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44 新たな生活(1)

アリーシアにはゆっくり休んでもらいたい、とレイムナートは考えて誰も彼女を起こさないよう使用人たちに言い含めた。


朝日も昇り空が晴れて澄み渡ったころ、侯爵みずからアリーシアの部屋へいそいそと呼びに行く。


しかし、扉をノックしてもなんの返事もない。


さっ、とレイムナートの顔色が青くなった。


素早く扉を開けて部屋の中を見回すが、寝台に彼女の姿はなく世話をするはずのメイドの姿さえない。


もしや、と急いで廊下を駆けていく。

食事の用意が出来た事を告げようと同じく廊下を歩いていた執事の眼前に、顔面蒼白の見た事もない形相で駆けてくる主人の姿に、思わず声さえかけられず壁に張り付いた。

常に冷静沈着で冷厳ないずまいを崩す事がない主人が、あれほど取り乱して廊下を走るなど信じられない光景である。

同じく常に冷静な執事さえも慌てて追いかける始末だった。


外を出て、辺りを見回す。

息は乱れていないのに、鼓動は激しい。


(ああ…もしも、もしも彼女が私から去ってしまっていたら)


良からぬ不安ばかりが先立ち胸のざわめきが止まらない。


そうすると邸宅の裏のほうでメイド達の声が聞こえてくる。

急いで向かうとそこには


「奥様…っ、奥様、どうかお許しください…っ」


悲痛なメイドの叫びが聞こえてくる。

一体どうしたというのか。心を落ち着かせ、静かに歩み寄る。


そうしてその眼にとびこんできたのは


洗濯かごを持って今まさに洗い場へ向かおうとするアリーシアの姿だった。


「アリーシア…!」


慌ててレイムナートが駆け寄る。その後に執事もまた駆け寄ってきた。


「おはようございます、閣下」


はっ、と気づいたアリーシアは洗濯かごを傍に置き静かに礼儀正しく一礼する。


周囲のメイド達はうろたえながらも、一様に深く頭を下げる。


「一体何をして…っ、何をしているのですアリーシア」


思わず勢いこんで言葉が荒げそうになるのを一瞬ンッ、と抑え込んで笑顔で優しく問いただす。



「おまかせください閣下、私は洗濯は得意なのです」



アリーシアの顔がきりっと輝いてまぶしい。


(ああ…そんな顔まで見せて、なんて可愛いんだ…)


レイムナートの意識が一瞬遠い所へ行きかけるが傍の執事の存在に気づき、スッと再び笑顔でたしなめる。


「いけません…それはメイドの仕事を奪う事になります」


はっ、と気づいたようにアリーシアはメイド達を見やる。

三人ともとても身の置き所が無いように震えて俯いている。


「…ごめんなさい、私が軽率でした…」


うなだれてアリーシアは頭を下げた。

メイド達は慌てて首を振りながらしきりに涙目で奥様、と震えている。


(私はなんて愚かなんだ…皆にも閣下にも迷惑をかけて…)


少しでも働いて蓄えでもつくろうという浅ましい考えの結果がこれだ。


アリーシアはいつも通り、朝早く起床した。

そうして部屋の中を少し調べてみるとクローゼットを見つけた。

そこには青や薄い水色などの色合いが美しく豪華で繊細なドレスの数々が整頓されて収められている。これもすべて本当の奥様へと閣下が揃えたものなのだろう。どれも白い髪が映えそうなものばかりである。さすがにこのどれかに袖を通すことは出来そうもない。

働きやすく動きやすいお仕着せはないかと探してはみたがそうした服は一つも見当たらず、しかたがないので一番飾り気のない深い藍色のドレスを借りることにした。

心の中でアリーシアは本妻に何度も謝罪を繰り返した。


「お許しください…閣下…」


アリーシアは沈んだ面持ちで、再び一礼する。

その白く小さな手を、レイムナートは優しく手に取る。


「仕事ならあなたにぴったりのものがありますよ」


人を惹きつける笑顔を浮かべながら涼やかな目元にはかすかにいたずらっぽい輝きが微かにきらめく。

アリーシアはぱあっ、と顔を輝かせた。


(可愛い…)


レイムナートは口元を抑えて震える。

数歩離れた所で執事もメイドも、ほっと安堵したような面持ちで頷きあっている。



アリーシアはレイムナートに手を取られ、廊下を進んでいった。


(掃除は行き届いている…買い出し…はやはり無理だろうか?)


与えられた仕事であればなんでもこなしてみせる、そう決意を瞳に込めた。


レイムナート自ら扉を開くとそこにはさほど広くはないテーブルに、鮮やかな水色のクロス、その上にはひしめくほど豪華でさまざまな料理が並べてある。


はっ、とアリーシアは気づいた。


食事の給仕の仕事だとすぐに理解した。げんに閣下と二人、他には誰もいない。

給仕であれば子爵邸の時に何度もやった事がある。


(リナーチェは好き嫌いが激しくて嫌いな料理が出るとすぐに皿を床に落としては私が掃除していたものだ)


慣れた仕事にアリーシアは自信をもって静かに頷く。


すると侯爵がテーブルに添えられたふかふかのクッションがある豪奢な椅子をおもむろにひいて、アリーシアを呼び寄せた。

促されるままにアリーシアは椅子に腰を降ろす。

そのすぐ傍にもう一脚の椅子を引き寄せてレイムナートが腰を降ろした。


(…給仕の仕事ではない…?)


いぶかしげに首をかしげるアリーシアに、レイムナートは目の前の皿からみずみずしく黄金色に輝く果実を薄いハムで巻いたものをフォークで刺してアリーシアの口元へ運ぶ。


「さあ、どうぞ」


微笑んでいるが何故か拒めない雰囲気である。


アリーシアは逡巡し、そして理解した。


(これは、毒見…!)


なるほど、代役なのだから当然だ。


それならアリーシアにもできる仕事である。


(私の代わりはいても、閣下の代わりはいないのだから)


静かにアリーシアが小さい唇をわずかに開いて口に入れる。

口に入れた瞬間、黄金色の果実ははじけてその甘い果汁が口いっぱいにひろがり、同時にハムの新鮮な塩気がより甘さをひきたたせ、えもいわれぬ美味しさであった。


アリーシアは白い頬を紅潮させて、しきりにもぐもぐしている。

レイムナートは一瞬も目を離すことなく、つぎに分厚く焼かれたホットケーキにふわふわのクリームが乗せられたものを器用に一口に切って、差し出す。

それもまた外はカリッ、中はトロトロ、惜しみなく使われたバターの香りが鼻をくすぐって、クリームのあっさりとした甘さがまた絶妙な具合である。

一口に切られてもアリーシアの口には大きかったようでぷっくりとその頬が膨れている。


もぐもぐしている顔を、レイムナートは満面の笑みを絶やすことなく目を細めじっと見つめ続けていたがその紅潮したままもぐもぐと上下する白いぷっくりした頬と、あまりの美味しさにきらめく瞳の愛おしさに天を仰ぎ口元を抑え、震えながら悶絶した。


アリーシアは


(こんなに美味しいものを毒見でも頂けるなんて…)


心の底からレイムナートに感謝している。


それから、あれやこれや色んな料理をレイムナートはアリーシアの口へ甲斐甲斐しく運んだ。

毒見だと思っているアリーシアはそれを疑うことなく食べていく。


レイムナートは眷属となって、ある一つの事実を知った。


凍てつく氷の権能は、長い時間が経つにつれ深く身体中に染み込んでいく。


そしてそれは、味覚さえも、例外ではなかった。


女王は常に最低限の食事しかとらなかった。それも質素で、簡易的で、食べる事に全く興味がないようであった。将軍も、宰相も、少しは食べる喜びを知ってほしいと他国の珍しく美味な食材を手に入れては、女王へ献上し続けた。

だが一度も女王はそれに手を付ける事も無く、すべてを臣下に与え続けた。


ようやく己が身をもってレイムナートは知る。


女王の味覚は凍り付いて、もはや味さえわからなかったのだと。


目の前で瞳を輝かせて、白い頬を膨らませているアリーシアの姿をレイムナートはずっと見つめ続けている。


その目元は赤く、まるで涙が滲んでいるかのように蒼穹色の瞳は光でまたたき、かすかに揺らぎ続けていた。




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