45 新たな生活(2)
毒見の仕事を完遂し、食べ過ぎた…と言わんばかりに頬を赤く染めるアリーシアの手を取り、次にレイムナートが案内したのは書庫室であった。
四方の壁には大小さまざまな書物が美しく整然と収められている。
部屋の中央にはゆったりと読書が出来るような長いソファにふかふかのクッションがいくつも備えられて快適な空間である事は間違いない。
天井から差し込む光は明るく、水色の色調で統一された部屋の空気が澄み渡るようで心地が良い。
アリーシアは初め書庫室の掃除かと心の中ではりきっていたのだが、見回す限りどこも清潔でチリ一つ落ちていない。
「ここの本は何でも、自由に読んでいいんですよ」
そう微笑んでレイムナートはソファに据えられた小さなテーブルの上に置いてあった厚めの一冊の書物を手に取り、胸にさしてあった眼鏡をおもむろにかけると、腰をおろし静かにページをめくり始めた。
アリーシアは少し考え込んで、気づいた。
(そうか、閣下はここで私に勉強するように仰っているのだ)
子爵邸では使用人として働きづめだった。とても書物を読んだりなどする余裕など無い。
いくら替りとはいえ侯爵夫人となれば教養の無さは致命的だ。
知識の乏しい私に、正面から言及せずあえて書庫室に連れてきてくださるなんて、閣下は本当にお優しく親切な御方である。
(こんなにも素晴らしい方に愛されている奥方はお幸せな方だ)
胸の内で頷きながら、壁に収められている書物の背表紙を眺めていく。
ふと、10冊ほど同じ装丁の本がずらりと並んでいるのを見つけた。一巻目を手に取りパラパラとめくると歴史書のようである。それはこの国のみならず他国に関する事まで記されているようであった。
アリーシアはハッ、とした。
書物であれば知りたい事がわかるかもしれない。
たとえばあの白い山脈を越えたところに何があるのかということや、レイト嬢が話してくれた夏の国の白い御方について…
はやる鼓動を抑えつつ、まずはその一巻から読み始める事にした。
レイムナートは黙々とページをめくっていたが、実際は読んではいなかった。
眼鏡ごしにじっとアリーシアを見つめていた。
歴史書を手に取り、アリーシアは眼を見開いている。わずかに興奮したように吐息をついたかと思うとその一巻目を抱えソファに座り、真剣な面持ちで書物を開いている。白く輝く瞳には青や紫の光彩を放ち、ふせがちの薄く透明なまつげが目で字を追うたびにかすかに震える。
その光景は、彼女が女王であったころと何一つ変わらなかった。
女王の余暇はほとんどがひっそりと読書をしている事が多かった。
静かに本をめくりながら、一心に字を追い続けるその姿がレイムナートにとっては、この上なく美しく、そして寂しくも見えた。
(ほんの少しでもいい、その書物から顔をあげ、私の事を見てほしい)
溢れる思慕を抑えながら、女王が自分に気づくまでその居室の入り口でじっと待ち続けたりもした。
だが女王の瞳に彼の姿が映る事はついに一度もなかった。
その時、ふと目の前のアリーシアが顔を上げてレイムナートへ視線を向ける。
鼓動がどくりと跳ね上がった。
アリーシアの瞳にわずかな困惑が浮かんだがそれは一瞬で消え去り、かわりに敬愛に満ちたものが広がっていた。そしてわずかに目を細め微笑みかけたのだ。
思わずレイムナートは立ち上がり、そのままアリーシアを強くかき抱きたい衝動に駆られた。
すんでで自らの腕を抑えつけ、鋭く息を吐く。
呼吸を整えながら紅潮した目元を眼鏡をはずして指先で押さえた。そして再び視線をアリーシアにむけるとすでに本を読む事に集中している。
気がつくと日は傾き始めていた。
いつのまにこんなに時間がたってしまったのだろう。
アリーシアは本を閉じて傍らにそっと置き、目の前の侯爵に視線を向けると、長いソファにそのすらりとした手足を伸ばしゆったりと寝そべって瞳を閉じている。
常に厳然で如才ない侯爵がこんな風に無防備に寛ぐ姿に、アリーシアはすこし驚いた。
しかしここは侯爵の邸宅なのだからそれは自然な事である。
起こさないよう静かにアリーシアが立ち上がる。
そっと侯爵を伺うと黒いシャツからはだけた胸が呼吸にあわせて規則的に上下する。
(お疲れなのだろう…)
固く閉じた瞳とその流れる髪と同じく淡く薄い金色のふせられたまつ毛がかすかに震えている。
さらりとした額から頬にかけて、それは健康的なつややかさを感じるがどことなくかげり、疲れているようであった。
一房長い前髪がはらりと額に落ちて、かけていた眼鏡はずれて今にもソファからすべり落ちそうである。
寝返りを打てば眼鏡がおちて傷がついてしまう。
そう危惧したアリーシアはそっと静かに、その金髪にかかる眼鏡を指先で、ゆっくりと外していった。
その時レイムナートの瞳が開き、目の前のアリーシアの瞳と交差した。
男の瞳は見開かれ、その瞳孔は大きく広がり銀色のまたたきがちかちかと輝き始める。
薄く引き締まった唇から吐息のような囁きが漏れ出たがアリーシアには聞き取れない。
その長い腕が背中へまわされそうになった。
反射的にアリーシアは後ろへ素早く退く。
その拍子に、レイムナートは勢いあまって床に背中から落ちてしまった。
ドンという衝撃音と共に、ぐっ、と低い声が書庫室に響く。
両手で顔を覆ったままかすかに震える侯爵にアリーシアは心配げな表情で寄り
「閣下、眼鏡は割れていません」
と、至極真面目な顔つきで報告し、丁寧な手つきで眼鏡を差し出した。
いまだ顔を手で覆いながら、レイムナートは身を起こす。
そして片手で眼鏡を受け取り、いつもよりも更に低く掠れた声で応えた。
「……ありがとうございます」
その広い手の隙間から覗く男の頬は真っ赤に染まっていた。




