第1章 崖下の遺跡④
外の咆哮が止んだのは、いつのことだっただろう。
咆哮が止むまではと、洞窟の奥で息を潜めているうちに、体の痛みも恐怖も、いつの間にか眠気に変わっていた。
夢も見なかった。
ただ、目を開けたとき、入口の向こうに淡い光が差していた。
夜が明けたのだ。
崖下の森に、朝の気配がゆっくりと満ちていく。
とはいえ、木々の影は濃く、地面はほとんど薄暗いままだ。
それでも、昨夜の闇よりはずっと“見える”。
アレンは小さく伸びをして、身を起こした。
全身がずきずきと痛む。腕も脚も打撲だらけだが、動けないほどではない。
昨日見つけた長刀と革の防具を確認し、外套を広げた。
葉を縛りつけてあった縄がいくつも千切れている。転落の衝撃で壊れてしまったのだ。
「……これじゃ、森に出られないな」
外套は、この森で生き残るための命綱。
村で習った通り、竜種の目から姿を隠す唯一の手段だ。
アレンは洞窟の周りを探り、丈夫そうな蔓を集めていく。
指で編み、裂けた部分を丁寧に縫い直す。
幼いながらも、その手際は悪くない。
前の世界で工作を得意としていた少年の感覚が、わずかに蘇る。
修理を終え、再び外套を羽織ったころには、森の中にも鳥の声が戻っていた。
洞窟を出ようとしたそのとき、足元で“むにゅ”とした感触がした。
見下ろすと、白く太い芋虫のようなものがもぞもぞと這っている。
大人の拳ほどのサイズで、透けた皮膚の中で体液が脈打っていた。
「……うわ、出たな。樽虫」
村では貴重なたんぱく源として知られている昆虫だ。
頭を取って干せば保存食にもなるし、焼けば腹の足しになる。
見た目は最悪だが、村人なら毎日誰かしらが食べている常食だ。
アレンはため息をつきながら、洞窟の奥にあった焦げた木片を拾い上げた。
前夜の焚き火跡に残っていた炭に、乾いた枝をくべ、廃棄された道具箱の中にあった火打ち石を弾く。金属が火花を散らし、やがて煙が立ちのぼった。手際はぎこちないが、かろうじて火を起こせた。
樽虫を枝に刺して炙ると、体液に含まれる脂がじゅうっと音を立てる。
甘いような、泥臭いような、独特の匂い。
舌の上でとろけるそれは、強いて言えば――蟹に似ていた。
だが、生ではとても食えたものではない。
焼けばようやく、飲み込める味になる。
「……うん。食えなくはない」
自分に言い聞かせるように呟き、アレンは焼けた虫を飲み込んだ。
胃に温かさが広がり、少しだけ力が戻る。
生き延びるための食事。贅沢は言っていられない。
村長は生で啜るのが好きと言っていたが、どうにも見た目が芋虫というのは好きになれない。
食事を終え、荷を整える。
外套の背に縫い付けられた小袋に、洞窟近くで見つけた薬草を詰めていく。
“癒樹草”“止血花”“清葉”――村でトマスに教えられた貴重な薬草だ。
それが、こんな未踏の森に群生している。
それだけで、ここがどれほど“人の手が届かない”場所かがわかる。
「……帰ったら、村の薬師に見せてやろう」
小さく呟いて、アレンは長刀を背負った。
崖下の森を抜け、再び山の向こうの村を目指す。
森の空気は湿っていた。
息をするたび、腐葉土と血のような鉄の匂いが鼻につく。
夜を明かした拠点の外は、相変わらず薄暗く、陽が昇ったというのに木々の天蓋が光を拒んでいた。
そのとき――背後の茂みが、不自然にざわついた。
アレンが反射的に振り返ると、そこには細長い影。黄土色の鱗を持つ一匹のはぐれラプトルが、舌を鳴らしていた。
群れから逸れた個体は、むしろ厄介だ。縄張り意識がなく、空腹だけで動く。
「……ッ!」
飛びかかってきた。
咄嗟に身をひねり、アレンは地面を転がるようにかわす。
風を裂く音とともに、ラプトルの爪が背後の木の幹を深々と抉った。あと半歩遅れていれば、顔の皮が剥がれていた。
長刀を構え直す。
手にしたそれは、竜骨と金属を混ぜて鍛えられた――本人は知らぬが――かつての狩人の武器。
軽くはない。けれど、振れば確かに重みが伝わる。
アレンは息を殺し、ラプトルの動きを見据えた。
ラプトルもまた、金属の光に警戒している。爪が、土を抉る音を立てた。
――一瞬の静寂。
獣が先に動いた。
正面から突っ込んできたその瞬間、アレンは後ろへ跳びながら、なぎ払うように長刀を振り抜いた。
甲高い金属音とともに、血が霧のように散る。
ラプトルの頭部に、長刀がめり込んでいた。
「……っ、は、ぁ……」
息が荒い。
地面に倒れた獣の瞳から光が消えるのを見て、ようやく自分が勝ったのだと理解した。
しかし次の瞬間、胸当ての革が裂けているのに気づき、血の気が引いた。
爪がもう一寸深ければ、心臓まで達していたかもしれない。
「……危なかった……」
震える指先を見つめる。
恐怖の波が去ると同時に、不思議な感覚が身体を包んだ。
――何かが、流れ込んでくる。
鼓動が速く、しかし軽い。
重かった長刀が、まるで枝のように感じられる。
身体が――軽い。
「これは……アドレナリン……? 違う……」
自分の筋肉が、確かに変わったとわかる。
竜を狩った者だけが得られる、“力”。
それがどんな理屈なのか、アレンにはわからない。だが――
胸の奥で、狩人の血が静かに目を覚ましていた。
倒れたラプトルは、完全に沈黙している。
アレンは一歩、二歩と近づき、慎重に様子をうかがった。動かない。
長刀で小突いてみるが反応は無い。
念には念をと、長刀を大きく振りかぶり頭目掛けて振り下ろす。
やはり反応は無い。完全に絶命している。
胸の高鳴りが、静かに収まっていく。
――これが、“狩り”の感覚なのか。
手にした長刀の切っ先には、濃い血がこびりついている。
金属ではない、どこか鈍い光を帯びた赤。拭ってもなかなか落ちない。
アレンはその色に、奇妙な神聖さを感じた。
――使えるものは、使わないと。
恐怖よりも先に、そんな考えが浮かんだ。
遺跡で見つけた古い狩猟記録の断片。そこに描かれていた「竜の皮を加工した装備」は、劣化しづらく、熱にも強いとあった。
思い出した瞬間、アレンは無意識に腰の黒曜石の短刃を抜いていた。
ラプトルの腹を裂き、内側の柔らかい皮を慎重に剥ぐ。
温い血が手首を伝い、土に落ちる。指先が震える。けれど、それを止めようとは思わなかった。
これが、今の自分にできる生き方だと感じていた。
意外にもラプトルの皮は剥ぎ易く、つるっと剝けた。
皮の一部を切り取り、腰に巻いてみる。
思ったよりもしなやかで、体温にすぐ馴染んだ。竜の皮は――確かに特別なものだった。
そのとき、遠くから低い唸り声が聞こえた。
ラプトル群れだ。
ラプトルは基本的に複数で行動する。今の個体ははぐれだったが、仲間が近くにいた可能性は高い。
「……まずいな」
アレンは即座に動いた。
血を拭い、荷物を背負い直し、拠点で拾った革防具を締め直す。
装備は不格好だが、もう寒さは感じなかった。
むしろ、身体の奥からじわりと熱がこみ上げている。
ラプトルの死骸に一瞬だけ目をやる。
あれはただの脅威ではなく、何かを教えてくれた存在だ。
そう思えた。
「……生きて帰る。絶対に」
低く呟いて、森を駆け出す。
踏みしめた地面の感触が、今までと違っていた。
筋肉が、呼吸が、視界が――まるで別の自分のように研ぎ澄まされている。
背後で、再び咆哮が響いた。
森の奥に、影が蠢く。
けれど、アレンの目に宿った光は、もはや恐怖ではなかった。
狩られる者から、狩る者へ。
その境界を、少年は今――確かに越えた。
主人公-アレン。
ラプトル師匠に初めての闘いをレクチャーされた少年。反射神経と判断能力にものを言わせて勝利した。
蟹味の芋虫パワーのおかげかもしれない。
はぐれラプトル師匠。
今作の初戦闘担任教諭。命をかけて闘いというのはこういものだと教えてくれた。
やっぱり闘いは数だよ兄貴!




