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――観測データが、止まった。
観戦室のモニターが赤く点滅。
画面上には、試合のリアルタイムログが波形となって流れていた。
だが、ある瞬間から記録が欠落している。
まるで映像そのものが、“存在していない時間”を挟んだように。
「なにが起きた!?」
篠原が身を乗り出す。
「葛城の電磁加速、速度計測でマッハ3.2を超えてる! それなのに――」
隣の黒羽主任が、震える声で言葉を続けた。
「――それなのに、衝突点の時間差が“ゼロ”です」
「ゼロ?」
「はい。理論上、同時に動いたことになっている。どちらかが先じゃない」
別の研究員がログを解析しながら唇を噛む。
「相原悠真の体内電流……通常の人間値の1000分の一以下。
筋繊維反応も遅延ゼロ。……反射じゃない。意識より前に動いてる」
篠原の眉が深く寄る。
「まるで、世界の動作が遅れてるみたいなデータだな」
観測員が震え声で囁く。
「先生……。彼、結界にも映ってません」
「……は?」
「通常、攻撃を防ぐために展開されてる“魔力結界層”がありますよね?」
観測員が、汗を拭いながら報告する。
「選手全員を自動で保護する安全装置です。
攻撃が直撃しても、致死ダメージを“停止”させるはずなんですが――」
「……はず、なんですが?」
「――相原の周囲だけ、結界が存在していません。」
篠原が顔を上げる。
「存在していない?」
「はい。結界制御装置の認識データに、“相原悠真”という対象がありません。
結界が、彼をこのフィールド上の“参加者”として認識していないんです。」
室内が凍りつく。
黒羽主任が息を呑み、低く呟く。
「……つまり、あいつは守られる側じゃない、ということか?
結界の内側にいるはずなのに...」
篠原は沈黙したまま、拳を握りしめた。
「安全装置が働かないのに、損傷ひとつない。
……まるで彼には結界による防御など必要ない、かのような...」
静寂。
誰もが意味を理解していながら、言葉を続けられない。
リング上。
悠真と颯真の姿が、残光だけを残して――消えた。
次の瞬間。
光が弾けた。
轟音も熱もない。
ただ、フィールドが震え、空気が一瞬だけ白くかすんだ。
そして、悠真が立っていた。
リング中央、無傷のまま。
その正面で、膝をついた颯真の槍先が――悠真の胸に届いていた。
けれど、刃は動かない。
火花も、放電も、すべての力が吸い込まれるように消えていた。
審判が呆然と呟く。
「……接触……したのか?」
解析モニターに次々とエラーが並ぶ。
――電磁反応、ゼロ。
――熱反応、ゼロ。
――結界信号、反応なし。
――生体反応、測定不能。
黒羽主任が震える声で言った。
「……記録上、そこに存在していない。
でも、カメラには――“立っている”」
篠原は静かに呟いた。
「……これが、相原悠真か。」
静寂の中で、颯真がかすかに呟いた。
「……届かない……?」
彼の声は、観客のざわめきにすら混ざらず、溶けて消えた。
審判が震える声でマイクを握る。
「――勝者、相原悠真……!」
観客席から、ためらい混じりの歓声が広がる。
《無傷だ……》《槍が通ってない……》《どうなってんだあの人間!》
リング上、悠真はゆっくりと拳を下ろす。
その動きにさえ、わずかな風が吹いた。
光が反射し、肌も服も、一点の焦げも汚れもない。
(……雷も、通らなかった)
悠真は静かに息を吐く。
(けれど、感覚はあった。――熱も、衝撃も、)
(俺の体、どこまでが人間なんだ……)
視線を落としたその顔に、感情の色はなかった。
ただ、ほんの一瞬、
――何かを失っていくような、寂しげな光だけがあった。
歓声が、少し遅れて彼を包む。
だが悠真の耳には、何も届いていなかった。




