62 終わりの始まり(1)
「アリーシア…!」
息をきらし、その形相は今まで見たことがないほど切迫したものだった。
そのままこちらに大股で迫ってくる。
頬を打たれた記憶がアリーシアの脳裏を掠った。
それも仕方がない。打たれて当然なのだ。アリーシアは目を閉じ、静かにその時を待った。
しかしその頬には衝撃ではなく、固い胸板の感触だった。
そして気づいた。レイムナートに抱きしめられていることに。
それはいつものまるで壊れ物を扱うような優しさはなく力強く息もできないほどに、その顔を首に埋められている。
男の荒い吐息が耳元に強く響いてくる。そして息も絶えだえに、その低い声で囁いてきた。
「良かった…あなたが…私から去ってしまったのかと…」
その囁きは切羽詰まった悲しみと安堵と切なさが入り混じっていてアリーシアは何故か胸が締め付けられるような痛みを感じそして同時に混乱した。むしろ頬を打たれた方がいっそ理解しやすかったかもしれない。
「…お許しください…閣下…」
ただ目を閉じて俯き、心から謝罪するより他なかった。
ふっ、とレイムナートが悲しみと寂しさに陰る瞳で見つめてきた。けれど優しい微笑みはそのままで、アリーシアを腕に抱きかかえる。
「帰りましょう…皆心配しています」
その声音は穏やかで、怒りも蔑みも疑念さえ微塵も含まれていない。抱きかかえられたアリーシアは自分で歩ける事を訴えようとしたが見上げる男の表情があまりに悲壮すぎて、口を噤み、俯いた。
暗くしんしんと降る粉のような雪の中、ひっそりと静かな夜の道をただ黙々とアリーシアを抱きかかえてレイムナートは歩いて行った。
何も話す事はないのか、それともやはり怒っているのだろうか無言の侯爵にアリーシアもまた言える事は何もない。ただ、やはり自分で歩こうと少し身じろぎしてみると大きく広い手の平が、その腕と脚を力強く掴んで離そうとしない。仕方なく、その固い胸板に頬を寄せてじっと身を預けるほかなかった。
ふとその頬に、男の鼓動が響いてくるのを感じる。
それは規則正しくて、どこか早い。なぜか心が落ち着くとともに、気恥ずかしいような逃げ出したくなるような今まで感じた事がないふわふわとした気持ちが湧いて出てくる。
そうして暗い道をわずかに照らす明かりの元に、アリーシアは見た。
おぼろげに照らされた光に輝く、男の白銀に染まるその髪を。
(ああ…)
アリーシアは胸の中で深い吐息をついた。
やはり、あの白銀の鎧の男は、侯爵自身だったのだ。
アリーシアは目を閉じ、再びその胸板に頬を寄せた。
(…いっそ知らない方が良かった…)
そうすれば、心置きなく、侯爵邸もこの国も、去る事が出来たのに…




