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42 侯爵邸(3)


「…アリーシア…」


穏やかで優しいどこか寂し気で低い声が耳に甘く囁く。


はっ、とアリーシアは瞳を開く。


そうするとすぐ目の前には男の顔があった。

入浴したてなのだろうか、湯舟で嗅いだあの良い香りが鼻をくすぐる。


淡い金髪は月明りに照らされ鈍く輝き、その長い髪を無造作に後ろで束ねていて普段の整えられたそれとはまた違う雰囲気を醸し出している。

それは身にまとう服も同じで黒の薄いシャツは鍛えられた肉体の質感をより強調させ、硬い喉ぼとけからゆるくはだけられた胸元がちらちらと覗いて、なぜか直視できない。

同じく黒く厚めの下履きを履いた男の太腿もまた硬く、その太さの違いを見せつけるかのようにアリーシアの薄い水色で覆われたそのかよわい太腿に寄り添わせている。


あまりにも男の距離が近すぎて、アリーシアは動けなかった。


ソファにもたれてそのまま寝てしまったのだ。

寝顔も見られてしまっただろう。


なんら恥じ入る所はないが、なぜかそう思うと身の置き所がない気持ちになってどうにも落ち着かない。


「こんな所で寝てはだめでしょう?」


レイムナートは困ったような顔をしてまるでだだをこねる子供を叱りつけるように言うが、その声はあまりにも優しさに溢れていた。


(けれど寝台を使うのは本妻の方に申し訳ないから…)


とは言えないのでアリーシアは口をひき結び、瞳を伏せる。


「さあ、寝台でちゃんと寝て下さい」


男の腕が伸びてくるので、咄嗟にアリーシアは立ち上がり頷いた。

抱き上げられるような勢いだったからだ。


そのまま足早に寝台へ移動する。

振り返るとレイムナートが一瞬シュンと落ち込んだような顔をした気がしたが、気のせいだと思う事にした。


心の中でまだ見ぬ本妻に謝罪しながらアリーシアは寝台へと入った。


それはとてもすべやかなシーツと清潔で良い匂いに包まれた枕に、ふかふかの上掛けでとても寝心地が良い。

あまりの心地良さにもう一度心の中で本妻に謝罪した。


レイムナートは優しい手つきでその上掛けを整える。


「おやすみなさい、閣下」


アリーシアの唇から零れるような囁きが漏れ出た。

まどろみながらその瞳はぼんやりとかげり閉じかけている。


その閉じかけた隙間から侯爵のまるで虚をつかれたように目元を赤く染め見開いてる瞳が見えたが、そのまま意識は眠りの底へと落ちていった。


穏やかな寝息をたてるアリーシアの白い頬に男の繊細で長く節くれだった指先が震えるように伸びる。

それは寸前で止まり、触れる事はついになかった。


「…おやすみ、アリーシア」


耳元で吐息のように囁く。


そうして男は音もたてず部屋を出た。

そのまま扉を閉め、自室に戻るかと思われた。


が、そうはしなかった。


扉をうっすらと開き、その隙間からアリーシアの寝顔をじっと見つめている。


ようやく愛おしい人を見つけ出したレイムナートの胸は喜びで溢れそうなほどに満たされていた。

だがこの気持ちを記憶の無い今のアリーシアに受け止められるはずがない。それでもいい。


私の傍にさえいてくれれば、それでいい。


この屋敷も全てアリーシアのために用意したものである。使用人も全て信頼のおける忠実な者のみに厳選した。

あとはただ彼女が望む事も喜びも何もかも全て私が叶えてあげたい。


その為ならば何を犠牲にしても構わない。


ついに念願が叶ってこうして手の届く場所に彼女がすやすやと眠っている事がまだ信じられなかった。

手の平のかすかな雪のようにはかなく消えてしまうのではないかと急に不安に苛まれ、思わず焦って入浴を手早く済ませて部屋に駆け付けたなどと、誰にも言えない。


婚約から三か月経たなければ結婚出来ないのがこの国の法である。

今はまだ他人行儀だが、少しずつ彼女の警戒をといていけばいい。


そうすれば、いつか彼女の傍らで眠れる日が来るだろう。


レイムナートはそれから数刻、そのままじっとアリーシアの寝顔を扉の隙間から見つめ続けたのだった。


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