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70 別離(2)

【数刻をさかのぼる―…】



王宮へ連行されたレイムナートを待っていたのは春の女王となったリナーチェであった。


行き先は牢獄かと思っていたその目の前に、あの目障りな女の姿を見てレイムナートは手間が省けたと感じた。もう一度ここで殺しておけば面倒がなくなるからだ。


幸いこの部屋には女王と自分の二人きりである。しかし彼にとっては護衛が何人いようといまいとなんら変わりはない。まとめて凍らせてしまうだけだ。冷たい殺意を漲らせる気配を気づいているのかいないのかリナーチェはにっこりと暖かい春のように微笑みかけた。


「まあ、相変わらず本当に物騒ね、忌まわしい冬の国の将軍?そのくせいままででかい顔してあたしの国にのさばっていたなんてどういう神経かしらぁ?」


挑発めいた言葉にもかまわずレイムナートはその右手に凍てつく刃を発現させようとした。


瞬間、その息がつまる。


周囲の空気が唐突に希薄になったのだ。


「お前、ずいぶんあたしを見くびったわね?…ああでもそうね、以前のあたしは眷属三人も抱えてたんだものねぇ、やっぱり眷属なんていない方がいいのかしら?」


呼吸を強制的に止められたレイムナートの顔面が蒼白となった。震える体を抑え、噛みしめる唇の端から血が滲む。


「そうそう、風をあやつるなかには、こういう事も出来るの」


レイムナートをとりまく空気を奪いながらリナーチェは美しく微笑んだ。


「これからお前は、あたしが施す風だけで生きていくのよ?」


震え微動だにできない男の胸板に指先を添えて腕をまわし抱きしめる。そうしてふと離れて、意味深な微笑を浮かべながらその口元はさながら邪悪なものであるようにゆがめ、その傍を離れて行った。


レイムナートの周囲は完全な真空となっていた。


真空は音を通さない。すなわち、何一つ、物音ひとつ彼には届かないのだ。呼吸は途絶え、空気を取り込めない以上無暗に動く事などできない。


その瞬間、なぜか頬にわずかに冷気を感じた気がした。


それはあの愛しいアリーシアの吐息にとてもよく似ている。


(ああ、アリーシア…!)


たとえ彼女が私を愛さなくても構わない。


何であろうともこの手で排除し、彼女の心を手に入れるまでは!


そうして再び忌まわしい女の顔が近づいてきた。今渾身の力を振り絞れば斬りつける事ができるだろうか。力を漲らせると、唐突に真空状態が解かれた。息を吸い込み、突然の空気に肺がふくらみ鋭く咳き込む。それでもレイムナートは女の前で膝をつくことはなかった。


無呼吸状態を強いられ充血した目で鋭くリナーチェを睨みつける。



その憎悪と殺意に満ちた眼にもとくに怯むことなくリナーチェは軽やかなステップで窓辺に寄り、あら、と小鳥の様な声をあげた。


「あらあらまあまあお姉さまったら、もう次を見つけたのね?」


嘲笑うようなその声にレイムナートは素早く窓辺に寄って見下ろした。


その視界には、あのアリーシアが褐色の肌をもつ人物と寄り添う姿が目に入った。


レイムナートは愕然とした。


彼女はここに、王宮にきていたのだ!


あのいまいましい夏の女王が手引きしたのか。


そうしていま再び私のアリーシアを連れて行こうとしている!


ここまで来たのであれば、間違いなく私に会いにきているはずなのに どうして…


そう思いいたった時、さきほどの空気を奪われた瞬間を思い起こした。


(彼女は私に話しかけていたのだ!そうに違いない!)


全身がわななくほどの衝撃が貫いた。


(では彼女は私に別れの言葉を言うために来たのか―!)


噛みしめる唇から再び血が滲む。


そうはさせない。絶対にそうはさせるものか!!


部屋を飛び出そうとするレイムナートの身体が時が止まったかのように静止した。


再びリナーチェがその空気を奪ったのだ。


「あらあらどこへ行く気?あなたの愛しい婚約者はあたしなのよ?結婚式はもうすぐなんだから、おとなしくしてて頂戴」


にっこりと人差し指で硬直するその男の唇をつつく。


レイムナートはぎらりと殺意に満ちた双眸を向け


「…誰が貴様なぞの眷属になどなるか…」


振り絞るような低い声を響かせた。


きょとんとその愛らしく丸い金色の瞳をリナーチェは輝かせ、そうして弾かれたように笑い出す。


「あはははは、やだぁ、まさかほんとにあたしの眷属になるつもりだったの?意外とお前は純粋なのねえあはははっ」


ひとしきり笑った後小指で目じりを軽くこすりそうしてふっ、と真顔になってその顔を寄せた。


「眷属なんてもういらないわ、お前はただ、あたしと結婚して国中に眷属になったかのように触れまわるだけの存在よ」


レイムナートは目を見開いた。


「ああ、でもそうねえ…お姉さまはこれから国に帰って、女王に覚醒するわ。そうしてどう思うかしらねえ…」


とんとんと丸いほっぺを指で突きながら思案気にリナーチェが首をかしげる。


「自分の唯一の伴侶が他国の女王に跪いて眷属になってるなんて知ったら」


その愛らしい口元が弧のように歪んだ。


「お姉さまはとても潔癖だもの!きっと許せないわよね!!間違いなくお前は眷属の契約を破棄されるわ!!」


空気を奪われ体中を震わせ苦悶に満ちる男の目の前で、春の女王はくるくると軽やかに踊った。そうしてぴたりと止まり、優雅なしぐさで部屋を出て行く。去り際に女王は微笑みながら告げた。


「お前がお姉さまの眷属を降ろされたら、あたしもお前を解放してあげる。良かったわね。その時はもう、お前は何者でもない、ただの醜く痩せ衰え老いさらばえた一人の男よ」


遮断された空気が再び戻り、男は静かに呼吸した。


その双眸は、深く凍り付いた地の底よりもなお暗く冷たく陰っていた。

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