32 新たな婚約
「喜べアリーシア!!お前に縁談がきたぞ!」
普段はアリーシアに対して常に不機嫌な叔父が、驚くほど喜色満面で手を広げて迎え入れる。
朝起きて洗濯かごを抱えて川岸へ向かおうとした矢先の出来事だった。
破棄された数日後にまた別の縁談が舞い込むなど、いよいよもってアリーシアの頭の中は混乱する。
しかしうろたえる表情など微塵も浮かべず、ただじっと黙ってアリーシアは立ちすくんでいる。
それに構わずフルール子爵はまくしたてた。
「お相手はエンド侯爵様だ!侯爵だぞ?!お前などには破格のお相手だ!!」
それまでむっつりと白けた表情で座っていたリナーチェの表情がエンド侯爵の名を聞いた途端、ぱあっと輝いた。
そしてすぐに眉尻を下げ、驚愕しながら口元を抑える。
「まあ!エンド侯爵様ですって!?お姉さまが可哀想だわ!あんまりよ!」
うるうると次第に瞳をうるわせ、涙声に変わっていく。
「エンド侯爵様といったらもう70歳は越えるお歳じゃない!
それもあの北の辺境で害獣を駆除して爵位を得たおかたでしょう?」
それまでアリーシアはまるで他人事のような気分でいたが、北の辺境ときいてわずかにまつげを震わせた。
「それにすでに結婚なさってると聞いたわ、お父様」
とてつもない悲劇を語るかのようにちらちらとリナーチェはアリーシアを伺いつつ、目元を抑えながら父親の方へ駆け寄る。
「ふうむ、たしかにそういう噂もあるが、実際に侯爵夫人の姿を
見た者は誰もおらんからな…」
子爵はひげの残る顎をなでながら首をかしげる。
だがそんな事はどうでもいい、愛人だろうが愛妾だろうが侯爵家とつながる事が出来るのならば些細な事だ。
「フンッ、お前のような容姿でも良いという位だ。もしこれで
しくじってみろ。お前の戻る家などないと思え!」
指を突き付け吐き捨てる。
「見ろ、侯爵様のほうから頂いたのだぞ!」
鼻息荒く部屋に積み上げられた箱の数々を子爵は喜びを隠そうともせず手で撫で上げた。
そもそも婚約の際は格下の爵位の方がいわゆる持参金として格上に贈るのが通常である。
わざわざ格上が格下に持参金を贈ってまで婚約を持ち込むことはありえないのだ。
エンド侯爵は社交界にほとんど顔を出すことがない。
その顔すら見たこともない人々の口に上る噂といえば前エンド男爵が流行り病で逝去したのち、他国に長く遊学していた異母兄が継いだという事、そしてその他国で婚姻したらしいという事、北の辺境から流れてくる忌まわしい害獣の群れをたった数日で制圧した事
くらいなものである。
頻繁に社交界に顔をだすリナーチェですらその侯爵を見た事ないのだから、アリーシアでは言わずもがなであった。
贈られた箱の中には緑色の玉が大なり小なりずっしりと詰まっている。
その中に、一つだけ薄い平らな箱があった。
子爵が開けてみるとそれは一着のドレスのようだ。
「えっ、なあに?ドレス!?」
アリーシアを肩で突き飛ばしてリナーチェが駆けよっていく。
そのドレスの上には一枚白いカードがあって『アリーシア嬢へ』と一言添えられていた。
薄い水色のドレスだ。
リナーチェがはしゃぎながらそのドレスを自分にあててみるが、まずサイズが合っていない。
そしてそれは細身の身体をさらにスラリとみせるシルエットであったため、アリーシアよりも小柄なリナーチェではとても着こなせるものではなかった。髪の色合いとも、まるでちぐはぐな印象である。
「…エンド侯爵様って、センスいまいちなのね」
途端に白けた表情でドレスを床に放り投げる。
ドレスはシンプルな造りで特に豪華な宝石や繊細なレースがあしらわれているわけでもない。
「よかったわねえお姉さま、これで明日のお茶会にも行けるわね」
にっこりとリナーチェは微笑んだ。
それは些細な贈り物ではあったけどアリーシアにとっては初めて誰かから贈られたものであった。
静かにドレスを拾い上げる。
まだ顔さえ知らない相手だが、少なくとも北の辺境ならあの白い山脈をもっと身近に感じる事が出来るはずだ。
それだけで、アリーシアは心が浮足立った。
侯爵からの持参金の整理にアリーシアもかりだされた為、結局その日の洗濯は他のメイドがこなすことになった。
贈られたドレスは皺にならないよう、自室の壁に大事にかけておく。
それはなんの飾り気もないドレスであったけど蒼穹の色あいは美しく、アリーシアの白い髪をより一層映えさせた。一目で気に入ったのだ。
そして誰も見ていないので、ようやく、にっこりと微笑んだ。
その後リナーチェに呼び出され、お茶会のドレス選びでたっぷりと時間をとり、さらにアクセサリーにいたってはその我儘に振り回され、長々と手間をかける羽目になった。
それから残っていた掃除を済ませ、ようやく固いパンにありつき自室に戻れたのは月の光が漏れ出る時間である。
(今日もあの人に会えなかった…)
軽く溜息をつきながら壁を見やる。
瞬間、その瞳を見開いた。
震える手で壁にかけていたドレスを手に取る。
月明りでぼんやりと浮かび上がる、その鮮やかな蒼穹色のドレスはずたずたに切り裂かれ、見るも無残に、ただの破れはてたボロきれと化していた。




