「はい……」
「それで話の続きだけれど、私は生まれも生き方もしょうじき興味はないの。だって最後に笑って死ねる人が一番しあわせだと思うから」
「――」
制服を着つつも、レオナは話を続ける。
ポカンとしているアイリに向かって、不敵に微笑んだ。
「だから私は常に笑顔でいるわ。いついかなる時に死んでもいいようにね。……あなたもそうしていなさい。その笑顔で殿下の心を射止めたのだから、自信を持って」
そのおかげでレオナは危うく全てを失いかけたのだ。
彼女のやり方には拍手すら送りたいほどである。
なのになぜ彼女はこんなに卑屈なのだろうか?
だから自信を持つよう伝えたのだが、言われたアイリは口を開いたままだ。
「……どうしてそんなに自信を持てるんですか?」
「どうして? ……そうね」
レオナは束の間考えたが、答えはすぐに出た。
自信を持てる理由なんて、たった一つしかない。
「私より私を愛してくれる人がいるから、かしら。その人が愛する私に恥じないようにしていたら、勝手に自信がついたわね」
彼の愛はぶれないのだ。
まっすぐただ愛してくれる存在がいると、その人に失望されたくないと思うようになる。
だからどんな苦労も乗り越えられるのだ。
努力が苦痛ではなく、愛されるための動機になる。
そして努力した自分は、なによりも尊いものだと思えた。
「愛……? それは殿下から……? ――っ、あ」
そこまで口にして、己の失態に気付いたのだろう。
アイリが慌てて己の口を塞いだ。
「そうね。殿下からのなら、今あなたとこんなふうにお話ししてないでしょうね」
ガイからレオナへ愛があれば、こんなことにはなっていない。
だから違うと首を振り、レオナは制服のリボンをきちんと結んだ。
「殿下はあなたを選んだのよ。ただの男爵令嬢のあなたを。……自信を持って」
「…………選ばれた、のでしょうか……?」
「そうでしょう? 殿下はあなたを婚約者に――」
「そうですけど! ……殿下から愛情を感じたことなんて……」
どういうことだろうか?
なぜアイリが不安そうな顔をするのかわからない。
「どういうこと? 殿下がおっしゃっていたじゃない。本当の愛を知ったとかなんとか」
「そうなんですけど……」
煮え切らないようすのアイリは、たぶんこれ以上口にするつもりはないのだろう。
ならわざわざ粘る必要はない。
あくまでもレオナの目的は、ガイから全てを奪うことなのだから。
「なら私があなたをあなた以上に愛してあげます。だから自信を持ちなさい」
「――なっ!? あ、愛してって……!?」
アイリの顔がカッと赤く染まる。
明らかに狼狽えている様子だが、その程度のことで責めの手を休めることはしない。
レオナはアイリの頰に優しく触れる。
「そのかわり、あなたも私のことを私以上に愛しなさい。それが条件よ」
「――わ、わたし……っ! し、失礼します!」
アイリはあわあわと慌て出すと、答えることなくその場を後にした。
あの慌てよう。
そして頰の赤面具合。
レオナはそれらを思い出して不敵に微笑む。
どうやら作戦はうまくいきそうだ。
「国王陛下から王宮に来るようにと手紙が届いた。……一緒にくるか?」
例の王位継承権のことらしい。
アキトからのお誘いをもちろん快諾したレオナは、二人で王宮に向かうこととなった。
とはいえレオナは招かれざる客だ。
ゆえに王宮でアキトが国王と話終わるのを待っていたわけだが、来賓室へと通されたレオナの元にガイがやってきた。
彼はなにやら怒りに顔を染めている。
「どういうつもりだ!?」
「王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「――っ! …………弟を王太子にするよう、父上に進言したらしいな」
もう耳に入ったようだ。
だから最初から真っ赤な顔をしていたのかと、レオナは穏やかに微笑む。
「そうです。それがどうかなさいましたか?」
「どうかって――!」
「事前に忠告いたしました。――全てを奪う、と」
その時のことでも思い出したのか、ガイの顔がさっと青ざめる。
まさかあれだけ言ったのに、嘘だと思われていたのだろうか?
ならば改めてと、レオナはガイに手を差し出した。
「私はあなたの全てを奪います。地位も名誉も愛するものも、全て」
「――君はっ……!」
「おっと。それ以上近づくなよ。――いとこ殿」
ガイが一歩前に出た時だ。
ガイの後ろから王との謁見が終わったらしい、アキトがやってきた。
「――アキト……。やはり君が裏で手を引いていたな」
「なんの話だ? これはレオナが企んだことで、俺はお願いされたから手助けしてるにすぎない」
全くもってそのとおりだが、ガイは納得できなかったようだ。
怒りの矛先をアキトへと変えた。
「君は昔からそうだ! いつも僕の邪魔をして……!」
「あれこれ文句を言ってていいのか? 国王陛下に懇願しに行くんだろう? じゃなきゃ本当に王太子じゃなくなるぞ?」
「――っ!」
顔を青ざめさせたガイは、早々に国王の元へ向かうことにしたらしい。
そのまま見送ろうかとも思ったが、どうやらもう一度きちんと宣言しておいた方がよさそうだと判断した。
なのでレオナは遠ざかるガイの背中に向かって告げる。
「どうぞお気をつけて。……後悔しても遅いのですから」
「――っ!」
鼻にしっかりと皺を寄せたガイは、大きな足音とともに出ていった。
このまま国王の元へ向かうようだ。
うまく王太子の座に縋りつければいいけれど、とレオナは紅茶を飲みながらアキトへと視線を向ける。
「それで? どうだったの?」
「半々だな。国王もあの婚約破棄の件を気にしておられた。馬鹿だとは思ってるが我が子可愛さがあるんだろう」
「そんな愛情で国の長が決まるなんて厄介ね」
それに愛情なら弟のほうにもあるだろうと考えて、いや、と口を閉じた。
弟の方も愛しているからこそ悩んでいるのだ。
愛する息子同士で血を血で洗う戦いを繰り広げさせたくなくて。
「弟君が王太子になったら、元婚約者殿は争うかしら?」
「さあな。そこまでの気概があるような男じゃないと思うが……。人間土壇場になったらなにしでかすかわかったものじゃないだろう?」
確かにその通りだ。
あのガイも全てを失うとなれば、力技でやってくるかもしれない。
レオナはその時を想像し、一人静かに微笑む。
「がんばって欲しいわね。――できれば、だけれど……」
レオナのその呟きに、アキトは軽く肩をすくめる。
「怖い女」
「嫌いかしら?」
「まさか。最高だろ」
学園での生活はとても満足いくものとなっている。
今日も今日とて美味しい学食を堪能しつつ、同じく食事をとっているアキトとたわいない会話をしていた。
「顔合わせはいつがいい?」
「……必要かしら? 子どものころからの仲よ? あなたのお父様もお母様もよく知ってるわ」
「それでもだろ。ちゃんとやったほうが、周りからの心情もいい」
確かに言われてみればそうだ。
特にレオナは王太子に婚約破棄された身。
きちんとやったほうがアキトのためにもなるだろう。
厄介な女を哀れに思って結婚した男。
そんなふうに思われるのは彼にとっても不本意だろう。
なら徹底的に、最高の結婚をしなくては。
お互いが想い合ってのことなのだと知らしめなくてはならない。
「そうね。顔合わせは大切よね」
「急に乗り気だな。まあそういうことだから、日取りを――」
なんてアキトが言おうとした時だ。
二人の元にアイリを連れたガイがやってきた。
彼はなぜかレオナとアキトがいる四人がけのテーブルに、わざわざ座ってきたのだ。
「…………ほかに席は空いてますよ?」
「席がないから座ったわけじゃない!」
ガイがテーブルを勢いよく叩くと、置いていたレオナとアキトの食事が少しだけ浮いた。
スープもこぼれたのだが、ガイは気づかない。
迷惑だなと顔に出しつつテーブルを拭けば、慌てたアイリが手を出してきた。
きっと自分が拭こうと思ったのだろう。
だがそれを手で制すると、優しく微笑みを返した。
「なにかご用ですか?」
レオナからの問いに、ガイは得意げに鼻を鳴らしニヤリと笑った。
「父上が約束してくださった! 僕を王太子のままにするとな!」
「あらそれは残念」
「なんだ。俺の王位継承権も安いものだな」
そう言って食事を続けようとしたが、残念ながらまたしてもガイがテーブルを叩きスープがこぼれた。
それをまたしてもアイリが拭こうとするのを、彼女の手を優しく握ることで止める。
とたんにアイリの顔が赤らみ、あわあわと慌て出す。
それに優しく微笑みを返していると、ガイがアキトに向かって指を刺した。
「悔しいんだろう!? 悔しいと言え! 君たちの目論見である、僕の地位が奪えなかったんだからな!」
胸を張り大声で笑うガイ。
そんな彼には、やはり国王としての素質はないのだろう。
なぜなら今この状況で、声高らかに笑っているのだから。
彼は気づいていないのだ。
周りの人からの視線を――。
「元婚約者殿。あなたの地位は王太子だけなのでしょうか?」
「――なにが言いたい?」
「周りをご覧ください」
そう言われてガイが周りを見れば、生徒たちから冷めた目を向けられていることに気づいただろう。
憩いの時間である昼食時に、これだけ騒ぎ立てられれば嫌でも人の視界に入る。
バンバンとテーブルを叩くのも不愉快だろう。
それになにより……。
「レオナ様にあんなふうに絡んで……。失礼だ」
「自分から婚約破棄したのにどうして周りをうろちょろするのかしら?」
「アキトさんにもああやって絡んで……。きっと嫉妬してるんたぜ、あれ」
「アキトさんに? なに一つ敵わないのに、アホらし。出てってくれねぇかな?」
「……ぼ、僕は……!」
この学園は確かに由緒正しい人たちが通う場所だ。
だがそれと同時に実力主義でもある。
そうでなければ王太子であるガイこそ、生徒会長になっていたはずだ。
だがその座にはレオナがなっている。
女で、伯爵令嬢のレオナが、だ。
それはつまり、この学園では実力こそ全てということだ。
「元婚約者殿。この学園での地位をなくすのは、あなたにとっては死活問題では?」
この学園を卒業すれば箔がつく。
つまりはそれだけ、この国での政治に卒業生が関わっているのだ。
だからこそレオナもアキトも好きでもない生徒会をやっている。
未来への先行投資として、優れた人材を懐に入れるために。
この国の重鎮のほとんどはこの学園の卒業生だ。
それはつまり、この学園でどれだけ味方を作れるかで将来が決まると言ってもいい。
そんな場所で、ガイは嫌われたのだ。
それがどういう意味を持つか。
わからないほど馬鹿ではないはずだ。
「奪われましたね。――地位も、名誉も」
王太子という立場に甘んじていた彼の元には優秀な人材は現れない。
それはつまり、彼の未来は決まったも同然だ。
たとえ国王になれたとしても、彼の政治はワンマン。
もしくはお粗末なものになる。
賢王となる道を絶たれたということ。
たったこれだけのことで……。
だがこれは、人脈作りを軽んじていたガイに責任があるだろう。
だからこそレオナはニコリと微笑んでみせた。
「どうですか? 奪われる気分は」
「――死ぬほど最悪だ……っ!」
今度はテーブルを叩くことも、大声で喚くこともしなかった。
どうやら学んだらしい。
ガイはちらちらと周りを確認している。
学園での身の振り方がいかに大切か、今さら気がついたようだ。
不安そうなガイを、アキトは鼻で笑う。
「今さらだろう。お前にこの学園で守る地位なんて元々ないだろう」
「――なんだと?」
結局喧嘩になるらしい。
そういえばこの二人は昔から仲が悪かった。
特にガイとレオナが婚約関係になってからは、どちらからともなく喧嘩をふっかけていたなと思い出す。
アキトはまだわかるが、ガイはなぜこんなに突っかかるのだろうか?
「俺たちと違って生徒会にも入ってない。親しい友人もいない。……なにを失うっていうんだ?」
「黙れ。君はいつも僕を苛立たせることしかしないな」
「お前もな」
バチバチである。
今にも殴り合いをしそうな雰囲気に、アイリが慌てはじめた。
それを握っている手に力を入れることで落ち着かせ、成り行きを見守る。
さすがにこれだけ人目のあるところで、殴り合いなどしないだろうと予測しているのだがどうだろうか?
まあもし仮にするようなら、揃って叩き伏せればいいだけだ。
「ちょうどいい。君を黙らせてやる」
「いいね。なにで勝負をつける? お前が俺に勝てるものなんてなに一つないのに」
また火に油を注ぐようなことを言う。
案の定燃え上がった火のように顔に血を上らせたガイは、アキトに向かって言い放つ。
「僕だって君に勝てるものくらいあるさ!」
「いいや、ないね」
アキトは余裕そうにガイを見つめたと思うと、なぜか視線をレオナへと向けた。
「俺を負かせるやつなんて、後にも先にもレオナだけだ」
向けられる視線の熱いこと。
だがいつも通りのその視線にも笑みを返せば、それを見ていたアイリがあっ! と声をあげた。
キラキラとした瞳がレオナとアキトを行ったり来たりしている。
一体なんだろうかと不思議に思ったが、アイリの目を見てすぐに気がついた。
嬉しそうに輝く瞳に、ニヤける口元。
高揚した頰を見てわからないほど馬鹿ではない。
どうやらアイリはレオナとの会話を覚えていたようだ。
『私より私を愛してくれる人がいるから、かしら』
今のやりとりでその相手がアキトだとわかったようだ。
なんだか嬉しそうなアイリにだけ伝わるように頷けば、瞳の輝きはさらに増した。
「――とにかく! 僕は君を許さない」
「好きにしろ。なんだか相手にするのも疲れてきた。……俺はお前のように暇人じゃないからな」
「過労にでもなってしまえ! アイリ、行こう!」
「あ、はい! あの、お騒がせしました……!」
バタバタと去っていく二人の後ろ姿を見ながら、アキトは意地の悪い笑みを浮かべた。
「過労死しろとは言わないんだな」
「あまりからかうものじゃないわよ」
「お前を傷つけたんだ。この程度で済ますつもりはない」
「傷ついてないわ」
本当に傷付いてはいない。
ただムカついただけだ。
好き勝手されるのが癪だから、好き勝手される側の気持ちをわからせようとしたに過ぎない。
「言葉を間違えた。お前を怒らせたから許せない」
「そうね。それならその通りだわ」
「それにあいつからも絡んでくるんだ。自業自得だろう」
まあ確かにアキトだけの問題ではない。
これに関してはガイも悪いためそれ以上は追求しなかった。
「けれどどうしてこうも二人は仲が悪いの?」
「……求めたものが同じだったから、かな」
その答えの意味は、レオナにはわからなかった。
「レオナ様!」
「あら、アイリさん」
あれから数日も経てば、学園はいつも通りの生活に戻っていた。
レオナは生徒会室へ向かう途中でアイリと出会う。
アイリはレオナを見つけると、まるで子犬のように瞳を輝かせて走ってくる。
「アイリさん。淑女たるもの、走ってはいけないわ」
「――し、失礼しました……!」
その場で立ち止まり頭を下げるアイリ。
注意すればすぐに直すのはアイリのいいところだ。
みんなこれくらい素直ならいいのに。
特にガイとアキトの二人は。
なんて心の中で思いながら、レオナはアイリの頭を撫でる。
「それで? どうしたの?」
「……は! あ、あの、招待状が……!」
「ああ、あれね? 来てくれるかしら?」
「もちろんです! ……ですが私が行ってもいいんでしょうか? 私はレオナ様を傷つけた本人なのに……」
「傷付いてないわよ?」
どうしてみんな傷ついたと思うのだろうか?
と不思議に感じたがすぐに気がついた。
普通の令嬢なら王太子に婚約破棄されれば傷つくのだ。
さらにはあんなたくさんの人の前で。
未来に絶望して涙に枯れる日々を送るのか普通なのだ。
「私にはアキトがいるもの。あなたが気にすることなんて少しもないわ」
だが残念ながらレオナは普通じゃない。
むしろあの場で王太子に宣戦布告したのだから、その時点で察して欲しいものだ。
「あなたが私の結婚式にきてくれたら、とっても嬉しいわ」
「本当ですか……!? 私……レオナ様のウェディングドレス姿みたいです。絶対、絶対綺麗です!」
「見てもいないのに断言してくれるの?」
「見なくてもわかります! でも見たいです!」
「ならいらっしゃい。誰に気兼ねする必要もないわ」
アキトとの結婚式の準備は順調に進んでいた。
お互いを幼い頃から知っているからか、どちらの両親も二つ返事で了承してくれたのだ。
まあレオナの両親は王太子妃にならなかったことに文句を言ってはきたが、最後には娘が公爵夫人になれることに喜んでいた。
現金な人たちだが、だからこそ扱いやすい。
そんなわけで日取りも決まり、招待状を知人に配ったのだ。
「ありがとうございます……! ぜひ出席させてください!」
「ありがとう。とっても嬉しいわ」
さらりとアイリの頭を撫でれば、彼女の頰は赤く色づく。
順調に懐いてくれているようで安心しつつも、レオナはちらりと彼女の後ろへと視線を向けた。
「――今日は殿下と一緒じゃないの?」
「――あ……。それは……」
アイリの言い淀む姿に、レオナはおや? と首を傾げた。
どうやらなにかあったらしい。
これは聞き出したほうがいいだろうと、優しい声色で問う。
「なにかあったの? もしかして喧嘩でもしたのかしら?」
「いえ……。どうなんでしょう? 最近の殿下は忙しそうで、あまり会えていないと言いますか……」
この学園にアイリを入れたのはガイだ。
だというのに彼女を放置しているなんて何事だろうか?
知っている限りは近々大きな催しなどはなかったはずだ。
「……なら心細かったでしょう? しばらくは私のそばにいるといいわ」
「え!? で、ですがそれではご迷惑に」
「ならないわ。ついでに勉強をみてあげる。一年下の勉強を復習するのも私にはいい機会だもの」
「…………ありがとうございます!」
一つ年下のアイリの勉強をみるのは、確かにいい機会だ。
基礎をもう一度学ぶというのはある程度までいってしまうとやることがない。
だが基礎は何度学び直したって役に立つはず。
なのでそう伝えれば、アイリは嬉しそうにへにゃりと微笑んだ。
その顔が飼い主を見つけた犬のように可愛らしくて、気づいたら口を開いていた。
「アイリさん年上はお嫌かしら?」
「え!? と、年上ですか? えっと……どういう意味の……?」
「恋愛対象として見れるかしら?」
「え!? もちろんです! 頼りになるというか……その……」
アイリは言い淀みながらもチラチラとレオナを見てくる。
潤んだ瞳が可愛らしいなと思いながらも、ならばとアイリの肩を掴む。
「私のお兄様とかどうかしら? 妹の身でいうのはなんだけれど、かなり優良物件だと思うわ」
「――あ……はい。……はい!? レオナ様のお兄様!? そんな、私のようなものとは……!」
「アイリさんが嫌じゃなければ会ってみない? そうだ! うちでお茶会をしましょう。大丈夫、私も一緒にいるから」
なんだか一瞬残念そうな顔をしたアイリだったが、言葉を理解したのか急に慌て出した。
そんなアイリの頭を撫でつつも、頭の中では兄の姿を想像する。
レオナに似てどことなく冷たく感じる見た目。
その割には奥手を極めているため、女性の影が一切ないのだ。
なのでアイリが兄の相手になってくれるなら大変ありがたい。
「で、でででですが!」
「嫌ならいいのよ? けれどあなたが家族になってくれたら私はとても嬉しいわ」
「――! わ、私が……レオナ様と家族に……!?」
一瞬で瞳を輝かせたアイリは、赤く染まった頰を両手で押さえた。
なにやら一人でにあれこれぶつぶつと呟いた後に、アイリはレオナの手を握る。
「ぜひ! お茶会に行かせてください!」
「あら嬉しいわ。ではよき日取りを決めなくちゃ」
これで兄とアイリが結ばれれば、ガイから宣言通り奪えたことになる。
それにアイリのことも兄の方が大切にしてくれるはずだ。
おっちょこちょいなアイリには、兄のようなしっかりした人の方が似合う。
兄からしてみても、常に仏頂面な人の隣にはアイリくらいころころと表情が変わる人の方がいいはずだ。
ならこれほど素晴らしいお見合いもないだろう。
「アイリさんのご都合の合う日はあるかしら? 兄に無理矢理にでも予定を空けさせるわ」
「え? いえ、私こそそちらに合わせたほうが……」
「いいのいいの。あの人の予定になんて合わせてたら一生会えないんだから」
戸惑うアイリの背中を押して、レオナは生徒会室へ向かう。
兄に必ずくるようにと手紙を書くために。
「もう卒業か。……早いな」
「あら寂しいの? 卒業式の次の日に結婚式をするというのに」
「まさか。家でお前に会えるなら、それに勝るものはない」
そうは言いつつ卒業に哀愁を感じているのは丸わかりだ。
学園というものに愛着を持っているアキトにとって、その日が悲しいわけがない。
だからこそ次の日に結婚式をすることを選んだのだ。
彼がこれ以上悲しまないために。
「…………終わるのね」
そしてそれはレオナもだった。
学園が終わるということは、自由が終わるということ。
子どもの時は終わり、無情にも大人にならなくてはならない。
時は待ってくれないのだから。
「そういえば結婚式だけれど……」
アキトに結婚式の話をしようとした時だ。
生徒会室の扉が中々な勢いで開かれたと思えば、ガイが手に紙を握りしめてやってきた。
「これはどういうことだ!?」
「なんの話でしょうか?」
いきなり入ってきてなんなのだと眉間に皺を寄せれば、ガイはレオナの元へとやってくると机の上に紙を叩きつける。
それはレオナとアキトの結婚式の招待状だった。
「どうして君と彼が結婚することになってるんだ!?」
「どうしてって……。それのなにか問題でも?」
「問題しかない! 君は僕と婚約破棄してまだ日が浅いんだぞ!? それを……アキトと結婚なんて――!」
「あなたが言いますか?」
レオナと婚約破棄する前から、アイリと関係を築いていた人がなにを言うか。
そこを突っ込めば、ガイが一瞬で顔色を悪くした。
「――っ、ということはやはり君たちは昔からそういう関係だったということか!?」
「違います。殿下が婚約破棄を宣言したからアキトと結婚することにしたんです」
「だが――!」
「殿下」
あれこれ言い出しそうなガイを止めると、レオナはぴしゃりと言い放つ。
「私とあなたでは前提が違います。婚約破棄を申し込んだのはあなたで、受けたのは私です。そしてその後アキトとの話を進めました。……不貞行為を働いていたあなたにどうこう言われる筋合いはありません」
「不貞行為などしていない!」
「婚約者がいるのに他の女性を連れてきて愛していると言葉にすることの、どこが不貞行為ではないと?」
なにも肉体的関係があったかなかったかの話ではないのだ。
彼の行った行為そのものが、レオナにとって不貞行為にあたっただけのこと。
実際レオナはあの瞬間までガイと結婚する気でいたのだ。
それをなかったことにしたのはガイ本人である。
「――では、君たちは不貞行為をしていないと?」
「ええ。全く」
「してない。アホ言うな」
「だがレオナ。君はアキトを愛しているんだろう!?」
なにをわけのわからないことを言うのだと、レオナは小首を傾げた。
「愛しています。結婚するのですから当たり前でしょう?」
「ほら! 君のその想いは不貞ではないと言うのか!?」
そう言いながらもガイはなにやら傷ついたような表情を浮かべる。
もしかして、とは前々から思っていたが、さすがに今のやりとりでレオナは理解した。
ガイは嫉妬しているのだ。
レオナとアキトの関係に。
なんて愚かなのだと、大きめなため息をついた。
「不貞ではありません」
「君は僕と婚約している間も、アキトを愛していたんだろう!?」
「愛しておりました。――殿下を」
レオナの言葉にそらみたことかとに歪にも口角を上げそうになったガイは、しかし中途半端な形でそれを止めた。
「――は? なに? 僕を……?」
「愛しておりました。私は殿下と結婚すると思っていたんですから」
「………………」
ガイは呆然と立ち尽くす。
それを気にする必要は一切ないと、レオナは立ち上がった。
「ですがその愛をなかったことにしたのはあなたです。……愚かにも全てを失うことになったのは殿下の選択です。よくよくご理解ください」
ガイのことはちゃんと想っていた。
結婚する相手として。
恋愛と結婚は違うと誰かが言った。
そしてそれはその通りだとレオナも思う。
恋愛としての愛はないけれど、結婚として、配偶者としての愛情はガイに持っていた。
そしてそれをいらないと捨てたのは他ならぬガイだ。
「ちなみにアイリにも私の兄を紹介しました。どうやらいい雰囲気みたいですよ」
「なにしてくれてるんだ君は!?」
「あら、アイリを愛しているのなら放置していた殿下が悪いのでは? アイリから愛されているとあぐらをかいていた怠惰な己を恨んでください」
ガイはがくりと膝をつくと、呆然と床を見つめた。
「なんてことだ……。僕は……全てを失ったのか……?」
「王位継承権は持ってるだろう。国王陛下の愛情に感謝するんだな」
アキトのその言葉にキッと睨みを効かせたガイだったが、すぐにまたしても床を呆然と見つめる。
それに追い打ちをかけるように、レオナは告げた。
「今は、よ。少なくとも政治的味方を殿下が得ない限り、国王陛下は考えざるをおえなくなるでしょうね」
「――まだ奪うつもりか!?」
「もちろんです。全てを、と言ったじゃないですか」
レオナはガイの元へと向かうと、床の上に置かれた握り拳に優しく触れる。
「婚約破棄を宣言された時、その傲慢さと身勝手さに苛立ちを覚えました」
事前に相談してくれたらよかったのに。
彼はたくさんの人の前で宣言するという、レオナの顔に泥を塗る行為に及んだのだ。
アキトが結婚を承諾してくれたため、家族から見放されることはなかったが、そうでなかったらどうなっていたか。
ガイはレオナのことをなに一つ考えてくれていなかった。
それだけが真実だ。
「だから後悔してください。そしてよく考えて行動なさってください。――私はいついつまでも、殿下から全てを奪おうと画策しているのですから」
「………………肝に銘じておく」
「そうなさってください」
ガイは立ち上がると机の上に置いた、くしゃくしゃの招待状を手に生徒会室を出て行った。
なんだか涙目だった気もするが、これくらいの意地悪は許容範囲内だろう。
レオナは己の頰に手を当てると、去ったガイの哀愁漂う背中を思い出した。
「殿下、私のこと好きだったのね?」
「――今更気がついたのか……? なんのために俺たちが言い争ってたと……?」
アキトが驚愕に目を見開く中、レオナは己の鈍感さをほんの少しだけ恥じた。
そして結婚式当日、レオナはそれはそれは美しいドレスを身にまとっていた。
純白のマーメイドドレスはキラキラとダイヤモンドが輝く。
胸元にもダイヤモンドの大きなネックレスが光り、その美しさに見た人たちは感嘆のため息をこぼす。
その際たる人がアイリであった。
彼女はウェディングドレスを着たレオナを見たその時から、永遠にため息をこぼし続けている。
「レオナ様……。もはや女神です。美しさを極めています」
「あら、ありがとう。嬉しいわ」
我ながら中々の出来だと思う。
鏡に映る自分の姿に満足しつつ、レオナはアイリと向き合った。
「次はあなたの結婚式ね」
「へあ――!? い、いえ! 私にはまだ早いと言いますか……」
「あら、お兄様と仲睦まじいって聞くわよ?」
「はわわわわわ」
急に真っ赤になって慌て出すアイリ。
兄とは良好な関係を築けているようで安心していると、扉がノックされ中にガイが入ってきた。
彼は中にアイリがいることは知らなかったのだろう。
明らかに気まずそうな顔をした。
「――アイリ。……きていたんだな」
「……はい、殿下」
アイリもアイリで表情を固くする。
しかたがないことだろう。
アイリはガイの推薦で学園に入ったと言うのに、放置され困り果てていた。
その間世話をしたのはレオナであり、彼女の心を支えたのは兄である。
そしてそれをガイもわかっているのだろう。
アイリに向かって頭をさげた。
「アイリ、すまない。……君を放って僕は……」
「殿下、大丈夫です。殿下のおかげであんなに素敵な学園に入学できて、今はとても楽しいんです! だから、謝らないでください」
最近は友だちもできたらしいアイリは、そう言うとにっこりと微笑む。
それにガイも微笑みつつ頭を上げたので、レオナは腕を組んだ。
「殿下。アイリが優しいからといって甘えてはいけませんよ。あなたがしたことは最低のことなのですから」
「――はい。すみません」
自ら招き入れた学園でアイリを放置するなんて最低だ。
とはいえ当の本人が許しているので、これくらいで勘弁してあげることにした。
「それで? 殿下はなんのご用なのでしょうか?」
もちろん式には招待だが、控え室にまでくるとは思わなかった。
一体なんのようなのかと問えば、彼は静かに瞳を伏せる。
「――宣言しにきたんだ。僕はこれから、君に認めてもらえるような王太子になると」
「そうですか」
さらりと返したレオナに、大きく肩を落としつつもガイは続ける。
「そしてすまない。……君を傷つけて」
「傷ついておりません」
「……そうだったな。怒らせて悪かった、だ」
「――その謝罪は受け入れましょう」
なぜかガイはやれやれと言いたげに肩をすくめたあと、改めてと居住まいを正した。
「今さら遅いかもしれないが……。よき王になれるよう努力するつもりだ。これ以上君に奪われたくない」
自虐的に笑うガイに、レオナもまた楽しげに微笑む。
「残念です。――本当に全てを、奪うつもりでしたのに」
「もうかなり奪われてるんだが?」
「全てと言いましたでしょう?」
若干青ざめたガイは、すぐに胸を張ると顎を引いた。
まるでなにかを宣言するみたいに。
「ならもうこれ以上奪われないようにする。流石にこれ以上失っては、生きていけないからな」
どうやら堪えたようだ。
ちなみにガイが必死になっていたことは知っている。
ガイがアイリを放ってまで、学園で生徒たちから信頼を得ようと躍起になっていたことも。
勉学に励み最後には学年で五位以内に名前が入っていたことも。
彼が努力を重ねていたことはよく理解している。
「――ま、それはそれ。これはこれなんですけれどね」
「なんの話だ?」
「もし少しでも怠惰が見受けられたら、すぐに奪いにいかせていただきますので。どうぞ努力を続けてくださいませ」
国の長になろうというのなら、その生涯全てを努力し続けなくてはならないだろう。
彼にできるかはいまだにわからないけれど、ほんの少しだけ期待はしてあげようと思った。
昔のままの彼なら、レオナやアイリに謝るなんてしなかっただろうから。
「――そろそろ時間ですので。また会場でお会いしましょう」
「……ああ。――結婚おめでとう、レオナ」
「おめでとうございます! レオナ様!」
「ありがとう」
去っていく二人の後ろ姿を見つめながら、思わず笑ってしまう。
あの婚約破棄を受けた時には、こんなふうになるとは思っていなかった。
あの二人に結婚を祝福されるなんて。
「あいつに変なことされてないな?」
そんな感傷に浸っていたら、部屋にアキトが入ってきた。
白いタキシードがよく似合っている。
「その前に言うことがあるんじゃないの?」
「俺の妻は世界で一番美しい」
「まだ妻になってないわ。誰のことを言っているのかしら?」
「お前以外にいるわけないだろう」
なにを馬鹿なことをと言いつつ、アキトはレオナの元にやってくると頰に触れる。
まるで壊れ物に触れるかのように優しく丁寧な手つきに、アキトの優しさが滲む。
「綺麗だ。死ぬ時はこの瞬間を思い出したいくらいに」
「嫌よ。死ぬ時は最後まで私の顔を見ながら死んで」
「――わかった。ならその時までそばにいてくれ。俺より先に死ぬな」
なんだか変な会話だ。
もう何十年も先のことを話している。
この先どうなるかもわからないというのに。
「…………でも嬉しいわ。あなたのための装いだもの」
「俺のため? ――最高だな」
そう言って差し出された手をとる。
足が迷うことはない。
アキトと共にいることに、後悔も恐怖もないのだから。
「そういえば殿下が認められるよう努力すると言っていたわ」
「認めることがあるのか?」
「まさか」
レオナは笑う。
今この瞬間――死んでもいいように。
「彼の全てを奪うわ。私、約束は守る女なの」
完




