40 侯爵邸(1)
馬車が止まり、レイムナートのエスコートでゆっくりとアリーシアは降りていく。
目の前には落ち着いたグレーの外壁で統一された真新しく美しい邸宅があった。
その規模は子爵邸とは比べようもなく、外観はどこも手の行き届いた整然さである。振り返るとあれほど霞んで見えたあの白い山脈が、肉眼ではっきりと確認できるほどに間近にそびえたっていた。
レイムナートが優しく手を取り、邸宅のほうへいざなう。
広くそれでいてシンプルな造りの扉を、ひっそりと出迎えるように佇む薄い水色の髪を乱れることなく撫でつけた中年の執事らしき男性が、おごそかに慣れた手つきで扉を開く。
邸宅の中は淡い水色の色調で統一されていた。
過度な装飾も、無駄な調度品も一切ない。
子爵邸以外見た事のなかったアリーシアにはそれがひどく新鮮で、そしてとても心地よく映った。
山脈が近いせいか漂う空気は澄み渡り、息をするのさえ気持ちが良い。
邸宅に入ると同時に、その扉の脇に控えていたメイドらしき娘が三人、一斉に頭を下げた。
娘の髪色はそれぞれ水色、青色、藍色であり色素の薄い肌色である。
レイムナートはそのままアリーシアを目の前の階段へといざない、手をひきながら塵一つない廊下を渡ってつきあたりの大きな扉を自ら開く。
その部屋は広く、邸宅と同じく色は統一されていて整えられた2~3人の大人が横になれるであろう広い寝台と、美しく装飾が施された銀色に輝く大きな鏡台に小さなテーブルと大きなソファが備えられていていかにも快適に暮らせる空間のように思えた。
「ここがあなたの部屋です。足りないものがあれば遠慮なく言ってください」
レイムナートは静かにアリーシアの肩を抱いて優しく微笑みかける。
数歩ほど離れて佇む執事が恭しく一礼する。
その背後にひっそりと頭を下げたままの三人のメイドがしずしずとアリーシアの身支度を整え始めた。
「お腹は空いていませんか?何か食べたいものはありませんか?」
メイドたちに丁寧な手つきで鏡台の椅子に座らせられ、髪の毛を整えられるアリーシアにまるで親鳥が雛の世話を焼くがごとくレイムナートが話しかけてくる。
気が付けば外は暗く夜になり始めていた。
あまり空腹は感じられないので、静かに首を横に振る。
「それでは今日は疲れたでしょう。ゆっくり休んでください」
穏やかな笑みでレイムナートは部屋を出て行った。
執事もまた恭しく一礼をして扉を閉める。
メイド三人とアリーシアが部屋に残された。
水色の髪をひとつにまとめたメイドが頭を下げながら尋ねてくる。
「湯浴みをなさいますか?奥様」
奥様…まだ婚約したばかりなのにそのように呼ばれてよいものなのだろうか。
アリーシアは困惑したがそのメイドの声はとても丁寧で優しく、これまで受け続けてきた侮蔑の響きは微塵も感じられない。
それに身体を清められるのはとても嬉しい。
湯浴みは貴族でもかなり裕福でなければそう頻繁に出来る事ではないのだ。
子爵家ではリナーチェが毎日昼前ごろに起きて入浴の時間をたっぷりと取る。それにはまず水を貯めて炎力鉱で沸かし、良い温度に調節しなければならない。
そして洗った後の濡れた髪は緑風玉を砕いたものを布などで包んで振りながら乾かしていく。
この石は衝撃を与えると風を巻き起こすのである。時間も手間も財力もかかるものなのだ。
だからこそ、美を尊ぶ春の国の貴族は常に清潔感を重要視する。
汚れて不潔な匂いをまき散らす者は平民である証とされた。
当然、アリーシアはリナーチェと同じような湯浴みができるわけがない。
それで朝早く起きては川の上流まで行ってそこで身体を清めるしかなかった。
上流は滝もあり、その水は凍るほど冷たくて他の使用人は誰一人近づくことはなかったからだ。
部屋から隣の部屋へ促されるとそこは小部屋があってどうやら脱衣所らしい。
メイド達がなめらかな手つきでアリーシアのドレスの留め金を外してくる。
ドレスを脱ぐくらいの事は出来るので首を静かにふって押しとどめたがそうすると3人とも困ったように顔を伏せた。なんだか申し訳なくなってきたのでお願いする事にした。
そうすると同時に安堵したようにほっとして、ふたたび甲斐甲斐しくメイド達はアリーシアの世話に専念した。
さすがに入浴の時は一人になりたかったのでその後は丁寧に断った。
開けられた扉の中は全面が薄い灰色の石で敷き詰められ、中央にはさきほど部屋で真っ先に目に入った、寝台と同じくらいの広さの湯舟が設けてある。
そこは清らかでうっすらと湯気のある水で満たされていた。
手を入れてみると熱すぎずとてもちょうどいい。
それで静かに傍に据えてある桶で念入りに身体を流し、ゆっくりと身体を湯に沈めていった。
とても心地よくて、まるで夢でも見ているかのようだ。
浸かりながら色々と考える事が山ほどあったが扉の外ではメイド達が待っているのかもしれない。
ほどほどにきりあげて髪を洗おうと湯舟をあがると隅に仕切りがあって、ちょうど頭よりも上のほうから水が流れ落ちる仕組みになっている。
なるほど、これで洗うのか…と感動しながら備え付けてあった洗髪用の石鹸を手に取り泡立ててみるとうっとりするほど良い香りが鼻をくすぐった。
こんなにも快適な気分になったのは初めてだったのでこの婚約がたとえ偽りであり、ただの愛人契約であったとしてもアリーシアは侯爵に対して深く感謝をしたのであった。




