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戦闘も魔石もない、ただの朝。
制服に袖を通して外に出る。風がまだ冷たい。
――普通の空気って、こんな感じだったか。
思わずそんなことを考えてしまう。
教室に入ると、外村がすでにパンを両手に掲げていた。
「見ろ悠真! 購買の焼きそばパン、今日は三本勝負で制圧したぞ!」
「……制圧って言い方やめろ」
「いや、これ生存競争なんだよ。ダンジョンより危険!」
くだらないやり取りに、周囲から笑いが起きる。
その笑い声が妙に遠く聞こえた。
日常という名の、何か作られた安全圏にいるみたいで。
白鳥が席に戻ってきて、軽く手を振った。
「検査、まだ続くんだって。魔力の波形、ちょっとズレてるらしいよ」
「大丈夫なのか?」
「うん。多分ね」
笑うけれど、その笑みの奥には小さな不安があった。
魔石異常の件は、どこかでまだ続いている。
授業が始まる。
凛はいつも通り、姿勢を崩さずノートを取り続けていた。
時折、悠真を横目で見る。
「……眠そうね」
「ちょっとね」
「寝不足?」
「いや、たぶん――静かすぎて、逆に落ち着かないだけ」
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
午後、授業が終わるとリーメイがグラウンド裏で手を振っていた。
「ねぇ、少し打ち合わないアルか? 身体、鈍ってるネ」
「……まぁ、確かに」
二人で簡単なスパーを始める。
軽く拳を交わすだけの、緩いリズム。
しかし、三合目。
拳と拳が触れた瞬間――空気が一瞬止まった。
耳鳴り。砂が舞い上がり、風が遅れて流れた。
世界の時間が一瞬だけ、どこか別の速度で動いたように感じた。
「……今の、何?」リーメイが眉をひそめる。
「俺が殴る瞬間になんか加速した気がする」
彼女は拳を見つめ、静かに笑った。
「あなたの拳、やっぱり“壊す”だけじゃない気がするの。
何か、形を変えていく力……そんな感じ」
「形を、変える……?」
「うん。怖いけど、少し綺麗だった」
風が戻り、夕焼けの光が差し込む。
悠真の拳は、赤く照らされていた。
その光の中で、わずかに空気が揺れている。
――目に見えない何かが、確かに動いていた。
夕暮れ。
校舎の窓から吹く風は心地よいのに、どこか重たい。
空の端に、黒い雲のような筋が見えた気がした。
けれど瞬きをしたら、もう消えている。
悠真は拳を開いて、掌を見つめる。
「……俺、まだ何かを掴んでいない気がする...まだ、まだ強くなれるような、そんな感覚が...」
誰に言うでもなく、呟いた。




