5 冬の女王(3)
女王の自室は他の国と比べれば、非常に簡素といっていい。
据えつけられた鏡台も家具も必要最低限であって、その造りはむしろ貴族の類が所持するそれのほうがまだ金がかかっているといえる。
だがこれでも宰相が手を回した甲斐があって幾分マシになったほうだ。
宰相はもともと夏の国の男であった。
商才に長け何事にも如才なく振る舞う器用さと、したたかな権謀にも優れた非凡の持ち主であった。
そういう男が、交易のためある時この冬の国を訪れた。
正規のルートを経ていれば、どこの国の人間であろうとも何も罪に咎められる事はない。
ただ運が悪かった。街道を往く人々を襲う害獣の脅威にさらされたのだ。
害獣といってもそれは様々な獣である。
その中でもっとも凶悪な四つ足で真っ黒な巨体と石のように固い毛と牙と鋭い爪、噛み砕く力はあまりに強くあらゆる生物を容赦なく咀嚼する。
それは熊のような姿をしていた。
そして警備兵が駆け付けた時は既に遅かった。
害獣は殺戮の限りをつくし、とっくに姿を消していたし、血だまりでぴくりとも動かないかつては人であったり、馬であったり、貨物車であったそういう残骸の前に、救援に駆け付けた人々はその惨劇を前にしてただ虚しく立ち尽くすのみである。
そうした時、荷馬車の片隅から微かな物音がした。
急いで駆け寄ると、そこには血に濡れた稀少な狼の毛にくるまり震える浅黒い肌を持つ男の姿であった。
襲撃の時、咄嗟に男は高値で購入したこの狼の毛を被った、それは幾分獣の鋭い爪の衝撃を和らげる効果はあったが無傷ではいられなかった。
急いで男は近くの町の救護所へと移送されたが、非凡な男は強運の持ち主でもあったのだろう。
そこには視察に訪れていた女王の姿があった。
死に絶える運命であったはずの男は、冷たく何者をも寄せ付けない麗しいその姿に一目で惹かれ心奪われた。
男はその瞬間から夏を捨て、冬に生きる決意をしたのだ。
そののち、才覚を遺憾なく発揮しめきめきと頭角を現して、ついに宰相の地位まで上り詰めた男は、心の髄まで冬を統べる女王に忠誠を誓っている。
午後の会議まではまだ時間がある―
頭上に頂く氷の冠を静かに持ち上げ、ゆっくりと傍の書斎の机の上に置く。
それは何者にも代えがたき女王の証である。
透きとおる繊細な造りはいかなる熱をもってしても溶かすことは叶わず、中央にはめこまれたひときわ輝く大きな雫型の無色透明の氷結石は量産される同じ石よりも極めて純度が高く、光の加減で青く深く紫に色づいて、女王の権威と威厳を示すには実に効果があった。
ふと窓辺のほうに寄り、眼下に広がる風景を眺める。
視線が庭園の一角を捉えた。遠目でもわかる美丈夫な姿、銀色に輝く長い髪、後ろ姿であっても、すぐにそれと判別できる。
その姿の傍らに、ひときわ小柄な美しい娘の姿があった。
薄い水色の長い髪、その手元には冬の国にのみ自生する、可憐で小さな白い花を携え、恥じらいからか俯いている。
その花を娘は目の前の男に差し出そうとしているのだろう。
誉れ高く飛ぶ鳥を落とす勢いのある将軍はまさに引く手あまたである。
だが女王自身はその行く末に口出しすることは決してない。
なぜか唐突に、指先に口づけをしながら見据える男の銀色に光るまなざしが思い起こされた。
指先を軽く握り締める。だが、それだけだ。
とりたてて特別なことなど、何もない。静かに女王は窓辺に背を向けた。
それと同時に、庭園の男はかぶりを振り、ふっ、と上を見上げた。
その視線の先は、まぎれもなく、女王が眺めていたあの窓辺の方を。
彼女が、それに気づくはずもない。
長く、長く、冬の国を治め続けてきた。
その心はとっくに凍てつき、いかなる感情にも支配されることはない。
まして愛情の類など、元より持ち合わせているはずもない。
後悔などにいたっては、国を統べる女王にとって最も忌むべきものである。