第1章 崖下の遺跡 閑話 村での一幕。
――時間は、アレンが崖下に落ちたその日までさかのぼる。
夕暮れの陽が、赤く沈みかけた山々を照らしていた。
濃い橙の光が谷間を舐め、村の木柵を長く伸びる影で染める。
風は乾き、森の向こうからは鳥たちの帰巣の声が聞こえていた。
竜避けの草を焚く匂いが、村の中央広場に立ちこめていた。
刺激のある苦い香り。子どものころから嗅ぎ慣れたそれは、人々に安心を与えるはずのものだった。
だがこの夜ばかりは、草の煙もどこか冷たく、胸の奥に重く沈んだ。
やがて、山道の方から足音がした。
それは多くの者の足音で、しかし、弾むものではなかった。
肩を落とし、息を乱した数人の影が、夕闇を縫うようにして戻ってくる。
「――トマスさんたちが帰ってきたぞ!」
「おお……無事だったのか……?」
見張りの若者が声を上げると、村人たちがざわめき、広場に集まった。
けれど誰も笑わない。
焚き火の光が、狩人たちの顔を照らしたとき、誰もが言葉を失った。
血と泥にまみれ、獲物を担いでいない。
何よりも、その表情。老狩人トマスの顔には深い皺が刻まれ、頬には乾いた血の筋があった。
瞳の奥に沈痛な影が宿り、いつもの威勢はかけらもない。
群衆の中から、ひときわ小柄な女性が駆け寄ってきた。
アレンの母――ミリアだ。
袖口に土がつき、編みかけの籠を落としたまま、息を荒げていた。
「トマスさん……アレンは? アレンは一緒じゃないの?」
その声に、広場が静まり返る。
夜の虫の音さえ、止まったかのようだった。
トマスは唇を噛み、何も言わずに目を伏せた。
背後に立つ狩人仲間たちも、ただ俯き、誰も口を開こうとしない。
長い沈黙ののち、トマスが重く息を吐き、小さく頭を下げた。
「……すまねぇ、ミリア。崖で……俺たちが助ける前に、落ちちまったんだ」
ミリアの表情が、凍りついたように止まった。
握りしめた拳が震える。
焚き火のはぜる音が、ひどく遠くに聞こえた。
トマスは、苦しげに続けた。
「俺が悪いんだ。あいつを見張ってるはずだったのに、群れが回り込んできやがって……! 俺が、もっと早く動けてりゃ……責めるなら、俺を責めてくれ……!」
その胸を、ミリアは両手で叩いた。
乾いた音が夜に響く。
「そんなんじゃ、そんな理由じゃ責められないじゃない! あの子は……あの子は……!」
嗚咽が声にならず、肩が震える。
傍らの者たちが気の毒そうに目をそらす中、トマスはうつむいたまま、ただ拳を握りしめていた。
「あの高さから落ちたんじゃ、俺でも助からん。……残念だが、死んだとしか言えねぇ」
その言葉に、広場の空気が一気に冷えた。
誰もがその場で立ち尽くし、夜風の音だけが吹き抜けた。
そのときだった。
人混みをかき分けるように、細い影がトマスの前に立ちはだかった。
「――アレンが、死んだなんて言わないで!」
鋭い声が響いた。
振り向いた人々の視線の先には、栗色の髪の少女――エリスが立っていた。
村長の孫娘であり、アレンの幼馴染。
膝まで泥にまみれたスカートの裾を気にすることもなく、涙に濡れた頬をまっすぐに上げていた。
「アレンなら、生きてるわ! あの崖の下で、きっと何か考えてる! 帰ってくるに決まってる!」
震えながらも、声は凛としていた。
その瞳の奥には、かすかに炎が灯っていた。
「エリス……!」
ミリアがその名を呼び、泣きながら少女の肩を抱きしめた。
二人は肩を寄せ合い、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、星がいくつも瞬き始めていた。
トマスは何も言えず、深く帽子をかぶり直した。
灰色の煙が静かに立ちのぼり、空へと溶けていく。
やがて、杖をついた老婆が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
村長――オババだ。
年老いた身体に、分厚い毛皮を羽織り、足元には小さな犬がついてくる。
腰は曲がっているが、その目の鋭さは若者よりも確かだった。
「よう帰ったね、トマス。ほかのもんもご苦労様。命あってこそ、次があるのさ」
オババの声は静かで、それでいて不思議と広場の隅々まで届いた。
彼女は焚き火の前まで進むと、杖で地を軽く叩き、周囲を見回した。
「みんな、心配なのはわかっとる。けど、村の暮らしを止めるわけにはいかん。水汲みも畑も、いつも通り頼むよ。……ハンナ、悪いが、ミリアについててやってくれんね」
声を掛けられたのは、エリスの母であり、村長の娘ハンナだった。
ハンナは静かにうなずき、ミリアの肩を支えながら広場をあとにした。
エリスもその後を追い、三人の背は焚き火の光の中に消えていった。
人々は、オババの言葉にうなずき、それぞれの持ち場へと散っていく。
誰かが火を足し、誰かが家々の扉を閉める音がした。
暮れなずむ空の下で、村は再び静かな生活の音を取り戻しつつあった。
オババは、最後までその場に残っていたトマスの肩を、軽く叩いた。
その手は骨ばっているが、温かかった。
「……あの坊や、崖から落ちたくらいで死ぬたまじゃないよ。あの目は、生き抜く者の目をしてた。わしには、そう見えたよ」
トマスは小さく頷き、夜空を仰いだ。
煙の向こうに、雲間から一つの星が静かに瞬いていた。
それはまるで、誰かが帰り道を示す灯のように、穏やかに揺れていた。
血濡れの狩人トマス。
すまねぇ…
主人公の母ミリア。
夫と同じ運命を辿るなんて、運命って残酷なのね。
幼馴染エリス。
アレンって妙に勘が鋭いから、絶対生きてるわ。
村長オババ。
エリスの言うとおり死んではいないだろうね。
小さいときから賢い子だからね、なんとかなりそうな気がするよ。




