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観客の歓声は、試合が終わった今もなお止む気配がなかった。
「クラッシャー!」「神谷を砕いた!」
訓練場全体が揺れるほどの熱狂を背に、悠真は控室に足を踏み入れる。
ドアを閉めると、一気に静寂が押し寄せた。
深く息を吐き、椅子に腰を下ろす。
額から滴り落ちる汗を拭いながら、ゆっくりと自分の拳を見下ろした。
(……全力で殴り合ったのに……俺の手は、赤くも腫れてもいない)
皮膚には裂傷も、内出血もない。
あれだけの衝撃を与え、相手を吹き飛ばした拳には――戦った形跡すら残っていなかった。
(これが……俺の“普通じゃない”証拠か)
勝利の実感よりも、異様な違和感が胸を占めていた。
控室の外から、担架が運ばれる音が聞こえてくる。
乗せられているのは、つい先ほどまで悠真と拳を交えていた神谷京介だった。
鋼鉄の鎧をまとったかのような能力者――その肉体は、今や全身にアザとひび割れのような損傷を刻まれている。
観客の声が漏れ聞こえてきた。
「神谷がここまでボロボロに……」
「鉄壁の京介を砕いたやつが出たって……マジか」
担架の上で、神谷は苦しげに息を吐きながらも、震える声で呟いた。
「……相原……次は勝つ……」
その姿に、悠真は拳を強く握った。
(……俺だけが無傷。俺だけが、異常なんだ)
ガチャリとドアが開き、仲間たちが雪崩れ込むように入ってきた。
「やっぱり化け物だな」黒瀬が真剣な顔で言った。「だが……その無傷の姿が一番恐ろしい」
「すげぇよ!」真田は目を丸くして声を上げる。「でも……ほんとに一発も効いてなかったのか?」
白鳥は呆然と拳を見つめ、「傷ひとつ……ない……」と小さく呟いた。
観客席の生徒たちも同じことを考えているようで、どよめきが絶えなかった。
「俺なんか壁に指ぶつけただけで腫れるのに!」外村が両手を広げてわざとらしく叫ぶ。
控室の空気に一瞬だけ笑いが生まれ、張り詰めた緊張が和らぐ。
一方で、観客席にいた上級生や教師たちは、別の色をした視線を投げかけていた。
三年の十支族のひとりが立ち去りながら、低く言い放つ。
「……本物の怪物か」
別の教師は腕を組み、仲間に耳打ちした。
「並の強化じゃない。いや、これは……身体そのものが、規格外なんじゃないか?」
上級生の一人が、口角を吊り上げて呟く。
「ランキング戦、荒れるぞ……」
称賛と畏怖が入り混じった空気が、悠真の勝利をさらに異質なものにしていた。
控室を出ようとしたとき、凛が立っていた。
その瞳は静かだが、内に炎を秘めているように鋭い。
「……あなた、本当に一撃も受けてないのね」
悠真は視線を逸らさず、淡々と答える。
「……受けていないわけじゃないんだ。攻撃を食らっても痛くないんだ...俺の体がどうなってるのか、自分でも分からない。でも、制御を学ばなきゃ……化け物で終わる」
凛は短く目を伏せ、それから静かに言葉を返す。
「――だから、目を離せないの」
それだけを告げて、彼女は観客席へ戻っていった。
悠真は一人残された廊下で、深く息を吐く。
拳を強く握り、胸の奥に渦巻くものを押し殺すように呟いた。
(……次は誰だ? 誰が相手でも、俺は逃げない。俺の拳で――証明してみせる)
無傷の拳は、恐怖と期待を抱えながらも、次の戦いに向けて熱を帯びていくのだった。




