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短編

王女さま、留年は二度までです!

作者: 河合ゆうじ

「――以上だ。次、セラ候補生、前へ」


アルノー教授の抑揚のない声が、チョークの粉がまだらに漂う講義室に響く。セラの目の前に返された政治史の答案用紙には、見たこともない珍獣みたいな点数が紙面で跳ねていた。観察は禁止標本だ。


セラは深く息を吐き、硬い椅子から立ち上がった。周囲の貴族の子弟たちが向ける、憐れみと嘲笑が絶妙な比率で混じった視線が痛い。平民出身でありながら、王立学園の近衛騎士科で実技首席を走る自分へのやっかみはいつものこと。だが、今日のこれは純度100%の憐れみだ。


「セラ候補生。君の剣の腕が学園創設以来の逸材であることは、私も聞き及んでいる。近衛隊長のエヴァ殿も、君を高く評価していると」


教授はそこで言葉を切り、老眼鏡の奥からセラを真っ直ぐに見据えた。


「だが、近衛騎士とは陛下の盾であると同時に、陛下の頭脳の一部でもある。歴史を知らず、法を解さず、ただ腕が立つだけの者を、玉座の側に置くわけにはいかん」


ぐうの音も出ない。セラの眉間に、ぐっと深い皺が刻まれた。剣の訓練であれば何時間でも集中できる。だが、インクの匂いが染みついた分厚い本を前にすると、どうしてこうも意識が頁の隙間に落ちそうになるのか。


「このままでは、進級は認められん。……本来ならば、だが」


アルノー教授は何かを言いかけて、口をつぐんだ。そして、重々しく告げる。


「放課後、近衛隊長室へ出頭するように。エヴァ隊長から、君に特別な任務が言い渡される。それを達成できれば、今回の赤点は不問としよう」


特別な任務? 補習ではなく? セラは訝しげに思いながらも、短く「はっ」と応え、自席に戻った。答案用紙を鞄に押し込む際、ぐしゃり、と嫌な音がした。隣の席の貴族令息が、くすくすと笑うのが聞こえる。セラはそれを一瞥で黙らせた。その視線の鋭さだけが、彼女が騎士候補であることを雄弁に物語っていた。


放課後、セラは言われた通り、近衛隊長室の分厚い扉をノックした。


「入れ」


中から聞こえたのは、凛とした、それでいてどこか面白がっている響きを持つ声だった。セラの上官であり、目標でもある近衛隊長エヴァ。


「失礼します。セラ候補生、参りました」


「うむ。まあ、かけたまえ」


エヴァは執務机から顔を上げ、セラに椅子を勧めた。その表情は、いつものように穏やかだが、口元が明らかに笑いをこらえている。


「アルノー教授から話は聞いているな。君の座学の成績は、実に……壮観だそうじゃないか」


「……形容が風景画みたいになってます、隊長」


「赤が見事でな。まるで紅葉狩りのようだ」


「見事なのは散り際だけです」


「まあ、そう固くなるな」エヴァは咳払いを一つすると、真面目な顔つきに戻った。「君にはそれを克服してもらう必要がある。――安心しろ、王命だ」


「王命、でありますか?」


セラの背筋が伸びた。一介の候補生に、国王陛下からの直接の命令。ありえないことだ。


「そうだ。だいたいの問題は“王命”でどうにかなる」


「だいたいの倫理が死にます、隊長」


エヴァはセラのツッコミを軽く無視し、続けた。「セラ候補生、君に命じる。本日付で、リディア・フォン・エルツハイム王女殿下の“勉強相棒”となれ」


「……は?」


リディア王女。この国の第一王女にして、唯一の王位継承者。そして、セラとは別のベクトルで、学園の有名人だった。その自由すぎる振る舞いと、アルノー教授の政治史の授業をサボる常習犯として。


「王女殿下は、政治史の単位取得が絶望的だ。もし、今回も単位を落とされれば、二期連続の落第となる。王家の定めにより、そうなれば殿下の王位継承権は一年間凍結。その間の国政は、王家評議会に委ねられる」


エヴァは淡々と説明する。それはつまり、保守派の貴族たちが権力を握るということだ。


「王女殿下の補習、ということでありますか。ですが、なぜ私が。ご覧の通り、私は……」


セラは自分の鞄を指し示す。中にはあの壮観な答案用紙が眠っている。


「君が適任だからだ。殿下は、ただ家庭教師をつけたところで、三日で飽きて窓から逃げる。だが、君は近衛騎士候補だ。任務として命令すれば、君から逃げることはできん。そして……」


エヴァは悪戯っぽく笑った。


「君もまた、政治史で落第寸前だ。これほど“対等な”相棒はいないだろう? いわば共犯者だ」


「相棒というより共犯者、という心の声が聞こえました、隊長」


「よろしい。では、早速向かってもらう。殿下は今、旧図書館の第二閲覧室におられるはずだ。健闘を祈る」


旧図書館の第二閲覧室は、高い天井から柔らかな光が差し込む、静謐な空間だった。巨大な書架の迷路を抜け、一番奥の窓際の席に、その人はいた。


夕陽を浴びて輝く蜂蜜色の髪。机に突っ伏して、すやすやと寝息を立てている。その傍らには、開かれたままの分厚い政治史の教科書。これが、リディア王女。


セラは足音を殺して近づき、机をコン、と軽く叩いた。


「リディア王女殿下」


「ん……むにゃ……あと五分……あと五年でも可」


「王命はスヌーズ機能がありません、殿下」


「最新の王命でも?」


「最新でも鳴り続けます」


その時、すっと背後から影が差した。いつの間に現れたのか、眼鏡を光らせた図書館司書が、人差し指を口に当てている。


「お静かに。王命も小声で」


セラと、いつの間にか起きていたリディアは、二人そろってこくこくと頷いた。


リディアは眠たげに目をこすり、セラを頭のてっぺんからつま先までじろじろと観察する。


「あなたが、私の見張り役? 近衛の制服……ああ、噂のセラさんね。剣術首席、座学は赤点常連の」


「噂は正確なようで」


「ふうん」リディアは何かを面白がるように、口の端を上げた。「いいわ。付き合ってあげる。でも、私からも条件がある。あなたが私に勉強を教えるって言うなら、私もあなたに何かを教えてあげる。それじゃなきゃ、フェアじゃないでしょ?」


「ですが、私が殿下にお教えできることなど……」


「あるじゃない。剣術。私、自分の身くらい自分で守れた方がいいと思ってるの。だから、あなたが私に歴史を教える時間、私もあなたから剣を教わる。どう?」


セラは考え込んだ。王女に剣を教える。前代未聞だ。だが、この王女は、ただの怠け者ではないのかもしれない。その瞳の奥には、退屈とは違う、何かを探求するような光が宿っていた。


「……一つ、訂正を」セラは口を開いた。「私が殿下に勉強を教えるのではありません。私も、赤点です。だから、これは……」


「一緒に赤点脱出を目指す、運命共同体ってこと?」


「まあ、そんなところです。任務の目標は、学園祭の『公開弁論会』で、殿下を勝利に導くこと。それを達成すれば、私たちの単位も救われます」


「わかったわ。じゃあ、契約成立ね」


リディアはそう言って、すっと右手を差し出した。セラは一瞬ためらった後、その小さく、柔らかな手を、自分の硬い手で握り返した。


「ねえ、もう“あんた”でいい?」リディアが尋ねた。

「公務中は“私”、二人のときは“俺”。それで」

「了解、相棒」


こうして、近衛騎士候補と落ちこぼれ王女の、奇妙な相互教育契約が始まった。


* * *


「いいですか、殿下。歴史上の出来事を覚えるコツは、要点を見切ることにあります。剣の試合と同じです。狙うべきは、相手の重心、つまり“核”となる一点です」


翌日の放課後、旧図書館の一室で、セラは大きな黒板の前に立っていた。チョークを握る手つきは、まるで剣を構えるように真剣だ。


「例えば、この『麦畑戦争』。原因、経過、結果、影響……教科書にはごちゃごちゃと書いてありますが、核は一つです。『食えない平民が、輸出用の麦を独占する貴族にキレた』。以上です」


「ずいぶんと思い切った要約ね。でも、わかりやすいわ」


「歴史は要点を斬る。枝葉は後回しです」セラはチョークを刀のように構え直した。「一太刀・三分割。幹、原因、利害――」


スパッ、スパッ、スパッ! セラが目にも留まらぬ速さで黒板に三本の線を引くと、そこには見事に三分割された空間が出来上がっていた。


「黒板居合い……」リディアが呆気に取られて呟く。


「黒板はきれいに三列に割れた。」


どこからともなく現れた司書が、無表情にメモを取っている。「粉、飛びすぎ。罰金は三分割。粉は1g1枚です」


「相場より高いわね」リディアが小声で抗議した。


「幹が立ってからにしてください」セラは司書を無視して続けた。「宿題は枝葉です」


一時間後、場所は変わって学園の訓練場。今度はリディアが“先生”だった。


「セラ。あんたが政策の背景を理解できないのは、そこにいる“人”の顔が見えていないからよ」


リディアは木剣を握っているが、構えはふにゃふにゃだ。


「例えば、さっきの国内備蓄法。教科書には『国民の安定のため』なんて書いてあるけど、本当のところはどうかしら。この法律で得をしたのは誰?」


「……国民、では?」


「もちろん、そう。でも、もっと得をした人たちがいる。それはね、まるで親戚の集まりの席順みたいなものよ。一番上座に座るのが国王、その隣に、倉庫を建てる建設ギルドの親方、向かいには麦を管理する役人のお偉いさん。末席には、輸出で儲け損ねた大貴族がふてくされて座ってる。その力関係が、法律の条文一つ一つに影響するの」


「……非常に分かりやすいですが、不敬スレスレの例えです、殿下」


「政治っていうのは、そういう生々しい利害関係者の地図なのよ。あんたが戦場で敵の配置を読むのと同じ」


セラは目から鱗が落ちる思いだった。無味乾燥な法律の条文の裏に、そんな生々しい人間模様が渦巻いていたとは。


「では、実践です。構えて」セラは木剣を構え直した。


「えいっ――あ、フードが剣に」


リディアが振りかぶった木剣は、見事に自分のケープのフードに引っかかった。


「……まずは装備の解除から始めましょうか、殿下」


「脱線の講義ね」


「違います、“脱”装備です」


そんなある日、彼らの静かな「机上の剣戟」に、招かれざる客が訪れた。生徒会長のフェリクスだ。


「――これはこれは、王女殿下。近衛候補生を侍らせて、何やら熱心なご様子」


銀縁の眼鏡の奥で、冷たい瞳が光っている。


「近々、有志による模擬討論会を開こうと考えておりまして。テーマは『伝統的ギルド保護政策の是非』。王女殿下にも、ぜひご参加いただきたい」


あからさまな挑戦状だった。数日後、模擬討論会が開かれた。


「……伝統的ギルドは、我が国の職人技術の根幹を守ってきた、重要な存在です。これを緩和することは、国の土台を揺るがす愚行に他なりません!」


フェリクスは、立て板に水のごとく、ギルド保護の重要性を説く。理論武装は完璧で、聴衆の多くが頷いている。やがて、リディアの番が来た。


「フェリクス生徒会長のお話は、大変勉強になりました。ですが」リディアは穏やかに続けた。「礎は動きませんが、国は動きますわ。先日、私は城下町の革細工の店を訪れました。店主の老人は、素晴らしい腕を持っているのに、ギルドの規則が厳しすぎて新しい技術を取り入れられず、跡を継ぐはずだった息子さんは街を出てしまった、と嘆いていました。守るべきは制度ではなく、そこに生きる人々の未来であるはずです」


一つの具体例が、フェリクスの完璧な理論を揺るがした。会場の空気が変わる。


セラは壇上のリディアを見つめ、小声で呟いた。


「(ツッコミが上手くなってきた……)」


結果は、リディアの辛勝。その帰り道、フェリクスが氷のような声で囁いた。


「覚えておくといい。あなたの三度目の留年、つまり、王位継承権の凍結は、もはや既成事実となりつつあるのですから」


それは、紛れもない脅迫だった。セラはリディアの前に半歩出て、静かに返した。


「脅しは短文で。論は長文で」


フェリクスは一瞬言葉に詰まり、忌々しげに二人を睨みつけて去っていった。二人の戦いが、ただの学内行事ではないことを、改めて思い知らせる一幕だった。


* * *


模擬討論会での辛勝は、リディアに自信を、そしてセラに危機感を与えた。フェリクスの脅迫は、彼らが本物の政争の渦中にいることを示していた。


「もっと情報が必要だわ。来週の市場見学の課外授業、絶好の機会よ」


「危険です」と即座に反対するセラに、リディアは「だから、あんたがいるんじゃない」と屈託なく笑う。結局、セラは護衛を厳にすることを条件に、それを了承した。


課外授業当日、二人は質素な街着に着替えて市場に紛れ込んだ。リディアはフード付きのケープで髪を隠し、幾つもの露店を巡っていく。中でも熱心に話を聞いていたのは、一軒の果物屋だった。


「やあ、お嬢ちゃん。また来たのかい」と声をかけてきた主人に、リディアは「最近景気はどう?」と尋ねる。


「さっぱりだよ。なんでも、学園の奨学金が、最近は貴族の子にばかり回されて、平民にはなかなか下りないらしい」


リディアの表情が、すっと変わる。彼女は店主にいくつか質問を重ね、丁寧に耳を傾けていた。その横顔から、セラは目が離せなかった。


帰り道、リディアは興奮気味に話した。「聞いたでしょう、セラ。奨学金の配分が不透明。これは使えるわ。フェリクスたち保守派の牙城を崩す、突破口になるかもしれない」


その数日後、セラの座学の小テストの結果が返ってきた。結果は、またしても壮観な赤点。リディアとの勉強で少しは理解が進んだはずなのに、いざテストとなると頭が真っ白になる。


訓練場の隅で落ち込むセラに、リディアが声をかけた。


「そんなところで、何を油を売っているのかしら」


彼女はセラの答案用紙を覗き込む。「なるほどねえ。応用問題で全滅してる。これって、剣の試合で言うと、素振りは完璧なのに、乱戦になった途端にパニックになるタイプね」


「……その通りです」


「じゃあ、発想を変えましょう」リディアはにやりと笑った。「いい? この『三十年和平条約』の背景を覚えたいなら、これを『敵将との一騎打ち』に例えるの。各国の交渉は剣の探り合い。譲歩案は相手の攻撃をあえて受けて隙を作る布石。そして調印は、喉元に切っ先を突きつけた瞬間。どう?」


セラは目を見開いた。文字の羅列だった条約が、鮮やかな剣戟のイメージへと変換されていく。


「……すごい」


「でしょ? あんたはあんたの得意な形で理解すればいいのよ」リディアはそう言って、セラの頭をぽんと軽く叩いた。その不意の接触に、セラの心臓が大きく跳ねた。「どういたしまして。私たちは“相棒”なんだから」


リディアは屈託なく笑う。二人の距離は確実に縮まっていた。


しかし、セラはずっと気になっていることがあった。学園の書記を務めるミーナという女生徒のことだ。リディアが奨学金の記録について調べようと声をかけた時、ミーナは明らかに何かを恐れるように視線を泳がせ、協力を断ったのだ。


(彼女は、何かを隠している)


フェリクスの脅迫、奨学金の不透明な噂、そしてミーナの怯えた態度。点と点が、まだ線にはならない。だが、その点の一つ一つが、不穏な影を落としていることだけは、確かだった。


* * *


「ミーナさん、お願い。奨学金の支出台帳を見せてほしいの」


放課後の生徒会室。リディアの必死の説得に、書記のミーナは青ざめた顔で首を横に振るばかりだった。


「で、できません……。会長の許可なく閲覧することは……」


「フェリクス生徒会長に、脅されているのではないか」


セラの静かな一言に、ミーナの肩がびくりと震えた。図星だった。彼女はついに泣き崩れ、フェリクスの指示で奨学金の支出台帳を改竄させられていたことを告白した。本来、平民の生徒に渡るはずだった奨学金が、保守派貴族の子弟に優先的に回されるように、記録を二重に作成していたのだ。


「私の家は、父の代からフェリクス様のご実家にお世話になっていて……逆らえなかったんです」


「なんて卑劣な……!」リディアは怒りに唇を震わせた。


その数日後、学園祭の公開弁論会の正式な議題が発表された。『王立奨学金制度の再設計について』。フェリクスが先手を打ってきたのだ。彼の取り巻きたちが、得意げに噂を流しているのが聞こえてくる。


「聞いたか? フェリクス会長の改革案。奨学金の原資は貴族の寄付なのだから、その恩恵はまず由緒正しき家柄の子弟に与えられるべきだ、と。これで財源も安定するし、我々の立場も安泰だ」


「さすが会長、我々のことをよく分かっていらっしゃる」


「やられたわ。私たちが不正を暴く前に、彼が改革者のフリをするなんて」リディアは悔しげに唇を噛んだ。


「どうする、殿下」


「正攻法でいくわ」リディアの瞳に決意の炎が燃え盛った。「私たちがやるべきことは一つ。真実を、白日の下に晒すことよ」


彼女の作戦は、これまで奨学金を受けられなかった平民の学生たちから徹底的に聞き取り調査を行い、客観的なデータとしてまとめ上げ、フェリクスの不正の証拠と突き合わせるというものだった。


「現場ヒアリングと、公開データ化……」


「そう。私たちの主張が、絵空事ではないことを証明するために」


リディアの宣言に、模擬討論会で彼女に心を動かされた学生たちが集まり始めた。リディアは彼らをまとめ、的確に指示を出す。その姿は、もはや奔放な王女ではなく、人々を率いるリーダーそのものだった。


セラは彼女の警護と、集まる膨大な情報の整理に徹した。夜遅くまで、二人で図書館にこもり、議論を重ねる日々が続く。


「ここのデータ、少し弱いな。この学生の父親の職業が、保守派の議員と対立する組合に所属していることを書き加えれば、奨学金を止められた動機がより明確になる」


「なるほど……。セラ、あんた、すっかり政治史の鬼ね」


「あんたのおかげだ」


二人は顔を見合わせ、笑った。疲労はあったが、それ以上に充実感があった。


弁論会を数日後に控えた夜、ついにデータは完成した。その時、ミーナがおずおずと一枚の鍵を差し出した。


「これは……会長室の金庫の合鍵です。以前、私が管理を任されていた時に、万が一のために作っておいたもの……。私も、戦わせてください」


ミーナの瞳には、もう怯えの色はなかった。すべてのピースが、揃った。決戦前夜、リディアとセラは山積みの資料を前に最後の打ち合わせをしていた。


「これでよし。あとは明日の本番ね」リディアが大きく伸びをした。


「殿下、一つよろしいですか」


「なあに?」


「例の『王命カード』ですが、あれは本当に何にでも使えるのですか?」


「ええ、そうよ。父上が『困った時はこれを使え』って。まあ、ほとんどジョークだけど」


「なるほど」セラは真顔で頷くと、すっと立ち上がった。「王命です、殿下。今すぐお休みください。明日のために、体力を温存するのです」


「……王命の私的利用!」


「これも公務の一環です」


セラの真面目すぎるボケに、リディアはとうとう噴き出してしまった。緊張が、少しだけほぐれた夜だった。


* * *


学園祭当日。大講堂は期待と不安が渦巻く熱気に包まれていた。壇上には自信満々のフェリクスと、静かな闘志を宿すリディア。セラの席は、壇上のすぐ脇だ。


会場はざわめき、期待と不安が入り混じった空気が満ちている。司会者がマイクの前に立ったその時。


キイィィィィィィィンッ!!


凄まじいマイクの悲鳴が、一秒間、講堂を劈いた。聴衆が耳を塞ぎ、顔をしかめる。その混乱の頂点で、セラの声が雷鳴のように響き渡った。


「全員――静粛に!」


それは訓練で腹の底から叩き出された、反射的な号令だった。講堂にいた全員が、貴族も平民も教授も、条件反射でびしっと背筋を伸ばし、静まり返る。


「……失礼。訓練が出ました」


セラは我に返り、小さく頭を下げた。舞台袖から、図書館司書が顔だけをひょっこり出し、冷たく告げる。


「お静かに。マイクも」


一瞬の静寂の後、会場のあちこちから堪えきれない笑いが漏れ、張り詰めていた空気が和らいだ。


弁論会は、フェリクスの演説から始まった。「我々の伝統と秩序を守るために! 奨学金制度は、国の礎たるべき者たちのために運用されるべきなのです!」保守派の席から、熱狂的な拍手が上がる。


次に、リディアの番が来た。彼女はゆっくりとマイクの前に立つ。


「私は、フェリクス生徒会長の言う『国の礎』とは、一体誰のことなのかを問いたい」


その静かな第一声に、会場がしんと静まり返る。だが、彼女が本題に入る前に、フェリクスが動いた。


「その前に! リディア王女殿下が、不正に過去の試験問題を入手していたという密告書が、ここにあります!」


司会者が高く掲げた羊皮紙に、会場は「カンニングだ!」という野次で大騒ぎになった。フェリクスが、してやったりという表情でリディアを見ている。


しかし、リディアは動じない。彼女がセラに目配せすると、セラが壇上に上がった。


「静粛に!」セラの声が再び講堂の喧騒を切り裂く。「密告書? ではこちら、“密告書より密な図書館の監視記録”です」


セラが分厚いファイルを掲げると、聴衆席にいたはずの図書館司書が、いつの間にか隣に立っていた。


「延滞料の記録も付いてます。王女殿下、先月の歴史書、三日延滞です」


「……それは削除で」


リディアが小声で呟き、会場からくすくす笑いが漏れた。


セラは続ける。「そして、筆跡。専門家をお呼びしてあります」


呼ばれて現れたのは、白衣を着た小柄な老人だった。彼は、信じられないほど巨大なルーペを取り出すと、密告書とおもむろにリディアの原稿を見比べ始めた。


「うむ、うむ……」老人は大げさに頷くと、高らかに宣言した。「これは“違う筆”! しかも、この密告書の文字は……“焦り筆”じゃ!」


「「「焦り筆?」」」


会場がざわめく。「あるの? そういうの?」という声が聞こえる。


「あるとも!」老人はルーペを掲げる。「追い詰められた人間の書く文字は、線が震え、インクが滲む! これは、捏造がバレることを恐れた者の筆跡じゃ!」


「ふん、素人の戯言を」フェリクスが鼻で笑った。「鑑定の妥当性を問う!」


すると、老人はルーペを置き、静かに言った。


「専門的に言うと、始筆と送筆の角度が合わん。文字の入りと抜きの力加減が、本来の書き手の癖と全く異なる。筆圧曲線も不一致。手が震えるとカーブが甘くなる。だから“焦り筆”。……これでも、戯言かね?」


専門的な解説に、フェリクスはぐっと言葉に詰まった。過剰な演出と、揺るぎない事実。その合わせ技に、会場の空気は完全にリディア側に傾いた。


「さて、茶番は終わりです」


セラがフェリクスを一瞥し、席に戻る。再びマイクの前に立ったリディアは、奨学金の不正な流用経路を示す図表を掲げ、フェリクスの罪を告発した。そして、所得基準の明確化、公開審査、監査輪番制を盛り込んだ、具体的で公平な改訂案を提案した。


「学ぶ権利は、生まれや身分によって測られるものであってはなりません!」


リディアが頭を下げると、地鳴りのような拍手が講堂を揺るがした。しかし、審査員席の保守派の重鎮たちの表情は硬い。採決は僅差にて、持ち越しとなった。フェリクスはまだ、最後の妨害を諦めていなかった。


* * *


採決が持ち越しとなった夜、リディアの陣営に、ミーナが血相を変えて飛び込んできた。


「大変です! 証拠の原本、奨学金の二重記帳された台帳が……生徒会室から消えました!」


「フェリクスがやったんだわ」


リディアが呟いた時、セラが静かに立ち上がった。「ミーナさん、フェリクスは今どこに?」


「おそらく……学園の裏手にある、古い焼却炉へ……」


セラは「殿下、すぐに戻ります」とだけ言い残し、夜の闇に消えた。


学園の裏手、月明かりの下で、セラはフェリクスを見つけた。彼は数人の取り巻きと共に、台帳を焼却炉に投げ込もうとしていた。


「そこまでだ、フェリクス」


「セラ候補生……しつこい女だ。やれ!」


取り巻きたちが木剣を手に襲いかかるが、セラの敵ではなかった。舞うように彼らをいなし、的確に急所を打ち据えていく。数分後、取り巻きたちは全員、地面に伸びていた。


「火の用心」


セラは近くにあった消火用の水桶を、彼らの足元へコトンと静かに置いた。残るは台帳を抱えて後ずさるフェリクスだけだ。


「化け物め……!」


「道を誤ったのは、君の方だ」


セラは静かに歩み寄り、フェリクスの手から台帳を奪い取った。


翌日の再審議の場。会場の扉の前で、守衛が立ちはだかった。


「身分証を――」


セラは守衛の耳元で囁いた。


「王命です(小声)」


守衛は、はっとした顔で姿勢を正すと、さらに小さな声で返した。


「王命なら通れます(さらに小声)」


「書面は後ほど」


セラが真顔で応じると、守衛はこくりと頷いた。その時、なぜか二人の背後にいた司書が、すっと人差し指を立てた。


「お静かに」


審議室の扉が開かれる。フェリクスは、証拠が消えたことを盾に、リディアの告発は誹謗中傷だと主張していた。


「異議あり!」


リディアが、セラとミーナを伴って堂々と入室した。セラの腕には、あの黒い台帳が抱えられている。


「フェリクス生徒会長が“紛失”したと主張する台帳の原本は、ここにあります」


さらに、リディアは商人ギルドの証人や、ミーナ本人という決定的な証拠を突きつけた。ミーナは震えながらも、フェリクスに脅されたすべてを、自分の言葉ではっきりと証言した。


もはや、誰もフェリクスを弁護する者はいなかった。リディアの奨学金改訂案は、圧倒的多数で可決。アルノー教授は、厳しい顔ながらも、リディアの答案に「優」の評価を書き込んだ。留年は回避され、フェリクスは失脚した。


すべてが終わった後、夕暮れの旧図書館で、リディアとセラは二人きりだった。


「あんたがいなければ、勝てなかった」


「俺も、あんたがいなければ、今頃は壮観な赤点のままでした」


二人は、しばらく黙って、窓から差し込む最後の光を見ていた。やがて、リディアがそっとセラの手に、自分の手を重ねた。


「私たちの学びは、ここからが始まりよ。国を変えるには、まだまだやることがたくさんあるんだから」


「……ええ。二人で、続けましょう」


セラは、その手を優しく握り返した。友情と、それ以上の何かが混じり合った、温かい感情が胸に広がる。


* * *


数週間後。学園の掲示板には、新しい規則に則って審査された、奨学金受給者のリストが張り出されていた。そこには、家柄に関係なく、努力した者が正当に評価された証として、多くの平民の学生の名前が並んでいた。誰もが、その結果を、晴れやかな顔で見上げている。


掲示板の隅には、一枚の新しい貼り紙があった。

『【学内通達】王命も小声で。— 図書館司書室』


通りかかったアルノー教授が、リストを眺めてぽつりと呟いた。

「今年は紅葉より、合格印が壮観だ」

「……見頃が変わりましたね」

教授の背中に、セラが小さく応えた。


「見て、セラ」リディアがリストを指差した。「平民の名字が一列で並ぶと、国の地図に見える」


「赤は、もう成績表じゃなくて合格印だけにしたいものだな」


セラが呟くと、隣で見ていたリディアがくすくす笑った。


「いい色に使えるようになったわね、赤」


訓練場では、少し変わった光景が見られた。セラが、リディアに“礼式剣”の型を手ほどきしている。


「学ぶことは、守ることだ。今日の訓練は“読み合わせ”から始めよう」


「違う、殿下。剣先が震える」


「むずかしいこと言うわね。じゃあ、こっちも添削してあげる。このあんたの原稿、表現が硬すぎるわ」


「心は震えていい、剣は震えるな」


セラの優しい声に、リディアは頬を少し赤らめた。二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。剣先が止まり、黒板の白がふっと舞った。


「ねえ、セラ」


「はい、殿下」


「私たちの合言葉、覚えてる?」


リディアが、にやりと笑う。セラも、心得たというように、口の端を上げた。


「王女さま、留年は――」


リディアはスッと手を挙げ、満面の笑みで答えた。


「――もうしません!」


その瞬間、なぜか訓練場の隅を通りかかった司書が、ぴたりと足を止めた。


「屋外も、一応図書館の延長です。お静かに」


二人「「延長の定義が広い!」」


彼女たちの、賑やかで、そして希望に満ちた日々は、まだ始まったばかりだ。

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