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66

――新宿ダンジョン。下層転移事故の記憶も新しいこのダンジョンにまたしても異変が起こっている。


足跡は残っていない。焼け跡と黒い煤だけが筋になって奥へ伸びる。

 横たわる死体の一つを、手甲の背で軽く押す。温度は、まだ少し残っている。

「まだそんなに時間が経ってないようにも見える」

 耳を澄ます。滴る水音。遠い風切り。……それから、かすかな、金属の擦れ。

 通路の奥。階段の方角。俺は息を潜め、壁に背を付ける。

《ちょ、怖い怖い》

《相原くん、逃げよ?》

《行け。真相を暴け》

《おいやめろ煽るな》

《事故の再来はやめてくれマジで》

《でもクラッシャーなら無傷で帰ってきそうな気もするw》

 苦笑が喉元まで上がってきて、飲み込む。

 転移事故の日、俺は無我夢中でモンスターと戦っていた。

 あの時の自分を、今も覚えている。仲間を守るためだと全力で戦っていた。

(今は違う。成長もしてる。慎重に行こう。)


 俺は死体群の横を抜け、奥へ続く通路を慎重に踏む。

 しばらく行くと、通路は狭く、天井は低く、湿り気は濃くなった。

 足音を潰すように歩いていると、曲がり角の手前――黒い煤の帯がふっと途切れているのに気づく。

「……ここで、止まってる?」

 煤の線は角の手前で霧散し、別の跡に入れ替わっていた。

 荒い。岩肌が点々と粉を噛み、微細な砂が踏み固められている。

 砂の粒子は、通路の側壁から剥がれたもの――いや、違う。砂ではない。灰だ。

 角の向こう、気配がうごめく。

 軽い呼吸。複数。低い唸り。獣――だけじゃない。靴底が石を踏む、ほんの微かな音。

《これ人の足音じゃね》

《でも魔石残してくのは人じゃないって》

《クラッシャー、引き返せ!》

《いや行くっきゃないっしょ!》

画面隅の数字がまた増える。熱気が端末越しにこちらへ押し寄せてくるようだ。

《視聴者数:80,129》

 呼吸を整え、指先から肩、背中へと余分な力を順に落とす。

 膝は沈めず、踵も浮かせない。足裏の乗りを変えて、滑らせる。

角へ。片目だけを出す。

 視界に入ったのは、狭い踊り場――そして、散らばった足跡。人のものと、獣のものが複雑に重なっている。

 その中心で、黒い靄をまとった影がひとつ、低く身を伏せていた。狼より一回り大きい。骨格は似ているのに、輪郭が滲んでいる。

 靄の内側で、何かがこちらに顔を向けた。光を吸いこむような、空洞の目。

(なんだ、こいつは)

 喉が乾き、舌が上顎に貼りつく。

 同時に、通路の奥で、人の足音が遠ざかる。誰かが、さっきここで何かをして、去っていった。

 黒い影が、音もなく跳んだ。

「っ!」

 真正面からは受けない。半身を切って、爪の軌道を外へ送る。

 靄が肌を掠め、冷たさと痺れが一瞬だけ走る。

 爪が岩を切り、火花が散って消えた。重さは狼と変わらない。だが、靄が力の流れをわずかに捻じ曲げてくる。掴みにくい。

(なら、掴まない)

 肩を通して背に流し、体勢が前に崩れた瞬間、後肢の軸を指で払う。

 靄が抵抗する。骨の場所が曖昧だ。触れた感覚が、ずれる。

「……ッ」

 無理に投げない。膝を切り、脚の“面”で押さえ、重心を床に貼り付ける。

 前脚が滑り、顎が落ちる。鳩尾の位置を推測で打つのは危険――だから、首を外側から軽く抱え、喉元を圧さない角度で固定し、肩を極めて床へ流す。

 ずる、と靄の輪郭が崩れ、黒が薄くなる。

 影は低い唸りを一度漏らし、抵抗がほどけた。

(……落ちたか?)

 腕を解く。影はやがて熱を失い、普通の灰色の狼に戻っていく。

 その喉元には、鋭い線があった――焼けと斬りの痕が重なったような、不自然な線。さっき見た死体と同じ“手口”。

《今の何だ?》

《靄、消えたよな》

《異常個体?でも普通の見た目に戻ったな》

《誰かが弄ってるとかw》


「……やっぱり、おかしい」

 俺は踊り場に立ち上がり、耳を澄ませる。人の足音はもう聞こえない。

 階段はさらに下へ。闇は濃く、空気は重い。

 数字が、また増えた。

《視聴者数:83,984》

(感覚は、掴めてきた。けど――このダンジョン、様子がおかしい)

 拳を握り直し、すぐにほどく。

 踊り場の端、黒い煤が細い筋を描いて、深層へと続いていた。

「……帰るか、進むか...」

 俺は階段を降りた。

 冷えた風が頬を撫で、下層の闇が、音もなく口を開ける。




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