66 幸福の吐息
「くそっ…どいつもこいつも…っ!」
暗い路地裏にかつて眷属であったアンソスの姿があった。
その姿は薄汚れみすぼらしく、人目を避けながらひっそりとディオンの屋敷へと向かっている。
ハイノスの采配で一瞬にしてアンソスの失脚は貴族間に広まった。
昨日までは媚びていた連中が今日になって手の平を返し蔑みの眼で見下してくる。
「このままで終われるか…っ」
アンソスの瞳に憎悪が宿った。同じく失脚したディオンと手を組むしか他に道はない。これまでうなるほどあった富も全てが女王に没収されてしまった。親族もみな爵位を剥奪され、ある者は絶望のまま自死し、ある者は手あたり次第の金をかき集めて他国へ逃亡し、そしてある者はよほど恨みを買っていたのか、もはや行方がわからない。
アンソスもまた殺されてしまうかもしれない。その恐怖におびえながらこの薄汚い平民さえも近づかない路地裏をひっそりと忍んでいる。
(とにかくディオンに会えば、なんとかなるだろう…)
アンソスはそう楽観視していた。
今までがそうであったように。
そうして路地裏を抜けようとした途端、目の前が真っ暗になった。
「!?」
顔に布をかぶせられ、手足を拘束される。アンソスはもがくが、その瞬間みぞおちに衝撃を受けそのまま昏倒した。
ほどなくして痛みにアンソスは我に返った。
殴られたみぞおちを押さえようとすると自分が後ろ手に縛られている事に気づく。あたりは真っ暗で何も見えない。空気が淀んでいる感じからどうやら小屋の中のようでもある。
そうして目の前で、ふっ、と人がほくそ笑む息が聞こえた。
「だっ、誰だ!」
床に転がされたアンソスは身を起こすこともできず、じたばたともがくしかない。
するとぱちん、と指を鳴らす音が響いた。それと同時に、ほの赤い明かりがともされる。ぼんやりと見えてきたのは、箱の上で足を組んでいる大柄な人影だ。
アンソスは息をのんだ。ついに貴族が雇った暗殺者なのだと。
「よお、アンソス」
しかしその声は快活で明るい。
よく目を凝らすと、その人影は褐色の肌、黒い髪、眼帯に赤く燃え盛る瞳
(…っ!夏の女王…っ)
アンソスは戦慄した。
「どうした、俺がこんな所に居るのは意外か?」
夏の女王、ジェットはにっこりと人懐こく微笑む。
アンソスは震えるばかりで言葉も出ない。
「そう怖がるなよ。俺はお前に会いに、わざわざここまで来てやったんだぜ?」
じゃり…っとおもむろにジェットは立ち上がり、アンソスの傍に寄り、その肩を親し気に叩く。
そして唐突にその金色の髪を掴み上げ、口に無理やり手にした透明のガラスの飲み口を押し込んだ。
えずきながら無理やり飲まされたのは、あやしく紫色に光る液体。全てを押し込んだ後、そのガラス容器を壁に投げつける。鋭い音をたててそれは粉々に砕け散った。
「よくもこんな毒で俺の国を腐らせやがったな」
えずき、吐き出そうと苦しむアンソスの髪を掴み上げ、ジェットは底冷えのするような声とともに怒りに燃え盛る赤い瞳で見下ろした。
『幸福の吐息』
あやしく光るこの紫色の液体はそう呼ばれていた。
飲めば多幸感を得られ、気分は高揚し、疲労感はなくなり感覚は研ぎ澄まされ、深い快感を得ることが出来る。
だが依存性が高く、中毒に陥れば幻覚幻聴妄想、強度な不安で暴力的になりいずれ死に至る、おそろしい毒である。
原材料はすべて春の国に自生する植物に限られる。
だがこれが開発された時、春の女王は全面的にこの流通を禁じた。
女王は国を愛し、民を愛するからである。
だが眷属のアンソスにはそれが理解できなかった。
なぜこんな素晴らしいものを利用しないのか。
この薬がどれほどの可能性を秘めているのかわからないのか。
女王の愚かしさに心の中で嘲笑した。
そしてついに権力を手にした時、アンソスは迷わずディオンと共謀してこの薬を大量生産することに成功した。
それは夏の国にも流通した。
天災で人心乱れたこの国では、この薬がとぶように売れた。
まさに予想通りにアンソスもディオンも莫大な富を手に入れる事ができたのだ。
「さて、どう落とし前つけてくれるんだ?」
燃え盛る赤い瞳は厳然と見下ろしてくる。
薬の効果かアンソスの気分は高揚し、先ほどの恐怖も消え去り声高らかに嘲笑った。
「ハハハッ!お前たちのような下品な国など知った事か!美の何たるかも知らんお前たちが!」
ジェットは表情一つ変えず、煙草をくわえ、指先で火をつける。
「所詮お前の支配がその程度だったってことだ夏の女王!!」
ふうっ、と煙を吐いた。
ごほごほとアンソスが咳をする。
「ん、ああ、すまんな、禁煙だったか?この国は…で、何の話だったっけ」
再び深く煙草を吸い、大きく吐く。
「ごほっ!くそっ、汚い煙を俺に向かって吐くな!汚れる!」
咳き込みながらアンソスはジェットを睨み上げる。
「はっ、はははっ!なにが美だ、くっだらねえ」
ジェットはのけぞって豪快に笑い、そして煙草をアンソスの目先で消した。
「そんなもの、何の価値もない」
厳然と見下ろす女王の瞳は赤く、それでいて冷ややかだった。
「だがお前の生き様を否定するつもりもない」
胸元から煙草を新しく取り出し、再び指先で火をつけた。
「ま、俺をここまで出張らせたのには、褒美を与えてやるよ、俺は実利主義だからな」
目の前には箱がいくつも重ねられている。
アンソスはいぶかし気にジェットを見上げた。
「俺と賭けをしようぜ、アンソス」
煙を吐き、にやりと笑った。
「三日後までに、眷属に返り咲けばお前の勝ちだ。見逃してやるよ」
アンソスはその緑の眼を見開く。
そしてつばを飲み込み、慎重に聞いた。
「で…できなかったら?」
「そいつぁ…」
目の前で煙草の火が指で消された。
「お前のその、ご自慢の美しい顔ってやつをもう二度と拝めなくなっちまうだろうなあ」
ひっ、とアンソスは悲鳴を上げる。
構わずその身体を跨いで、ジェットは入り口の扉へ大股で歩いて行った。
小さなナイフをその傍へ放り投げる。
「ああ、そうだ、お前ディオン=ベインの所へいくとこだったんだろう?」
ナイフを手に取ろうと慌ててアンソスが身じろぐのを振り返ることなく話すジェットにふと、その動きを止める。
「あいつ死んでるぜ」
「なっ」
アンソスは目を見開き、声も出ない。
ジェットはそのまま扉を開け出て行った。
「覚悟を見せろアンソス、それをどう使うかはお前次第だ」
夏の女王の言葉は闇へと溶け込み、そして消え去った。
取り残されたアンソスは急いでナイフで後ろ手の縄を切りほどく。
そして恐る恐る、その目の前に積まれた箱の一つを開けてみる。
そこには箱一杯にずっしりと緑色の石と金色の砂が詰まっていた。




