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封鎖区域・第十三層。
数カ月ぶりに、人の足音が響いた。
崩れた観測基地の残骸が、淡く光を反射している。
半壊した転移柱、焦げ跡の残る搬入口、散乱した魔石ケース。
それなのに、空気は不思議なほど澄んでいた。
温度は一定、湿度も安定していて――まるで時間が止まったようだ。
篠原が端末を確認し、静かに報告する。
「……気温二十二度、湿度五十八。魔力濃度だけが異常値か。」
凛が周囲を見回す。
「なのに、この快適さ。魔力が濃いと呼吸しづらいはずなのにね。」
リーメイが軽く頷く。
「でも、歩けるネ。空気も普通、匂いもしない。」
悠真が短く息を吐いた。
「……思ってたよりは普通だな。」
各国代表も、慎重に周囲を見渡しながら散開する。
アーサー・シルヴァが、崩れた壁を指でなぞった。
「理論上、この密度なら視覚にも干渉が出る。……なのに、透明だ。」
ダリオ・エルナンデスが小さく笑う。
「闇が透けてるって、妙な話だね。」
グレンデルが肩をすくめる。
「見えねぇ地獄よりはマシだろ。」
その会話の合間、遠くで何かが“鳴った”。
――いや、気のせいだ。
誰も振り返らない。音は、最初からなかったように消えた。
篠原が地図を広げる。
「この先が、本来の第十三層。観測班の記録では“境界異常”が多数――ただし、反応はすべて停止中。」
「停止してるなら、安心だな。」悠真が言う。
凛が呆れたように返す。
「あなたの場合、停止してても壊すでしょうが。」
どこか、落ち着きすぎている空間。
風も、気配も、感情も――まるでここだけ世界から切り離されたように、静かだった。
道は緩やかに下り、壁は黒曜石のように光を返していた。
崩壊した箇所を縫うように進むと、壁面に埋まった黒い魔石が、ゆっくりと脈打っている。
その光は鼓動のように一定で、まるで“この層そのもの”が生きているかのようだった。
だが、不思議なほど静かだった。
風もない。滴る音もない。
ただ自分たちの足音だけが響く――はずだった。
凛がふと立ち止まり、首をかしげた。
「……妙ね。足音が返ってこない。」
リーメイが少し首をかしげる。
「反響がない?」
アニルが、通路の壁に掌を当てた。
「音が“吸われている”。反射がない。脳が距離を測れなくなっている。」
悠真は肩をすくめて前に出た。
「不便だな。距離感なくても、殴れりゃいいけど。」
その軽口に、グレンデルが鼻で笑う。
「お前の拳が届く距離、全員で避けるのが大変なんだよ。」
空気は変わらず一定。冷たくも熱くもない。
嗅覚の刺激も、重力の変化もない。
進んでも進んでも、景色がほとんど変わらない。
“時間”という概念だけが、ここではぼやけていく。
アーサー・シルヴァが立ち止まり、壁の魔石に視線を向ける。
「この層、理論的には安定している。
なのに――“観測されてない”んだ。まるで……」
アニルがゆっくりとその言葉を継いだ。
「観測者がいない世界、か。」
その瞬間、空気が一度だけ止まった。
微かな圧が、悠真の耳の奥を打つ。
音が遠ざかり、世界が一拍、静止したように感じた。
悠真が振り返る。
何もいない。誰も動いていない。
だが、“何かに見られている”感覚だけが、そこにあった。
凛の声が、唐突に戻る。
「どうかした?」
悠真は一瞬、返事をためらって――
「いや……気のせいだ。」
そう言って、再び前を向いた。




