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――どれほどの時間が経ったのだろう。
拳を振り下ろすたび、骨の芯まで震えるような衝撃が腕を駆け抜ける。何十回、何百回。数えることをやめてから、さらに長い。息は荒いはずなのに肺は痛くなく、足も震えない。痛覚だけが、どこか置き去りにされたみたいに鈍かった。
「……もう、限界……」
「でも、助けが来るって……本部が動いたってコメントで……!」
泣き腫らした目のクラスメイトがしがみつく声を上げる。監督冒険者は血を吐きながらも前に立ち、オーガの棍棒を半歩ずらして受け流した。ぎりぎりの綱渡り。
俺は、握りこぶしを見つめる。
(間に合うのか……? 本当に)
その瞬間、洞窟が低く唸った。
――轟音。耳の奥の骨まで震える重低音とともに、遠くの通路が白く膨張する。遅れて、涼しい風が頬を撫でた。
「下がって!」
澄んだ声が、一切の恐慌を切り裂いた。
銀砂を撒いたような光が、波紋になって押し寄せる。少女――天城凛が片手を胸前で組み、もう一方の手で空中をなぞると、透明な壁が幾重にも重なって生まれた。
結界は空気そのものを清めるみたいに、刺すような瘴気を洗い落としていく。呼吸が急に楽になる。
「……息が、しやすい……」
「音も、遠くなった?」
クラスの誰かが呟いた。モンスターの咆哮が、膜越しの雑音みたいにくぐもる。突進してきたオーガが結界に触れた瞬間、泥に足を取られたみたいに動きが鈍った。
「雷鳴、貫通」
凛の隣、金の瞳の少年――アシュベルが、短く言葉を落とす。次の刹那、洞窟は白昼になった。
軌跡だけを正確に撫でる稲妻が、前列のオーガの関節を順に焼く。無駄弾は一発もない。味方の影すら踏まず、必要な箇所だけを穿っていく。黒焦げになった巨体が、時間差で地に崩れた。
「後衛、制圧射!」
「盾、一歩前……今!」
プロ探索者の号令が飛ぶ。
大盾を構えた戦士が半身で通路を塞ぎ、火球を連射する魔導士が盾の肩越しに「面」を焼く。弓手は結界の継ぎ目を縫うように矢を通し、トロルの眼窩に針のような一撃を通した。詰めは短槍の探索者が、倒れた巨体の喉を最短手数で断つ。
無駄がない。誰もが自分の役割だけを完遂して、次の手へと渡す。
地元では見たことのない、部隊の戦い方だった。
「すげぇ……!」
「やっぱ帝都探索学園だ……!」
「プロの動き、桁が違う……!」
歓声が上がる。救われた、という涙混じりの声があちこちで弾けた。
――けれど、俺の胸の奥では別の音が鳴っていた。
(……俺が殴ったときは、一撃だった。
今のオーガなら、拳ひとつで壁まで沈む。
でも、彼女たちは――一撃じゃ、ない?)
喉が少しだけ渇いた。
彼らは空気を整え、軌道を計算し、役割を分け合って「確実」に削り取る。
俺は、ただ殴る。壊す。速い。雑だ。
同じ「倒す」なのに、まるで別の言葉みたいに遠かった。
結界の光がふっと緩む。最後の一体の咆哮が途切れて、洞窟に静寂が戻った。
天城凛がこちらへ歩いてくる。
血と焦げた匂いの中で、彼女だけがどこか澄んだ空気をまとっていた。数歩手前で立ち止まり、ためらいを一つ飲み込んでから口を開く。
「……あなた、一体、何者ですか?」
「え……い、いや、俺はただの――」
声が裏返る。喉が言葉を拒む。俺は自分でも、何なのか分からない。
「――冗談はやめろ」
すぐ横から、アシュベルの冷えた声。金色の瞳が刺す。
「そんな化け物じみた拳を、“ただ”で片づけられてたまるか。監督冒険者が押された相手を素手で粉砕?どうなっていやがる。」
クラスメイトたちが息を呑む。「……相原……」と誰かが名を呼び、視線を逸らし切れずに揺らした。
配信のコメントが視界の端で滝になって流れる。
《帝都とクラッシャーの初接触きた!》
《結界→雷→プロ連携の絵面が強すぎる》
《でも素手一撃の方が怖いの草》
《これ歴史の瞬間だろ》
拳が、ひとりでに固くなる。
言えない。わからない。胸の底に沈むその二つの重石に、言葉が潰される。
凛は一歩だけ近づいて、静かに俺の手を見た。
拳ではなく、手を。
そしてほんのわずかに、頷いた。
「……分かりました。今は訊きません。ここからは、私たちが送還の導線を作ります。あなたは――」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込む。俺の表情を見たのだろう。
代わりに、微かな笑みを浮かべる。
「みんなを、守ってください」
その声は、不思議と軽く胸に落ちた。
プロ探索者が安全エリアまでのルートに結界標を打ち、後衛が負傷者を担架に乗せる。
アシュベルが前衛に立ち、残滓のモンスターを稲妻で牽制するたび、洞窟は再び白く明滅した。
俺は最後尾の横で歩幅を合わせながら、何度も振り返る。拳の感覚が、まだ掌に焼きついて離れない。
(俺は――何者なんだ)
結界の光が揺れるたび、配信コメントが新しい波を作る。
《帝都×プロ×クラッシャーの同画面、強すぎ》
《この遠征、歴史に残るわ》
《クラッシャー、ただ者じゃないって公的にバレたな》
通路の先で光が広がった。
出口だ。
凛が振り返り、短く合図する。
「行きましょう」
拳を、そっと開いた。
指先が少しだけ震えていた。恐怖か、安堵か、分からない震え。
(俺は――違う。けど、今は)
守る。
それだけは、はっきりしていた。




